国際機関就職支援 インタビュー 須田 洋平 会員

Q 国際人権問題に興味をもったきっかけは何ですか?

須田 洋平 会員写真1
もともと海外に興味があり、外国で仕事することに憧れていました。特に、中学生の頃から洋楽を聞いていたのでヨーロッパに興味がありました。
人権問題ということになると、中学1年の時に起きた天安門事件やベルリンの壁の崩壊に衝撃を受けました。高校時代にはルワンダやユーゴスラビアの内戦があり、テレビや雑誌で生々しい映像を見て、強いショックを受けました。特にTime誌で目にしたルワンダで虐殺された死体の山の写真は、今でも鮮明に思い出せるくらい衝撃的で、国際人権に関わる仕事をしたいと思った決定打になっています。
大学生になり、周囲が就職活動を始めて一般企業への就職を決めていく中でも、「自分のしたいことをすることで、世の中にも貢献できるなんて最高だ。」と考えていたので、国際人権の仕事がしたい、という夢を見失うことはありませんでした。


Q 須田先生は英語だけでなく、フランス語、オランダ語も堪能とのことですが、語学力はどうやって身につけたのですか?

私は帰国子女ではありません。英語は、小学校の時に近所の方から習ったことがありましたが、基本的には中学校に入学してからでした。
フランス語は、大学に入学してから始めました。週5コマのインテンシブコースに入り、文学部生よりたくさん勉強していたのではないかと思います。
オランダ語は、2000年と2001年の夏に3ヶ月間、ベルギーでインターンをした際、独学しました。既に24~25歳になっていましたが、辞書やテキスト買い、現地ラジオやCDを聞いて勉強しました。


Q 大学4年生で司法試験に合格した後、司法研修所には行かずに、ワシントン大学ロースクールのJDコースに留学されていますね。弁護士になってからLLMという留学生用の1年コースに留学する人は多いですが、JDコースという、現地の学生用の3年コースを敢えて選んだ理由は何ですか?

いずれは海外で働きたいと考えていたので、そのためにはアメリカ人と対等に勝負できなければならないと思い、JDへの進学を決意しました。確かに、日本の弁護士を経験してから渡米する方法もありますが、逆に、若くて頭が柔らかいうちに海外を見ておこうかと思いました。
1999年3月に大学を卒業することになっており、その年の9月から始まるJDに入学するため、司法試験合格直後の1998年12月から大急ぎでLSATやTOEFLを受験して7校に出願、シアトルのワシントン大学ロースクールのJDに合格できました。


Q ロースクールではどんなことを学ばれましたか?

須田 洋平 会員写真2
1年目は契約法・民事訴訟法・不法行為法・刑法・憲法・財産法(基本7科目)と、”Basic Legal Skills”(法律書面作成や尋問技術のトレーニング)という必修科目を選択していました。
2年目には、国際人権法・刑事訴訟法・表現の自由などの人権分野の科目のほか、EU法・知的財産(著作権法)も履修していました。
3年目はカリキュラムがかなり自由となり、国際人権法のほか、”Street Law”という法教育のコースが印象的でした。これは、ロースクールの2~3年生の学生が、2人一組となり、地元の高校に週2回出張して法律の基礎を教えるという授業です。法を出発点としながら、高校生に必要な実践的な知識も伝授するコースで、高校生への教え方やスキルの解説を受けた後、自分達で50分間の授業プログラムを考案するのです。私のチームの場合、同性婚の問題を取り上げてモデルカリキュラムを作りましたが、契約の基本概念やDVについて取り組んでいたチームもありました。最後は1ヶ月くらいかけて準備して高校生による模擬裁判の授業も担当しました。
また、授業以外にも、Center for Human Rights and Justiceという国際人権のサークルを立ち上げて、映画上映会や講演会などの活動もしていました。折しもアフガニスタンの空爆の時期であったため、この問題を主な題材にしていました。
アジア太平洋地域に特化した法律雑誌(Pacific Rim Law and Policy Journal)の編集にも携わっていました。


Q 留学当時は、苦労もされましたか?

ワシントン大学ロースクールのJDコースは1学年150名でしたが、そのうち外国籍の学生は私と中国人の2人だけでした。
確かにJDのカリキュラムは本当に忙しかったですね。それに、私は帰国子女ではないので、やはり語学力の面でハンディキャップはありました。1日100ページ分くらいテキストを読んでくるよう宿題が出て、初めの頃は、朝から晩まで読んでも全然間に合わなくて、涙が出そうになる時期もありました。ただ、それを乗り越えた2年目以降、徐々に楽しくなってきました。
日本人の場合、「英語が出来ないからどうしよう。」とか、「授業についていけなかったらどうしよう。」といった懸念はつきものですが、とにかく飛び込んでみる「勇気」が第一だと思います。また余談ながら、同じアメリカでも西海岸の学校は、皆で助け合って皆で卒業しようという雰囲気があるようで、そういう雰囲気にも助けられたかなと思います。


Q ワシントン大学留学中に、2度、ベルギーのNGOでインターン経験をされたとのことですが、これはどういった経緯だったのでしょうか?

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ロースクール生の多くは、夏休み期間中、法律事務所で有給のインターンをすることが多いのですが、私の場合は学生ビザだったので、そういうインターンができなかったんです。それで、「だったら好きなことやってみよう。」と思いました。大学時代にフランス語を勉強したので、せっかくだからヨーロッパのフランス語圏で仕事してみたいと考え、フランスとベルギーを中心に、国際人権NGOをインターネットで探し、まずは5つのNGOにインターンをしたい旨を記載して履歴書をメールで送りました。すると翌朝、HRWF(Human Rights Without Frontiers)というベルギーのブリュッセルにある国際人権NGOから返事が来ていたので、即答しました。
そういうわけで、JD1年生を終えた2000年夏の3ヶ月、ベルギーでインターン生活を送ることになりました。



Q HRWFではどんな仕事をされたのですか?

HRWFは、様々な人権問題に関して、国際人権基準からの調査、分析を行うNGOで、私は信教の自由に関する調査を担当しました。当時、フランスとベルギーの議会が新興宗教に関するブラックリストを作成し、調査対象としていました。これが信教の自由に対する侵害行為に当たるのではないかということで調査したほか、リストアップされた宗教団体の実態についても調査していました。実は対象となった宗教団体には、日本に本部を持つ団体もいくつかあり、うち一つのベルギー支部の支部長にインタビューしました。他方、リスト作成に協力した議会側の活動家の話も聞き、双方の主張を踏まえて私なりの報告書を作成しました。
HRWFでは今でもインターンは募集しているはずで、英語で仕事ができて、論文が書ければ大丈夫だと思います。


Q 翌年の夏休みはどちらでインターンをされたのですか? 

須田 洋平 会員写真4
それまでベルギーに縁のなかった私が、HRWFでのインターンを通じて、ベルギーという国、そしてブリュッセルという街が大好きになりました。そこでもう一度ここに戻ってこようと考え、翌年、ブリュッセルにあるNGOのECAS(European Citizen Action Service)のインターンに応募し、採用して頂きました。
EU内では原則として移動の自由が保障されていますが、「公共の秩序」に反する場合には例外的な制限が認められています。このNGOでは、この移動の自由に不当な制限が課された市民のためのホットラインを開設していました。私の場合、最初にEU法の概略(人の移動の自由に関する諸権利や、ポルトガルで納めた年金をイタリアで受け取れるかなどといった社会保障制度など)を学んだ後、フランス人の弁護士の下について、一緒にホットラインにかかってくる電話を受けて市民にアドバイスをしていました。
折しも2001年夏のジェノバサミットに際し、反グローバリゼーションの活動家らが集結しようとしたのに対し、イタリア当局は国境検問でこれを排除しようとしたのです。死者も出した大きな出来事に関わりました。
このECASも、英語ができるロースクール生であれば応募できると思います。


Q ロースクール卒業後、今度はフランスのナント大学大学院へ留学されていますね。

ワシントン大学には欧州の大学との交換留学制度があり、欧州内の好きな大学で1年間履修することができるということでした。意外なことにアメリカ人の応募者が一人もいなかったため、私は応募を決意し、フランスのナント大学で学ぶことになりました。個人的には、JDでEU法を選択していたことや、ブリュッセルで2度のインターンを経験したこと、9・11テロ以降に愛国主義に傾斜していったアメリカの雰囲気への違和感などが志願動機でした。


Q  ナント大学ではどのようなことを勉強されたのですか。

国際法とヨーロッパ法を専攻し、国際経済法・EU社会保障法・国際私法・国際人権法・国際環境法などを受講していました。
当初の私のフランス語力は、渡米時の英語力にも及びませんでしたが、24時間フランス語漬けの生活を送っているうちに、3ヶ月くらい経ってから徐々に授業も理解できるようになりました。最後は70ページくらいのフランス語の論文を提出しています。フランス語ができることと、国際法の基礎知識が留学の条件だと感じます。


Q フランスで生活してみて印象的だったことはなんですか。

実際にフランスに暮らして感じたことは、専門知識よりも教養が大切だと言うことでした。日本人として日本文化を語れるか、国際情勢を押さえているか、といったことです。
また日本はヨーロッパの情報をロンドンから入手していますが、実際はEUの中心はベルギーのブリュッセルで、ドイツやフランスも重要なメンバーだと感じました。
ヨーロッパは、多様な国籍の人がいて、それが混ざった新しい文化ができつつあると思います。
アメリカとの違いで言うと、アメリカで常識だと考えていたグローバリゼーションの問題点を初めて知りました。フランスは物の見方が批判的なのです。またアメリカのような拝金主義ではなく、いかに人生を楽しむかに主眼があります。昼休みや日曜日にはお店が閉まり、郵便局の窓口にいくらお客が並んでいても3時になれば局員はコーヒーブレーク。弁護士も4週間のバカンスを取り、これらがいずれも受け入れられていました。慣れるまでは実に不便でしたが(笑)、いざ住んでみたら、「人間らしく生きるってこういうことかもしれない」と思うようになりました。
ヨーロッパの人は、平気で4~5カ国語を話すので、ヨーロッパで生活するためには、英語の他にせめてドイツ語かフランス語ができないと厳しいと思います。これから国際的な仕事をするならば、英語以外に更にもう1つの言語ができれば理想的です。


Q その後、アメリカに戻って1年間、ワシントン州最高裁のロークラーク(裁判官の助手)の仕事をされていますね。ロークラークにはどうやって採用されたのですか?

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私はもともと人に何か教えるのが好きなタイプだったので、いずれはアメリカのロースクールで教鞭を執りたいと思うようになっていました。そしてそのためには、(1)論文の執筆歴、(2)ロースクールの成績、(3)ロークラークの経験の3要件が必要と言われていました。そこでJD3年生のとき、ロークラークに出願しました。特にロースクールが斡旋してくれる訳ではなく、自力で探していったのです。
連邦裁判所のロークラークになるにはアメリカ国籍が必要ですが、州裁判所は州ごとに定められています。しかし私は連邦裁判所の国籍要件を知らず応募、全体で合計60人くらいの裁判官に願書を出しました。それぞれの倍率は200倍くらいで、うち5箇所からインタビューの通知を頂きました。最終的には、国籍要件のなかったワシントン州最高裁のマデセン裁判官が採用してくれました。あきらめず、ひたすら願書を送り続けた「物量作戦」が功を奏したと思います。


Q ロークラークの仕事の内容や,当時の生活について教えて下さい。

州最高裁は、上告されてきた事件について、受理するかどうかのスクリーニングを行います。そして事件が最高裁に受理されることになると、9人いる裁判官に対して、順に主任事件を配転していきます。1人の裁判官に対して2人のロークラークがおり、同様に事件が回ってきます。そしてロークラークは、受理された事件について事案や判例を分析し、口頭弁論に先立ち、どのような判決を出すのが望ましいかについて勧告意見を作成、全9名の裁判官に配布して口頭弁論に臨んでもらうのです。
私が最初に担当した事件は、ある橋を建設する計画(公共事業)に対し、反対グループが、そのための州債発行が憲法違反であると主張してきたものでした。根拠がないと考え、その旨の意見を出したところ、9人中8人の裁判官も同意してくれ、私の意見どおりの判決になりました。とても嬉しかったです。
このように、とてもやりがいのある仕事でしたが、勤務時間は9時から5時で、残業もほとんどなく、裁判所全体の雰囲気も、どこかほのぼのとしていましたね。私は車の免許がなかったのですが、自宅から最寄りのスーパーまで徒歩30分もあって、担当の裁判官だけではなく、最高裁の所長までが私を車でスーパーまで送ってくれたことがありました(笑)。


Q ロークラークの後は、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)でインターンをされていますね。

ロークラークは1年任期だったので、その後の進路をインターネットで探していたところ、ICC(国際司法裁判所)とICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)がインターン募集していたのを見つけ、応募したところ、採用して頂きました。30名の枠に700名が応募されていたとのことです。ここで6ヶ月間、勤務いたしました。
ICTYは3人の裁判官の合議体で、これを国連職員6名とインターン2名が補助し、合計11名がチームを組んでいました。
インターンの仕事は、公判廷で証人の話を聞き、判決文の基礎となる要約文を作成したり、裁判所の決定・命令に対する異議の採否を判断するにあたり、必要な論点リストを作成・管理したりするものでした。また「人道に対する罪」の構成要件の検討、ITCYが考慮すべき各国の証拠法や量刑について比較作業も行いました。
私が担当した被告人の一人に、「人道に対する罪」で起訴された、ボスニア国内のセルビア系スルプスカ共和国のクライシュニック元首相がいました。彼は、第一審では「人道に対する罪」の共同犯罪計画(joint criminal enterprise)で有罪判決を受け、現在は控訴中だと聞いています。ICTYは欧州各国と囚人受け入れに関する合意をしているため、有罪が確定すれば、いずれ欧州内のどこかで服役することになると思います。


Q その後、日本に帰国され、弁護士として勤務されている訳ですね。今はどんな仕事をされているのですか。

現在は都内の法律事務所で勤務弁護士をしながら、東京弁護士会の人権擁護委員会の国際人権部会で北朝鮮問題に、ヒューマンライツナウというNGOでカンボジアやビルマ問題に、それぞれ関わっています。できる限り国際人権分野を中心に活動していきたいと思っています。日本に籍を置きつつも、国際的に活動する姿勢だけは忘れないでいたいと思います。そしていつかはまた数年間、ヨーロッパに住んで仕事をしてみたいです。


Q 将来、国際機関で働きたいと思っている人に対してアドバイスをお願いします。

私の場合、まずは現地に飛び込んでしまって、その先で苦労しながら次の進路を探し当て、綱渡りをしてきました。他人から話は来ないため、先が見えずもがきながら進んできたと思います。
「思い切って飛び込む勇気」が大事です。自分には出来ないだろうと思うと本当に出来ないので、逆に、自分にも絶対にできると思うことが出発点だと考えます。
よく言われているとおり、日本人の弱点であるアピール下手を実感したこともあります。国際舞台では、いかに目立つかが重要なようです。インターン先に「私はフランス語がすごくできます」と書いて応募してきたアメリカ人をフランス語で面接したところ、会話が成り立たなかった、ということがありました。でも是非はともかく、それが通ってしまうのが国際社会です。
逆に日本の法律家の強みは、すぐに裁判に持ち込まず、話し合いにより粘り強く解決していくところだと思います。お互いが「満足」には至らないでも、「納得」して一区切り付けよう、と思う内容までもっていく訳で、禍根はさほど残りません。海外に住んで、人の恨みの怖さを知ったこともありました。ですから、日本の弁護士達のこの解決法は貴重で大切にしたいと思います。このような日本独自の視点や対応は国際機関でも重宝されるはずです。
実は日本の閉鎖的なところが嫌いで出て行った面もありましたが、6年間の海外生活を経て、自分が日本人であると感じることが多く、日本を好きになって帰ってきました。日本人には、自分さえ良ければ、自分さえ目立てば、という精神ではなく、どこかに譲り合いの精神、「美意識」があると思います。世界が小さくなっている現在、こういった美意識が海外に浸透していく可能性はあると思います。


どうもありがとうございました。