国際機関就職支援 インタビュー 東岡 弘高 会員(2009年1月23日)

国連東ティモール暫定統治機構法務部での国連ボランティアとしての経験

Q 東岡先生は、日弁連の留学制度の第1期(1998年度)として、ニューヨーク大ロースクール(NYU)に留学されていますね。

※なお、日弁連留学制度の詳細については、 こちらをご参照ください。


はい。弁護士登録して、最初に働いた弁護士事務所が、ゴミの問題をやっていたこともあり、米国で環境法分野、とくに米国の連邦法であるスーパー・ファンド法などを調査研究する目的で留学しました。


Q その経験が、国連東ティモール暫定統治機構法務部で働くことを考えるきっかけになったのでしょうか。

東岡 弘高 会員写真1

そうですね。NYUでは、今でも電子メールで連絡をとり合ったり実際に東京やアメリカで会ったりするような友人も含め多くの学生、特に、JDの学生と知り合うことができたのですが、彼らの話を聞いていると、将来の選択肢として、法律事務所に入ることだけではないということが分かりした。


環境法のリサーチの一環として、環境庁(EPA)やニューヨーク市の環境課を訪問したのですが、そのとき応対してくださった方々はすべて法曹資格を持たれていました。スーパー・ファンド法制定の契機となったラブ・キャナル事件の現地を訪問したときに案内してくださった環境NGOの方も法曹資格を持たれていました。とにかく、アメリカではlawyerが、国の機関、役所、NGO、大学の図書館、民間企業、国際機関をはじめほとんど全ての分野で活躍していることに驚きました。


今では日本でも、弁護士が金融庁などの省庁で一定期間働くことや企業内弁護士(インハウス・ローヤー)になることも随分一般的になりましたが、当時、日本では、まだ少数でしたので、アメリカのlawyerが様々な分野で活動しているのが非常に新鮮に見えました。特にNGOで活躍されているlawyerの方々の話を伺っていて、法律家はこうした分野で、より活躍できるのだと思いました。


大阪では、弁護士になって数年すると独立して個人の事務所を構える場合が多く、私も留学前は、帰国後は独立して個人の事務所を構えるつもりでいました。ところが、留学中、アメリカのlawyerが様々な分野で活躍しているのを目の当たりにし、留学の期間も終わりに近づくにつれて、せっかく留学したのに環境法の講義の受講やアメリカの環境庁や汚染跡地等の訪問だけで終わるのでは物足らないように思うようになりました。そして、私もアメリカのlawyerのように今までと別の分野で働きたいと強く思うようになり、私の場合、国内で一般の法律業務をやりながら他の分野の活動をするより、むしろ、思い切って1年間、どっぷり「外の世界」に浸り、そちらに専念する方が性に合っていると思い、1年間だけ「外の世界」で働くことに決めました。


そして、どうせやるなら、できるだけチャレンジングなことをしてみたいと思い、発展途上国で働いてみたいと思うようになりました。私の場合、率直に言って、人道的な貢献をしたいというより、むしろ、チャレンジングなことをやりたいという気持ちの方が強かったです。


Q 国連東ティモール暫定統治機構法務部(2000年~2001年)に採用されるまでのプロセスはどんなものでしたか?

東岡 弘高 会員写真2

とりあえず一旦帰国して、国際NGOや国際機関のポストを探すことにしました。当初はそうしたポストもすぐに見つかると安易に考えていて、あまり時間の長くかかりそうでない事件や国選弁護、法律相談などを行いながら、発展途上国での仕事を探していました。日本の司法試験は他の司法試験より合格率もかなり低いので、日本の弁護士資格があれば、高額な報酬さえ要求しなければ、容易に仕事が見つかると思っていましたが、それは全くの誤解で、実際には非常に苦労しました。


インターネットで国際NGOや国際機関の求人を見て探していたのですが、なかなか見つかりませんでした。技術系の仕事の募集は結構多かったのですが、法律分野の仕事は募集自体も多くなかったですし、募集している仕事も関連分野での一定の実務経験や業務が可能な最低2カ国語以上の言語などが応募資格として挙げられていたりして、応募資格にひっかかるものすら、多く見つけることができませんでした。


それでも、国連ボランティアに登録したり、国連の採用ミッションが東京に来たときなどには面接を受けに行ったりしましたが、面接の際、一人で一般民事事件をやっていると言うと、事務所の大型化と専門化の進んでいる欧米人から見ると、私はプロフェッショナルとして全くアピールするものがないように写っていたと思います。


このように、仕事先は容易に見つかるだろうという当初の楽観的な状況から一転して、仕事先が見つからず、かといって、本格的な法律業務をするわけにもいかず、留学の時からまとまった収入もないまま、わずかな貯えもだんだん底をつきそうになっていました。そこで、あと2ヶ月して仕事が見つからなければ、発展途上国で働くことはきっぱり諦めて、国内業務に専念しようと決めました。

そんなとき、コソボの人道援助部門の国連ボランティアのオファーがファックスでいきなり届いたのですが、8日くらい後にコソボに入らないと採用は取り消される旨記載されていて、当時、国選事件などは何件かやっていたため、そんな短期間にコソボに入ることは事実上不可能なため、コソボ行きは断念しました。


東岡 弘高 会員写真3

その後は、採用のオファーが来たらすぐに現地入りできるよう、国選弁護もすべて受けないことにしたため、経済的には益々厳しい状況になり、そろそろ、諦めないといけないと思っていたときに、国連東ティモール暫定統治機構の法務官の国連ボランティアのポジションのオファーの可能性があることを国連ボランティア東京事務所から聞きました。ところが、ちょうどその話が進んでいる時に、東ティモールの国境付近で国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の職員3人が残虐な殺され方をしたため、私の採用の話もストップしてしまいました。


留学から帰国後、随分犠牲も払ってきて長い間待っていただけに残念でしたが、とうとう諦めなければいけないと思っていたとき、幸運にも、UNVの本部(ドイツのボン所在)が採用を決定してくれました。この時もやはり、採用のファックスが届いて8日以内に現地入が条件でしたが、そのために国選事件の受任もせず準備してきたので、8日後には東ティモールに入り、念願がかなって、2000年10月にようやく国連東ティモール暫定統治機構法務部に国連ボランティアとして採用されました。


結局、留学から帰国後国連東ティモール暫定統治機構の法務部での採用が決まるまで、1年数ヶ月の期間を要したことになります。


Q 国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)法務部ではどんなお仕事をされたのですか。

東岡 弘高 会員写真4

まず、UNTAETの他の各部門からの援助支援国やNGOと締結する契約のレビューやUNTAETの規則の解釈などに関する依頼があり、そのメモの作成を行いました。これは私にとっては、非常に大変でした。英語での業務経験もなく、UNTAET法務部のメモのスタイルも覚える必要があり、最初の頃は時間もかかり、原形をとどめないほど修正を加えられましたが、徐々に修正の箇所も減っていきました。


リーガルメモの中には、UNTAETの規則にもとづき、ある閣僚の資産公開を求めるメモのドラフトを作成したこともありました。東ティモールに既に閣僚の汚職防止のために資産公開の規則が存在していたことには、その先進性に少し驚きました。ただ、もしかすると、そこまでのものを最初から要求したのはハードルが高すぎたのかもしれません。


その後、UNTAETの規則のドラフトも担当させてもらいました。私がドラフトした規則は、社団、財団に関する規則です。当時、ある国際機関が東ティモールでマイクロ・ファイナンスのプロジェクトを予定していたのですが、そのプロジェクトを行うために必要な社団、財団に関する一般的な法律が、当時、東ティモールには存在せず、このプロジェクトを実行するために社団、財団に関する規則を早急に作成する必要がありました。規則のドラフトは、ゼロから作るわけではなく、国連の他のミッションや旧共産圏諸国の法律を参考にして作成しました。規則のドラフトは、メモのように一から英語の文書を作成するのと異なり、ベースとなる法律を東ティモールの状況に合うように修正していく作業ですので、論理的な部分さえしっかり意識していれば、むしろ、私のような日本人にとっては、メモより容易に思えました。


また、私の任期終了が近くなったころ、東ティモールと国際NGOとの間で、国際NGO活動に関する枠組みを合意する協定(Country Agreement between East Timor Public Administration and INGO)のドラフトの作成も任されました。この協定書も東ティモール人、国際NGO、政府間で何度もミーティングが重ねられ、時間も労力も随分かかりましたが、帰国前にようやくファイナルになりました。


※東岡弁護士の東ティモール当時の仕事の内容の詳細については、以下もご参照ください。
東岡弘高 「弁護士法廷外活動 東ティモール暫定行政機構法務部での経験」 Niben Frontier(二弁フロンティア)第13号(2003年2月)(通号236号)、第二東京弁護士会


Q 東ティモールで働く国際NGOや国連の人の考え方はどんなものでしたか。

UNVの場合、私のようにチャレンジングなことをしてみたいという人も何人かいました。UNVの場合、給料は支払われず生活費だけが支給されます。私が東ティモールにいた頃は、月2000ドルくらいでした。この金額を低いとみるか高いとみるかは、人によって異なりますが、途上国から来ている人からすれば、ボランティアというより高収入な仕事と考えていた人も多かったと思います。ただ、東ティモールでは、経費を抑える観点から医師や看護婦の業務の多くもUNVに任されていましたので、ボランティア精神も当然大切ですが、むしろプロフェッショナルとしてどれだけ東ティモールに貢献できるかが重要だと思います。国際NGOや国連職員の人も東ティモールにくる動機は人それぞれ違いますが、東ティモール人のために貢献したいという純粋な気持ちだけで来ている人ばかりではないことは当然です。ただ、動機や考え方より、東ティモール人を尊重しつつ、プロフェッショナルとして東ティモールにどれだけ貢献できるかが重要だという点はUNVと同様だと思います。


東岡 弘高 会員写真5

仕事面で、英語では苦労しましが、その他に印象的な経験として、社団、財団に関する規則制定の際、現地NGOとのミーティングの場で東ティモール人から国連に対する不信をあからさまに示す質問を受けたことがありました。この時、長い間、他国に不当に支配され続けた東ティモールの歴史の十分な理解と認識、東ティモール人との間の信頼関係の構築なく、仕事はできないことを改めて認識させられました。


私の場合、首都ディリの法務部でしたので、たしかに議論の場に東ティモール人がいることもありましたが、他の部署との交渉や書類作成の仕事が中心でしたので、自分の仕事が東ティモール人に役立っているということを実感しにくい仕事でした。しかし、そうした仕事も最終的には東ティモールに役立つと信じて私は仕事をしていましたし、UNTAETは、国連創設以来、初めて本格的に国づくりを手がけるという大プロジェクトで、しかも、それがアジアで行われているということで、そうしたプロジェクトに、法律家として関われたということ自体、チャレンジングでエキサイティングな仕事に携わる機会を与えられ幸運だったと今改めて思っています。


生活面では、私の場合、そんなに苦労を感じませんでした。現地に入ってみると、実際には、治安は良かったですし、食料もそれなりありました。ただ、選挙実施前に、暴動が起きる可能性があるということで、休暇をとって東ティモールから出る人もいたりして、一時的に緊迫したことはありましたが、実際には何もおこりませんでした。また、法務部の同僚が一度治安の悪い地域で襲われたことはありましたが、東ティモールの治安は良かったと思います。


生活環境は当然日本のようにはいかず、衛生面でも問題がありましたし、夜には定期的に停電があり、水道もよく止まり、トイレやシャワーに困ることもありましたが、私の場合、そういうことも、むしろ楽しんでしまっていました。


私の場合、私を家族の一員として扱ってくれる東ティモール人の家族、法務部や他の部署にも友人ができて、今でも頻繁に連絡をとりあって、ニューヨークや東京で再会したりもしていています。色々な国に生涯の友人が何人もできたことも私にとって貴重な財産となりました。


Q 帰国後には、不動産ファイナンス関連の法律業務をご専門にされていますが、どのような理由でそうした道を選ばれたのでしょうか。

2001年秋に東ティモールから日本に帰国したのですが、帰国が近くなるにしたがって、そろそろ焦りや不安を感じるようになっていました。NYUへの留学後約3年間まともな法律業務を行っておらず、日本の判例や新しい法律もまったくフォローしていなかったですから、同期の弁護士にも随分遅れをとっているのではないかという気持ちでした。そんなとき、インターネットで「不動産の証券化」という記事を見たのですが、読んでもさっぱりわからないスキームの説明が書いてあり、こういうことを同期の弁護士がやっているのだと思うと、自分もそうした新しい分野に取り組んでみたくなりました。当初は、東ティモールから帰国後は大阪で個人事務所を開業する予定でしたが、個人事務所の開業はやろうと思えばいつでもできると思い、それならば、これまでの遅れを取り戻すためにも新しい分野に挑戦してみたいという気持ちになりました。


そして、帰国後は東京の不動産ファイナンスをやっている米系の法律事務所をいくつか経て、現在はホワイト&ケース法律事務所で不動産ファイナンス業務をやっています。


Q 国連ボランティアとしての業務経験は、今の仕事にどんな影響を与えていらっしゃいますか。 

東ティモールでの業務経験が現在の仕事に活かされているかというと、もちろん法的な思考を使って仕事をしている以上、東ティモールの仕事に限らずどの仕事も役に立たない仕事はないと思いますが、直接的に現在の仕事に役立っていると感じたことは、実際にはないというのが正直なところです。むしろ、将来の業務に役立つか否かを問わず、国際業務に携わりたいというくらいの人にチャレンジしてもらいたいと思っています。


また、ブランクの点ですが、私自身、帰国後、法律の改正や新判例を知らないだけでなく、随分基本的なことも忘れてしまっていて浦島太郎のようになっていたことは事実ですし、今は法律改正のスピードなども速くなっていますので、ブランクを取り戻すのは大変であることは覚悟する必要はあると思います。ただ、この点は、米国などに留学され、その後に外国の法律事務所で研修される弁護士の方も同様だと思います。


Q 国際NGOや国際機関で働きたいと思っている弁護士へのアドバイスをお願いします。

国際NGOや国際機関の採用の基準は、各団体やそのポジションによっても異なると思いますが、円滑なコミュニケーション能力、語学力、その分野での経験が必要とされていることは、どこも同じだと思いますが、国際NGOや国際機関では、自己アピールが重要な要素になる場合もあると思います。謙虚さを美徳とする日本人には、これは大変かもしれませんが、その点は割り切って考えるしかないと思います。また、情報量や人脈が重要な要素となる場合もあると思いますので、日弁連の国際司法支援活動弁護士登録なども積極的に活用されると良いと思います。ただ、やはり、最後は本人の熱意だと思います。


私のUNVとしての東ティモールでの体験談は、東ティモールに行く前も帰国後も全く別のことをやっている弁護士であっても、熱意をもって諦めなければ、国際機関で働くということも不可能ではないということをまず、知っていただくためのものですので、興味のある方には、どんどんチャレンジしていただきたいと思います。


私のように1年という短期間だけ国際NGOや国際機関での業務を経験し、その後は通常の業務に戻るという選択もありますし、短期間ではなく、国際NGOや国際機関で専門的に働かれる方が出てきて、アメリカのように弁護士が様々な分野で活躍するようになれば良いと思っています。


お忙しいところ、ありがとうございました。