国際機関就職支援 インタビュー 毛利 峰子(2019年7月30日)

世界知的所有権機関(WIPO)職員、経済協力開発会議(OECD)でのJPO等の経験


Q 日本で弁護士活動をしていた時の業務内容について教えてください。

2001年に54期として知的財産と企業法務を二つの柱とするユアサハラ法律事務所に入所し、留学するまでの3年間働きました。当時、法律部、特許部、商標部、会計部とスタッフ合わせて所員約200人だったと思います。企業法務の分野では株主総会の準備や契約書作成等、知財の分野では、ライセンス契約、模倣品対策、侵害訴訟等を担当しました。特に印象に残っているのは、フランスの有名ブランドの偽物対策や、パリのパティシエの東京進出の仕事です。フランス人社長に同行して商社とのライセンス交渉に立ち会い、商標登録、会社設立、労務・人事等について、事務所内の各専門家がチームでサポートしたことも勉強になりました。今でもこの2つのブランドはとても身近に感じます。また、弁護士登録後まもなく、弁理士に対して弁護士と共同代理であることを条件として知的財産権に関する侵害訴訟代理資格を付与する弁理士法改正が行われました。弁理士が法廷に立つ前提として受ける国家試験と一体となる研修が行われることになり、3年にわたって、研修準備、教材作成、そして弁理士会研修所で行われる第一期生の講義のサポートを担当しました。その際、特許庁の研究会や委員会の委員を務め、東京・大阪・名古屋から集まった知的財産を専門とする弁護士の先生方と一緒に仕事をさせて頂くという貴重な経験に恵まれました。今に至るまで先生方との交流が続いていて感謝しています。



Q 留学に向けて国内で準備していたことはありますか。

就職前の事務所訪問の際には留学制度の有無、留学時期と海外研修の様子を尋ねていました。事務所に入所した後は、まずは日常業務に真摯に取り組み、法律家としての基礎と専門性を身に付けることを意識していました。外国のクライアントも多い事務所で、英語を使う仕事や、判例翻訳の仕事に携われたことも良かったと思います。また、少しでも国際関連業務に接したいと思い、所属していた第一東京弁護士会では外国弁護士や国際法律業務に関わる委員会に入っていました。



Q 留学中には、どのようなキャリアプランを描いていましたか。

留学先にカリフォルニアにあるスタンフォード大学のLL.M.を選んだ理由は、少人数制の知的財産法のコースがあったからです。2年間の留学の後は事務所に復帰予定でしたので、法律英語はもとより米国の知財制度やシリコンバレーの起業を支える法制度と精神をできるだけ吸収したいと思っていました。また、事務所の弁理士の先生方が出願業務を通して国際的なネットワークを築かれていましたので、私も留学中に各国からの法律家と親しくなり、帰国後はそれぞれの国の知財専門家として、情報交換や仕事でのつながり維持していきたいという思いもありました。LL.M終了後は、ニューヨークのユアサハラ法律事務所とご縁のある2つの法律事務所で研修させて頂き、ニューヨーク州弁護士の資格を取得しました。国連本部の北にある知財ブティック事務所での研修を終えて、企業法務を中心とする総合法律事務所で韓国系アメリカ人パートナーの下で研修をしている時に、夫が米国勤務を延長する可能性がでてきました。アメリカ人パートナーに相談して、アソシエイトとして事務所で勤務することも選択肢として考えるようになり、請求時間に応じてお給料を頂くようになりました。


一方、同じ時期に、ミュンヘンにあるマックスプランク(知財法・競争法・租税法)研究所から、ドイツの大学の博士課程で学びながら研究滞在しませんかとの誘いも受けていました。東京での弁護士時代から、研究所の機関誌に知財事件の判例を翻訳して投稿しており、米国留学前の夏には研究所に約2か月滞在して、職務発明制度の日独比較の報告書も提出していました。お声がけ下さった研究者の方の勧めで応募したミュンヘン大学の博士課程に合格し、指導教授も決まり、奨学金も頂けることになりましたので、ご縁と思い、ニューヨークの事務所に事情を説明して、ミュンヘンで研究生活を始めることにしました。博士課程に3年間在籍して、帰国後の知財実務に少しでも生きるようにと考えて日独米で全く違う理論構成で判決が出ていたキャノンのインクカートリッジ事件を論文のテーマとして選び、各国の法制度と判例を遡り、今回の事件でなぜ結論が分かれたのかを比較研究しました。



Q 研究所を経て、国際機関を目指したきっかけは何ですか。

博士論文を提出し、東京での仕事復帰の準備を始めた2008年に、夫がスイスに転職しました。そして、翌年、仕事のあてもなく、仏語も話せないままフランス語圏の街ジュネーブに行くことになりました。当時のジュネーブは対日のビジネスが減って日本国弁護士を必要とする事務所は見当たらなかったことに加えて、現地の法律事務所に勤務するためにはフランス語が必須でした。そこで、高校時代に関心を持ったことがある国際機関も視野に入れて就職活動をすることにしました。国連の専門職の仕事内容を比較し、知財専門家としてのバックグランドを生かせる世界知的所有権機関(WIPO)を目指そうと方向性を定めました。マックスプランク研究所の研究員から知人をご紹介頂き、自分でもWIPOをはじめとする国際機関やNGOの様々な方等を訪問して経験談を伺いました。当時、スタンフォード時代の友人3人が、国際機関やNGOで働いていて、その友人達からの助言ももらいました。ですが、そのうちに希望どおりの就職先が見つかるだろうとの考えは甘かったです。



Q 国連貿易開発会議(UNCTAD)でインターンをされていますが、どのようなお仕事でしたか。

ジュネーブで知財と公共政策に関する大きなシンポジウムに参加したとき、UNCTADの知財チームが人を探しているとの情報を聞き、将来の上司となる人に名刺もないまま自己紹介したところ、探しているのはインターンで、学生であれば応募資格があることが分かりました。幸いにも、当時まだミュンヘン大学の博士課程に在籍中でしたので、学生です!と即答して受け入れて頂けないかお願いしました。日本国弁護士資格をもつ人が無給のインターンで来てくれるのなら是非、と、UNCTADの知財チームで働くことになりました。UNCTADのオフィスは欧州国連本部にあり、その知財チームで、途上国に知財法制度を提言したり、途上国の裁判官のためのTRIPS協定のセミナーを準備したりするなど、Technical Assistance・Capacity Buildingの仕事に携わりました。これまで仕事をしてきた日米独等の先進国とは正反対の開発の視点から知財制度を考える貴重な体験でした。また、インターンを含めて法律家4人という小さなチームでしたので常に人手が足りず、TRIPS協定に関する出版原稿の校正を手伝い、ジュネーブで知財に関する会議があるとUNCTAD用のオブザーバーシートに座ってメモを取って上司に主要なポイントを報告するという仕事もしました。無給のインターンでありながら、国連の法律家と一緒に働き、ジュネーブの知財関係者の議論に間近に接したことは、良い勉強になりました。


インターンが終わり、博士課程も卒業した頃、UNCTAD知財チーム時代に一緒に会議を主催した部署の上司から電話がかかってきました。当時から私のことを見てくださっており、ニューヨークからの赴任者を待つ間の空席のポストがあるので、時間があるならば働きませんか、と、3か月の短期契約で呼び戻してくれました。その上司の下で、国際会議の事務局としての準備や、気候変動と技術移転に関する課題の報告を作成する仕事に携わりました。ですが、UNCTADはエコノミスト中心の組織で、法律家としてのポストを得るのは難しいと思いましたので、短期契約を一度更新して頂きつつ就職活動も続けました。



Q JPOとして、経済協力開発会議(OECD)に入られた経緯を教えてください。

私の就職活動用の履歴書が、個人的なネットワークを通じて、OECDで将来上司となる日本人女性に届いており、ある日、「OECDにも知財のプロジェクトがあるから貴方を採用したい。YPP等でどこかから予算を見つけましょう。」と誘いを受けました。そのお話を頂いたとき、弁護士登録して間もない頃に参加した日弁連主催の国際就職支援セミナーで、日本政府の経費負担で国際機関に派遣される外務省JPO(Junior Professional Officer)制度について説明を受けたことをふと思い出し、この機会にJPO試験を受験することにしました。35歳という年齢制限のあるJPOを受験できる最後の年でもありました。願書の希望欄にはWIPOを第一希望としましたが、合格通知には派遣先OECDと指定されていました。この理由は、マックスプランク研究所で博士論文執筆や研究者をサポートした経験が、OECDで必要とされる能力や仕事内容と合うと外務省の方が判断したからではないかと思います。JPO受験前から声をかけてくださっていたOECDの上司は大学教授として後進を育てることにも熱心だった方で、「これから国際社会で働きたいのであれば、是非OECDに来て知財のことを一緒にやりましょう。」と言ってくださったことから、これも有難いご縁と思い、パリのOECDに行くことにしました。


OECDでは、科学技術産業局に配属され、3つのプロジェクトに関わり、グローバルチャレンジと呼ばれる気候変動や国際保健の分野で知財が果たす役割、合成生物学と知財の問題、途上国の経済発展と知財制度というテーマについて、それぞれ報告書を執筆しました。特に3番目のプロジェクトでは、ドイツ人の女性エコノミストと一緒に仕事をし、経済学と法律学からの知財制度の考え方の違いについて日頃からよく議論をしました。プロジェクトの方向が決まった後に、二人で現地調査ミッションとしてインドネシアへ行って、行政庁、企業、法律事務所、大学、地方の農家等でインタビューを行い、レポートを仕上げる経験をしました。タフな仕事で睡眠時間を削ることもありましたが達成感がありました。


JPOの任期中、OECDに残ることも考えましたが、OECD内で法律家が多く活躍しているのは、国際課税やAnti-Corruptionの分野でしたので、残るのであれば違う専門性が必要なのではないかと限界を感じることもありました。国際機関の空席募集には世界中から同じ専門性を持ち競争心に溢れる候補者からの応募が何百と集まります。私の専門性はやはり知的財産法と考えて、WIPOの空席募集を常にチェックして願書を出し続けました。



Q 世界知的所有権機関(WIPO)でのお仕事の内容を教えてください。

2013年1月に、WIPOの特許協力条約(Patent Cooperation Treaty、PCT)オペレーション部門のマネージャーとして仕事を始めました。1970年に成立したPCT条約は、特許の属地主義の原則の下で世界各国での出願手続を促進するために、ある加盟国に一式の国際出願書類を提出することにより全てのPCT加盟国にも同時に出願されたとみなす制度です。特許出願手続きの時間的・経済的負担を軽減する制度ですが、最終的な特許の登録は各国内で行う必要があります。WIPO国際事務局のPCTサービス分野には、法律、翻訳、オペレーション部門があり、オペレーション部門は、加盟国から転送されてくる出願書類の方式審査、国際公開、及び国内段階に至るまでの記録管理を担当します。私はオペレーション部門で、17~20人のチームのコーディネータとなり、日々の仕事が滞りなく行われるよう計画し、法律の問題があれば法律部と相談し,システムに不具合があればIT部門と調整する仕事を担当しました。


このポストを受けた際のインタビューでは、管理職経験の有無について問われました。法律事務所やOECD時代にチームで仕事をしたことはありましたが、人事管理の経験はありませんでした。運よく合格できましたが、外部からWIPOに入り、部門の仕事を15年以上も担当してきた年上の職員をも部下に持つことになり、最初は苦労も少なくなかったですし、毎年2月の勤務評価の面接と人事評価書を作成する時期のストレスは大きかったです。


良かった点もあります。これまでの国際機関の仕事ではセミナーやレポート作成というアカデミックな仕事が多かったですが、オペレーションの仕事では、日々チームメンバーが出願書類を審査し、ユーザーの問合せに回答しますので、弁護士時代のようにクライアントがいる地に足のついた仕事だと思いました。最初の2~3年は、PCT制度と業務内容を理解し、マネージャーとしてのスキルを学ぶことに懸命でした。


昨年PCT法律部門のリーガルオフィサーの空席募集があった際、オペレーション部門も5年を超えていたので応募したところ合格通知を頂き、今年の3月から念願のリーガルオフィサーとして働いています。現在、PCT加盟国数は152か国で、その代表者が年に2回集まります。今年6月に初めてPCTワーキンググループに出席して加盟国代表による規則改正の議論をフォローし、今はリーガルオフィサー数人で改正規則施行に向けての準備をしています。また、加盟国やWIPO本部で開催される知財セミナーや大学の知財の授業での講義、様々なガイドラインの作成、各国知財庁からの条約・規則の解釈等に関する質問対応や、WIPO国際事務局オペレーション部門へのアドバイスも仕事内容となりました。



Q これまでの経験から、次のポスト獲得に向けて何か意識していることはありますか?

次のポストに就けるのは異動であっても部内の昇進であっても、運と縁によるところが大きいとは思います。候補者が組織内外からも応募してくるので競争は激しく、時には我慢が必要かなと思います。また、WIPOは他の国連組織のような地域事務所とのローテーションがなく、多くのスタッフが定年退職まで在籍するために人事異動率が2%と言われていて、その難しさもあります。


ポスト獲得にあたっては、自分の専門性を高めつつ、いろいろ経験しながら他の可能性にもアンテナを張って幅広くキャリアパスを考える必要があると思うので、法律家として関われる組織内の仕事は、ボランティアであっても引き受けたいと人事部に希望を伝えています。


例えば、昨年からWIPOオンブズマンのアシスタントであるConflict Prevention Relayのメンバーに就きました。WIPOは、人の流動性が低く職場の人間関係が長期病欠・欠勤等につながるケースも多いことから、オンブズマンに相談に行きづらい場合でも、身近なRelayメンバーが相談相手となる環境を用意して、問題の事前解決をめざしています。


また、今年の夏に2年の任期が終わりましたが、スタッフ規則を含むスタッフ関連全般について事務局長に対して提言を行うJoint Advisory Groupのマネジメント側任命のメンバーを務めていました。産休中の病欠の扱いや、出張が週末にかかった際の代休の導入の是非等をスタッフ側から選出されたメンバーと一緒に議論し、提案を報告書にまとめるので、仕事と並行のボランタリー業務としてかなり時間を必要としましたが、法律家としての経験が生き、また日頃会えない他のサービス部門のスタッフと知り合うことができました。



Q 今後のキャリアプランについて、どのように考えられていますか。

今年、リーガルオフィサーという肩書で仕事を始めることになり、ようやくスタートラインに立ったような気持ちもあります。まずは、オペレーションの現場での経験をフルに生かして、PCT部門の法律家として頼りにされる存在になりたいと思っています。特に米国人の上司がPCT条約の歴史と共に仕事をしてきた人で、上司の定年退職までの数年間の間にできるだけ多くのことを吸収したいです。そして、PCT制度運用も今後どんどん発展していくので、法律家として遅れをとらぬように質の高い仕事をすることを目標としています。また、マネジメントの仕事からは一時はずれることになりましたが、いつか大きなプロジェクトを任されてリードできるようなスキルや度胸も鍛えていきたいです。


国際機関でのキャリアは思い通りにならないことが多く、長期の具体的な目標をイメージしにくいのですが、今、WIPO内外に尊敬する法律家が何人もいます。10年後には、その方々に少しでも近付けるように努力したいです。

 

 

Q 国際機関で働く魅力は何ですか?

“Better Policies for Better Lives”はOECDのスローガンですが、国際機関は、世界で共通の問題に対して加盟国が協力してその解決のための政策を模索する場を提供していると思います。WIPOは知的財産に関する国連の専門機関として、人々の生活や経済の向上、イノベーションや創造性の発展に資するように、各国の知財制度をより良い形で国際的にハーモナイズすることを使命としています。特許の分野では、未だ先進国と途上国との間の政策の隔たりが大きく、委員会やワーキンググループの議論が座礁してしまうこともあります。コンセンサスで進むWIPOの委員会では、ある加盟国が強硬姿勢を貫くことにより何の進展も結論も得られないというセッションが続くことがあり、そのような時は無力さを感じることもあります。ですが、そのような場面で、事務局スタッフとしてとして議長をサポートし、各国政府が少しでも歩み寄れるよう働きかけることができる、そのような国際機関職員としての役割にやりがいを感じています。そして、その役割に幸運にもこれまでの経験を生かすことができています。例えばUNCTADで開発問題を考えたことは、途上国側の主張の背景を理解するベースとなっていますし、米国とドイツで働いたことから、先進国である欧州連合と米国の交渉の場での意見の違いを早めに見出すことができるように思います。


また、どの職場でも同じですが、どのような上司や同僚と仕事をするかが魅力につながることもあります。国際機関に勤務する多国籍のスタッフとの日々の交流には新たな発見や学びが沢山あります。そして、その出会いを通じてもっとスキルアップしなければと常に向上心を持ち続けられるのも魅力だと思います。



Q 国際機関を目指す、国内で業務をする弁護士に、これだけはやっておいた方が良いというアドバイスはありますか。

国際機関で法律家としての経験を生かせる場所は、国際取引法、知的財産法、国際保健、労働法、人権、移民問題、犯罪対策、ジェンダー、人事部、組織内検察官等々、多岐にわたるので、幅広く弁護士業務を経験しながら、国際機関で生かせる自分の専門性を高めていくのが良いと思います。また国際機関が募集するバックグラウンドに合うCV(履歴書)を意識して作ることも大切です。国際機関の募集要項に記載される職歴、スキル、学歴のうち自分に足りないものを調べ、それを補うように勉強し経験を積んでいかれるとよいでしょう。国際機関就職の第一関門は書類審査でshort-list(筆記試験・面接に呼ばれるグループ)に入ることです。初めての筆記試験に呼ばれるまでに、自分自身も覚えていられない程の数の応募書類を提出していることもよくあることです。また、組織内の候補者が有利と言われることがありますが、最先端の知識・技能の点では外の候補者が勝ることも多く、実際、人事担当者は、「Best Candidateは内外を問わない。外部候補者が優れていれば採用する。」と言っています。根気強く応募し続けて下さい。


そして、インタビューまで進んだら真剣に全力で臨んでください。たとえ応募したポストで採用されなくとも、選考試験とインタビューの成績が良く、マネージャーの印象に残った外部候補者に対してコンサルタントとしての声がかかり、その後正式採用につながったケースも見ました。困難な競争だからこそ全力で挑戦する必要があると思います。また、日弁連の国際就職支援セミナー等に出て日頃から情報収集をしておくことも大切です。



Q JPOを目指す時期と結婚、出産の時期は重なり、迷っている人もいると思いますが、どのように優先順位をつけてきましたか。

私は、留学する30歳で結婚し、36歳で出産しました。弁護士になった当時は、産休・育休は仕事に影響を与えるので、留学から戻り、仕事が落ち着いて余裕がある時期に出産したいと思っていました。ところが実際は、30半ばで、アウェイでゼロから就職活動中、そろそろ出産もしなければ、という状況に陥ってしまいました。どちらも諦めたくありませんでした。JPO試験に合格すると海外赴任となりますので、結婚・出産との優先順位を迷うという気持ちは良く分かります。私もJPOに合格した数か月後にジュネーブで出産し、予定されていた4月のJPOの派遣時期にパリに赴任することができませんでした。派遣先のOECDからは、既にプロジェクトが始まっているので、できるだけ早く参加してメモとレポートを書いてほしいと言われ、外務省とOECDに相談調整した結果、6~10月はOECDの予算でコンサルタントとして自宅で働き、その後、JPO派遣に切り替えてパリに赴任しました。

私は、ある時から、出産をするのに今がベストだと自分が思えるようなタイミングは(極端に言えば、永遠に)来ないのではないか、と考えていました。何時であっても自分にとっては良くないタイミングに思われ、家族・親と職場の理解とサポートなしでは前に進めません。そうであるならば、優先順位や受験控えを考えずに、仕事も結婚・出産も全て実現するのだと勇気をもって歩みを進め、状況に応じて周囲に相談し、協力を仰ぎながら乗りきっていくという方法もあると思います。自分の心に従って、飛び込んでみるのはどうでしょうか。

なお、発想の転換としてお話ししたいのですが、OECD時代の私の上司は、20代で3人出産した後に博士号を2つ取得し、大学教授、OECD科学技術産業局次長、内閣府総合科学技術会議議員と華麗なキャリアを歩まれた方でした。このような例もありますから、出産・育児を先行し、その後に社会参加したい女性の選択肢を応援する社会制度づくりもあって良いのではないかと感じています。



Q どのようにして子育てのサポート体制を築かれましたか。

OECDのコンサルタントからJPOとしてパリに赴任する時期に日本から母に助けに来てもらいました。最初は夫と子どもと母をジュネーブに残し、月曜日の早朝TGVでパリに出勤し、木曜日の夜にジュネーブに帰るという生活を続け、週の半分は夫と母で育児を乗り切ってもらうようにしていました。毎週月曜日の朝にジュネーブからパリに通勤する列車の中には同じ顔触れがあり、この生活スタイルも珍しいことではないと思ったのですが、体力的・精神的にかなり厳しかったです。結局、子どもと母にパリに来てもらって一緒に住み、家事・育児のサポートしてもらっていました。両親に感謝しています。


職場の女性達と話をすると、「朝食は夫と子どもの担当で、私は夕食担当。家族の中で最後に起床するのよ。」というように家庭内の仕事が分担され、女性だけが一人で頑張っている姿は日本より少ないように思われます。女性が社会に出る際には、家族全員で家事・育児をシェアすることが必要なのだと感じています。



Q お子さんの年齢に応じて困ったこと、工夫されたことはありますか。

現在、子どもは小学校3年生です。国際機関勤務のファミリーが半数を占める地元の保育園に通っていた頃は、朝8時30分から夜6時の時間帯に保育を利用していました。卒園後はインターナショナルスクールに通っています。将来、仏語圏のジュネーブに住み続けるのか分からなかったので、地元の小学校ではなく英語の学校を選択しました。また、週に一度、半日、日本語補習校に通って日本語を維持しています。「小1の壁」という言葉がありますが、インターナショナルスクールでは、年間通して4か月に近い休暇があることに加えて、行事、クラスの当番、面接、PTA等、学校へ呼び出される時間が勤務時間帯と重なり、働く親にとっては保育園時代と比較するとはるかに負担が大きいです。子どもの用事を予想し、決まり次第手帳に書き込んで早め早めに調整し、急用に対応できるような体力・時間も残しておきたいと思っていますが、最後に仕事で身動きが取れなくなることもよくあります。幸い、今の組織と部署の上司は、学校行事で仕事を抜けることや、子どもが病気で休暇を取ることを理解してくれる人です。


大変な思いをしている時、職場の先輩方が声をかけてくれることがあります。専門医のリスト、学校や先生との交渉方法、子育て全般、頼もしい女性の同僚達と話すと励まされ、ユーモアある会話に悩みが吹き飛ぶことがあります。そんな女性達の姿も私の目標になっています。



Q 最後に、若手弁護士に向けてメッセージをお願いします。

「国際機関で働きたい」と思ったことがありますか?もしもそのような夢を少しでも考えたことがあったとしたら諦めず可能性を模索して頂きたいです。日本国の弁護士資格を有することで信頼されることはありますが、それによって優遇されることは一切なく、競争は激しく、異文化の中で仕事をする日々には苦労も多く、決して楽ではありません。ですが、強い意志を持って努力をすれば道は開かれると思います。国際機関で働きたい動機、目標、やりがい、そこから得られる成果は人それぞれですが、客観的に自分自身を見つめなおし、世界の中で母国を考え、より良いグローバル社会をめざして仕事をすることは貴重な体験です。
能力と心意気のある若い日本国弁護士の皆さんが、勇気と希望をもって外に飛び出して下さることを願っています。




貴重なお話をありがとうございました。