国際機関就職支援 インタビュー 野口 元郎(2019年6月17日)

インタビュー実施時のお役職:外務省国際司法協力担当大使・最高検察庁検事

カンボジア特別法廷最高裁判事、ICC被害者信託基金理事長等の経験

※ インタビュー実施後の6月27日、野口先生は、国際刑事裁判所(ICC)締約国会議議長団会合において、新検察官選出委員会の独立専門家(ICCローマ規程締約国の5地域グループから各1名)として選出されました。


Q 野口先生は、国際刑事裁判所(ICC)被害者信託基金の理事長、カンボジア特別法廷(ECCC)最高裁判事、その前にはアジア開発銀行や法務省国際協力部で法整備支援等にも携わるなど、多くの国際的なお仕事を手がけて活躍されています。検察官に任官された時から、国際協力の分野を目指してこられたのですか。

当時国際関係の仕事をしようといったような計画があったわけではありません。任官(1985年)後10年くらいは、ごく普通に検察の実務を国内でやりました。新任検事を東京でやったあと、地方都市3か所勤務しています。当時は、国際関係の仕事なんてほとんどなかったのです。検察官に関しては、今でいう法整備支援のようなものもなかったですし、国際法廷なんていうのもなかったし、わずかにある海外勤務ポストは、大使館の一等書記官、アタッシェですね。それも今はだいぶ数が増えていますけれど、当時はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オランダくらいでしょうか。それから、UNAFEI(国連アジア極東犯罪防止研修所)の教官というポストは1960年代からありました。そのくらいしか、検察官には国際関係のポストというのがなくて、それも、国際関係の勤務は一生に1回というような時代でした。ですから、私が任官した当時は、それをキャリアパスに入れるといった発想は、全く出てくる余地がありませんでした。

Q 任官してから、ワシントンのロースクールに客員研究員として行かれたのは、ご自分で希望を出されたのですか。

はい。今は留学枠も、degree(学位)を取る正規のLL.M.、それから人事院の短期在外研究のような数か月のnon-degreeのものも含めると、(同期の検事から)数十名行くのではないかと思います。私の頃は、留学制度はありましたが、全てひっくるめても、一期に10名いなかったと思います。一つの期の人数が違いますが(1985年の検事任官者は49名、 2018年は69名)、ましてロースクール、私の場合はnon-degreeの visiting scholarでしたけれど、そういうものは一期で4、5名かな。今に比べると、当たる方が少ないという感じだったと思います。私は割に早くから希望していて、なんとか行かせてもらう機会があったということです。その後もまた、福島地検に勤務してますから、また現場に戻っているわけです。

留学先では、アジア法プログラムというLL.M.のクラスに籍を置いて、ダニエル・フットさん(現在は東京大学大学院法学政治学研究科教授)が、当時ワシントン大学のアジア法プログラムのディレクターをしていました。その方が指導教官みたいな形でおられました。


Q 国際的な分野の仕事をするきっかけは何でしたか。

直接には、福島地検のあと、法務総合研究所に異動になりまして、その時点では検事や副検事の研修の指導教官だったのですが、ちょうど法整備支援のいちばん最初のころの時期に当たりました。日弁連で言えば、上柳敏郎先生とか矢吹公敏先生、そういう先生方が、名古屋大学の森嶌昭夫先生などと一緒に、カンボジアやベトナムに行かれていたいちばん初期のころでした。それで、私は留学して英語も多少できるということで、検察官の研修の指導教官から法整備支援担当に、内部で担当を変えられました。それが、直接のきっかけでしょうね。通常の異動のサイクルの中で、たまたま法整備支援の立ち上げ期に遭遇して、そこで4年間、関与することになった。

当時は法整備支援といっても、インドシナ3国(ベトナム、ラオス、カンボジア)だけです。森嶌昭夫先生が学者として立ち上げられていた起草支援のプロジェクトがJICAの国家ベースの事業にだんだん拡大していった時期ですね。

当時は今に比べると規模も小さく、長期専門家もまだろくに出ていない。ラオスなど私がいちばん最初のファクト・ファインディング・ミッションに名古屋大学の先生と行くなど、おそらく私がいちばん最初の短期専門家の一人です。2、3年かけて長期専門家を出そうという時期ですね。その頃にやったことが、今20年余りも経って、矢吹弁護士の時代から、今の若い人に受け継がれているわけです。


Q 国もJICAも弁護士会も一緒に連携してやるのですね。

そうです。この事業に関しては、本当に最初から法務省、裁判所、学会、弁護士会も、オール・ジャパンと言っていますけれど、それぞれの専門性、経験に基づいて提供できるような体制を組むようにしていまして、その元々の発想は全く変わっていませんね。

私個人については、その法務総合研究所で4年間法整備支援をやった後、マニラのアジア開発銀行の法務部に4年間出向しました。そこが一つの転機だったと思います。国際機関での最初の仕事でした。


Q 検事としてのご経験などは、法整備支援、またその後のお仕事の中で、どのように役立っていますか。

プロフェッショナルとしてのコアの部分、私の場合は検察の国内法実務でしたが、それはその後、あらゆる仕事をやるにあたって、基礎力になっています。法整備支援の場合は、相手は昔でいうと途上国、今でいうと移行経済国やtransitional justice の国が多いのですけれども、何か自分がプロフェッショナルとしてシェアするものがなければいけないわけで、そのためには5年、10年といった経験が必要です。大学で教えていると、学部もしくは大学院の段階から法整備支援をやりたいという人も多いのですけれども、それはなかなか簡単ではありません。何かしばらく実務について、それで人に伝えたいと思うものが蓄積してこないと、発信すべきものがなかなかない。純粋な学者として理論を教えるのであれば別ですが、実務家として関与する場合には、それぞれどんな専門性でもいいのですけれど、シェアすべきものが蓄積されるまで最低でも3年、場合によっては5年か10年経って初めて、そういう気になる人も多いと思うのです。


Q ただ法曹資格を得たというだけではなく、まずは自分の仕事というものが積み重なって、これは海外でも活かせるのではないかとか、伝えたいという目的を持って、それを伝えに行くということですか。

もちろんインターンとか早いレベルで、そういう活動に関与する意味合いを否定するわけではありません。まだ実務家としてスタートラインにいる段階で、インターンをすることはもちろん意味がありますけれど、例えば長期専門家みたいなレベルで関与するとなると、ある程度、百戦錬磨の実務経験がないと、ああいうところで日々生起する、あらゆるトラブルを含めた予期せぬ状況に、適切に対処することはなかなか難しい。場数を踏んでいる、ということも、相当物を言うので。

フルタイムで法整備支援に従事するレベルであれば、相当の経験がやっぱり必要であろうということですね。

法整備支援の現場で、先方が求めているものは、もちろん理論的なものも含みますけれど、向こうも原則として実務家ですから、多くの場合理論は一応分かっていて、実際にそれをどう適用するのか、運用していくのかというところで、知識経験が求められるところが多い。まさにそのために我々実務家が関与しているわけです。こちらがその理論をどういうふうに運用してきたか、その時にどういう障害や問題点があって、それをどういうふうに工夫して克服してきたかといったことがいちばん求められ、それはやはり自分の経験から来ざるを得ない。

かなり突っ込んで深く聞かれた場合に、自分が直接分かっていることでないと、答えきれないですね。自分が基本書などで聞きかじっただけで、実は実務がどのように動いているか知らない場合には、表面的なことは答えられますけれど、詳しいことは分からないということになると思います。


Q 一般民事でも企業法務でも、自分のやってきた分野については伝えられる・協力して提供できるものがあるということですか。

はい。そういう意味で一人の専門家があらゆることをやるのは無理だから、さっき言ったオール・ジャパンでの役割分担をフル活用しながら、なるべく自分の専門性に近いところで活動できるように、JICA側でも配慮しているわけですね。


Q 家庭と仕事のバランス、生活面・健康面などで、ご苦労されたことはありますか。

私はADBに勤務してマニラに赴任した頃までは独身だったので、小さい子どもを連れて途上国に赴任するような苦労といったものは、経験していません。外務省では、そういった人ばかりのわけですが。カンボジア特別法廷(ECCC)に勤務していた頃に子どもが生まれています。ECCCでは、私は控訴審(二審制のため最終審)の判事だったので、常駐する業務量ではなく、現地に年単位で住んでいるということはなかったのですね。と言っても30回くらい通いました。

カンボジアや、最近までやっていたICC被害者信託基金(Trust Fund for Victims)理事長の仕事などでは、衛生的にも治安的にも、脅威のある所にも行くことがありますので、やはり注意はします。カンボジアの時は、国連のボディガード、Close Protection Officerという国連職員で許可されて拳銃も持っている人がいつも付いて護衛してくれて、そういう意味では一種の監視下に置かれていました。通勤なんかも装甲車というと大げさですけれど、armored vehicleに乗っていました。6年間判事をやって、危ない目には遭いませんでしたけれども、トップ・ドナー国が送り込んだ判事であるということもあって、少なくとも国連から見れば、狙われやすいターゲットのひとりであった、こいつをやれば法廷が立ち行かなくなるという、攻撃上有効なターゲットのひとりであったということはいえると思うのです。私だけではなく、首席検察官も、high-risk individualとして同様だったと思います。


Q 実際どなたかが襲われる事件はあったのでしょうか。

いえ。同僚の判事で、政治的な動機とは関係なく、ひったくりに襲われたとか、そういう事故はけっこうありましたけれど。政治的なテロみたいなものは、幸いなかったと思います。


Q 生活面、健康面で大変だった時期やお仕事はありましたか。

そうですね、やはり常駐しないということは、日本での役所の仕事と掛け持ちでやったということなので。ECCC判事の間はUNAFEI教官と兼務していました。ある時期以降、ほぼECCC判事の仕事に専従に近い形で、そちらを優先させていいという形でやらせてもらったので、あまり無理をすることもなかったですけれど。最近やっていたTrust Fund(被害者信託基金)の仕事では、一時、大阪で国際協力部長をやっていた2年足らずと丸々重なっておりましたし、その後も最高検で、公判部の検事として普通に仕事をしていましたので、出張を含め、兼務がなかなか大変だったという時期はありました。


Q それは大変でしたね。

そうですね。そういう意味では、国際協力部長の時がいちばん、物理的には大変だったと思います。国際協力部が大阪にあったために、海外出張がなくても、しょっちゅう東京と大阪を行ったり来たり。当時、法整備支援が国会で取り上げられることも多くて、内閣府、首相官邸での研究会とか党の勉強会とか、その手のことにけっこう呼ばれることもありました。

中央官庁の役人は霞ヶ関周辺にいることが想定されているので、「明日何時に来い」などと気軽に言われるわけですけど、うちだけが中央官庁でありながら大阪にいたので、月に何回も新幹線で往復するようなことがありました。それから海外出張も年に数回入っていました。

国際協力部の部長は、それだけでけっこう忙しい。夜もレセプションとかが入っていることも多いし、海外出張も、カンボジア、ラオス、インドネシアとか行きました。ですから、その時期がいちばん物理的に大変だったかもしれませんね。

国際協力部が法務総合研究所内にできたのは2001年4月です。十数年間大阪でやっていて、昨年UNAFEIと共に、昭島の新しいセンターに移りましたので、もう大阪を引き上げてきました。


Q カンボジア特別法廷(ECCC)について伺います。ECCCとは、1970年代のポル・ポト政権時代の国際人道法違反等の犯罪の刑事裁判を行う特別法廷で、カンボジアの法廷だけれども、国連を通じて国際的な支援を受けて、カンボジア人と各国の法曹とが協働する、ユニークな法廷ですね。野口先生のお仕事は、どのように始まったのでしょうか。

私がカンボジアで従事していた仕事は2種類あって、一つは最高裁判部のchamberでの裁判業務。もう一つは、裁判所の司法行政事務への関与ですね。私はCase 001と言われる事件、プノンペンにあるS – 21(現在トゥールスレン虐殺博物館になっている刑務所)の収容所長の事件の控訴審判決まで書いて、辞任したのですが、控訴審にかかっていた時期は2年くらいだったと思います。全部で6年くらい判事をやっていたわけですが、控訴審の審理に入る前は何をやっていたかというと、まず最初の1年は、裁判官会議で刑事訴訟規則に当たるInternal Rules(内部規則)というものを創った。それで初めて逮捕状を出し、身柄を拘束したりできるようになったわけです。Internal Rulesはかなり何度も改訂したのですが、私はそのRules Committee(規則制定委員会)の委員でした。

それから、当時法廷も物理的に存在しなかったので、法廷の建物を設計するところからやったんですけれど、司法行政委員会を裁判官団の中に作り、判事のうち数名がその委員として仕事に当たった。私はその国連側委員にもなっていました。最初の頃は、捜査判事以外誰も国際判事が現地に常駐していなかったために、司法行政が十分に監督できないということで、国連側から誰か一人、Resident Judge(常駐判事)を出して、司法行政に集中させようということになって、結局私がその役回りになりました。ただこれは、最終的には国連との間で予算に関する折り合いが付かなくて、常駐はできなくて、通ったんですけれどね。この年は年に9回くらい行っています。ほぼ毎月のように通って、処理したということです。

司法行政というか、裁判所の文字通り設立というか。本当に物理的に法廷を作るところから、裁判所の仕事ができるようになるまで、何年かかかってやりました。その方が、時間的には長くやっていたんですね。

Q カンボジア特別法廷は、国際法廷としては、国連とカンボジアが協力しているところが特色だと思うのですが、制度の特色などを教えていただけますか。

一つには、カンボジアはフランスの植民地だったので、刑事訴訟法もフランス法の影響を非常に強く受けていたということがあります。ただECCCの扱う事件は、特殊重大事件だったので、刑事訴訟法をそのまま使ってもうまくいかないという扱う事件の特殊性と、もう一つは、国連とカンボジアの合同運営であって、検察官・裁判官・弁護人とすべてにわたって、カンボジア側と国連側と二重構造になっているという特殊性のために、特別なルールを要したということですね。それで先ほど申し上げたInternal Rules という、テーラーメイドの刑事訴訟規則を作ったわけです。


Q その時一緒にお仕事をされたカンボジア人の法曹は、内戦を生き延び、内戦の後に法律的な教育を受けたりして、法曹となられた方ですよね。

年齢的にいちばんシニアの判事の場合、2005年にECCCが始まった時点でもう60近い人もいたと思うのですね。そういう人たちは、西洋的な法教育は受けていない。カンボジア側の検事や判事は、シニアと若い人が半分ずつくらいですかね。シニアの人は、ロシア(当時のソ連)とかベトナムとかに留学していた人が多い。いずれの裁判部(chamber)でも、裁判長クラスは、旧社会主義国で教育を受け、またはどこにも留学していない。農学博士など、法学部を出ていない人もいましたね。若手の判事は、英語圏に留学していた人も多い。中には名古屋大学へ留学した人もいました。そういう人たちは、西側の法教育を受けているわけですけども、当然のことながら裁判長クラスにはなっていない。

広く知られている通り、ポル・ポト時代を経て法曹はほとんど生き残っていなかったので、その時点で十分な判事のプールはなかった。


Q カンボジアのシニアの法曹が社会主義国に留学されていたことは知りませんでした。かなりバックグラウンドが違う人たちが、議論してやっていくのですね。

はい。カンボジア側判事の若い人たちのグループは、かなりの割合で、法整備支援の文脈で日本を訪れたことがある人たちでした。具体的には、私が1990年代の末に法整備支援の立ち上げに携った頃、カンボジアから研修員として来日して、私がお世話したような人たちが、5人くらいいたのかな、と思います。  だから、法整備支援プログラムで来ていた人たちは、非常に優秀な人たちが選抜されていたとも言えるし、法整備支援プログラムに参加した人たちが、その後順調に出世して、国際的な場面でも出てくるくらいになったとも解釈できます。もしくは、元々のキャパシティー(人材)の少なさも感じますが。


Q 以前に教えた人たちが活躍し、一緒に仕事をすることになるのは、先生にとってもとても感慨深いことですね。

そうですね。そういう意味で私は非常に、他の国際判事に比べて、やりやすい位置にあったと思います。赴任した時点で、半分くらいは昔からの知り合いでしたから。彼らも、日本という国、そして私個人についての信頼が、その時点で十分にあり、私は非常に恵まれた立場にあったと思います。長年日本政府がやってきたことへの信頼が、そういう面でも出ているということですけれどね。


Q 国連側というより、長年パートナーシップを築いていた日本人ということで、親しみを持ってもらえたんですね。

はい。それは多分にあると思います。特に旧宗主国のフランスとの間では、いろいろ微妙な感情もありますからね。フランスとか欧米に対する感情と、アジア、特に日本に対する感情とは、かなり違うものがあると思います。


Q 法整備支援のやり方でも、日本は他国に比べて、相手国のニーズを聞いて寄り添う形でやってきたとお聞きしました。

カンボジアの法整備支援活動を二十何年やってきて、その評価については、また別途難しい問題もいくつかあると思います。最近カンボジアはむしろ民主主義が退行しているのではないかとして、欧米から非難をされる場面も出てきています。法整備支援を二十何年もやっていて、どうしてこういう結果になるのかというご批判もあるわけで、なかなか簡単ではない問題もあると思います。

ただ、カンボジアに限らず、日本の法整備支援はそういうアプローチを採ってきたことは間違いありませんし、それは多分今後も変わらないだろうと思いますね。何かプロダクツを一方的に与えてこれを使ってくださいというのではなくて、一緒に作るということですよね。我々がいなくなっても、自分たちで作れるようにということも視野に入れて、最初は一緒に作っていく。そのために一緒に考えるということです。

この部分については、学者の先生の功績が非常に大きいわけですけれど。一つの起草支援をやるためには、数十回、民法では百何十回など、非常に多数の会合をもって、粘り強く、時間をかけて一緒に考えて、作り上げていきました。ですから、その後、カンボジアは、かなり自分たちのイニシアティブで改正したりしています。それができるように、やってきたつもりです。


Q ECCCの初期は、個別の事件処理より前に、まず裁判所を作らなければいけなかった。振り返ってみると、そこに、野口先生のような法整備支援の経験もある方が行った、ということの意味は非常に大きいような気がします。

ECCC自体は、最初の1年を経て、捜査は開始されて、翌年にはもう身柄を拘束しているわけですから、実質3年くらいで事件は動き出しているわけですが、私の個人的関与という意味では、控訴審判事としての事件処理は、主として最後の2年間くらいだったけれども、その前の法廷の立ち上げから実際にそれが動くようになるまでの部分という方が長い。裁判所を作ったり、規則を書いたりするようなことは、もう日本では考えられないでしょうから、非常にユニークな経験と言えるでしょうね。


Q その中で被害者参加、被害者賠償命令という制度が、国際刑事裁判ではここで初めて創設できたのは、どのような経緯ですか。

被害者参加制度は、元々カンボジアの刑事訴訟法にあるのです。というのは、フランスの刑事訴訟法にあって、それをカンボジアの刑事訴訟法にも取り入れているわけなのですけれども、カンボジア特別法廷の設置条約においては、被害者参加とか被害者賠償命令の制度を設けるかについてはsilentでした。これは、Internal Rulesを作るときに随分議論して検討した上、最終的に入れました。ただ、他の論点と同様、刑事訴訟法にあるままでは機能しないので、被害者の人数が非常に多い大規模複雑事件において適用できるように、少し変えてはいます。

そのレベルのissueについては国際刑事裁判でも前例がまるでなかったので、結局、最初に作ったルールは、第1事案(Case001)には適用しましたけれども、想定したほどうまく機能しなかった。それで第2事案(Case002)以降に適用すべきルールを、改正しました。日本の法律家で、土井香苗さん(HRW日本代表)や山本晋平さん(弁護士)などにも意見を聞いて、いろいろ知恵を出してもらった。あれが2008、2009年くらいですかね。


Q 例えばどういうところが第1事案でうまくいかなくて、どういうふうに変えたのですか。

 一つは、被害者参加は個人ベースで参加する形でしたので、被害者数が百名程度の第1事案では良かったのですが、第2事案では被害者5000名が想定されていたので、このやり方では無理でした。

もう一つは、損害賠償命令を出せるとは言ってみても、原資がない。被告人は無資力ですし、ICC(国際刑事裁判所)にあるようなTrust Fund というものもなく、カンボジア政府も金を出すつもりはない。ということで、賠償命令を出しても結局、画に描いた餅になってしまう。その結果、第1事案の控訴審判決では、執行できないと分かっているものは出さないということで、ほとんど内容のある賠償命令は出せなかったわけです。それで、第2事案以降では、ICCのTrust Fundの仕組みから学んで外部からの資金を引っ張ってきて活用する道を拓いたということです。

Q ICCの被害者賠償制度が先に、当時あったのですね。

ICCのローマ規程は1998年には出来ていますので、制度としてはあります。実際にreparations が動き出したのは、ここ2、3年のことですけれど。  結局、命令が、経済的に実現可能であるためにどうすればいいかということを考えた末、若干フレキシブルな方法ではありますけれど、外部からの資金を活用する仕組みを第2事案以降で取り入れたということです。


Q 被害者参加Civil Parties(民事当事者)の実際の参加の様子はいかがでしたか。参加する資格のある方たちは、みなさん積極的に参加するのですか。

全員が参加したわけではないと思いますけれど、第1事案については94名、第2事案については5000名前後だったと思います。そういう人数ですから、参加すると言っても法廷に物理的に出てくるというわけではなくて、基本的には弁護士による代理を通じてです。と同時に、Civil Partyである人が被害者として証言する、 witness(証人)としての出廷はありました。しかし、party(当事者)ですから、証拠の請求権だとか、反対尋問権だとか、控訴する権利とか、いろいろ当事者としてのかなり強力な権利が与えられています。そこが従来と違うところですね。


Q カンボジア国民からのECCCへの関心は強かったのですか。ECCCのパンフレット等では、満員の傍聴席の写真が見られたのですが。やはり強い関心を持たれて傍聴に来られていたのですか。

そうですけれど、我々の方も相当頑張って、広報、国連の言葉でいうとoutreachに、継続して予算を付けてやっていたことも確かです。カンボジア政府からの要望で、この裁判を広く国民に周知させて、同様の事犯の再発防止にも役立てたいということがありましたので。あの450名収容の傍聴席が放っておいても毎回満員になるということではなく、ECCCの被害者部門が、NGOの協力を得ながら、国民の参加を促し、連れて来ているわけです。実際、かなりの田舎からバスを仕立てて、お坊さんとか中学生高校生みたいな人たちも含めて、動員しているわけですよね。

実際問題として、彼らはお金がありませんから、数百円のバス代ですら自分では出せない。行くのはいいけど、昼飯代は誰が出してくれるの?というところから必ず躓くわけです。そういう部分はNGOなどが面倒を見るわけですね。朝3時に起きて、地方の村からバスに5時間乗って法廷まで来て、午前中法廷を傍聴して、午後はKilling Field (大量虐殺場跡)とS-21を見て、夜遅く村に帰り着くといったようなツアーを、たくさん組んでいます。それで今、延べの傍聴者数は、30万人くらいになっていると思います。

それでもなお、実際に傍聴に来た人よりも、テレビラジオを通じてこの法廷の進捗状況を理解した人の方が、多分多いのではないかと思います。今週のECCCなんて言って、毎週サマリー・バージョンみたいなものをテレビで放送したりしていましたから。そういうメディアを使っての広報というのは、より多くの人数をカバーしていると思います。


Q 事件から長期間経過して、被告人や被害者、証人の高齢化による困難性はいかがですか。

開始した時から、第1事案の被告人Duchは60代と若かったですけれど、あとのsenior leaders (上級指導者) は逮捕された時点で80歳前後という年齢でしたから、いつ亡くなってもおかしくないという状況のもとに進めてきたわけですし、実際この10年の間、被害者も多数亡くなったし、被告人も4名のうち2名は亡くなり、今は被告人はKhieu SamphanとNuon Cheaの2人だけです。彼らももう90歳前後ですよね。何しろ70年代の事件で、当時国家元首だったような人たちですから。刑事裁判ですから、被告人が亡くなれば終わらざるを得ないというのは、仕方がないですけれども。何とかCase002(第2事案)までは法律的な形を付けたいということでやっていますね。


Q 特にカンボジアとの関わりで、心に残ったエピソードを教えていただけますか。

私は主にCase001に関与したということもあって、Case001の控訴審判決の時に、S-21の生き残り被害者含め被害者の人たちが、本当に喜んでくれたことが、この裁判をやって良かったなと端的に思うところでした。

その判決自体は、第1審が禁錮35年だったものを、破棄して無期禁錮にしたものです。法律的にはいろいろ議論もあったのですが、最高刑が科されたということで、第1審判決時に非常に憤慨していた被害者の方たちも、「ついに正義が下された」という評価をしてくれました。その後、Case002の判決はすべて無期禁錮刑になっています。

どの事件も細かい法律論はいくらでもあり、細かいところにこだわって、何年ずつ差し引くということをしていると、一般人には非常に分かりにくい話になってしまうわけです。法律上可能な限り、「これだけの事件であれば、最高刑を科せられて当然だろう」という、一般人の素朴な感覚に合致する判決が出せた。それがベースになって、後の無期判決に続いているのではないかと思います。


Q 次に、野口先生が2012年から2018年、ICCの被害者信託基金(Trust Fund for Victims : TFV)理事長をされていたご経験を、伺います。

TFVは、ICC設立条約であるローマ規程により設置されたICCの付属機関の一種で、ICCの管轄犯罪(ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略犯罪)の被害者に対し、支援プログラムを通じて各種の支援を行います。TFVの任務は大別して2つあり、1つは裁判所が出す損害賠償命令(reparations order)に基づき、その実施計画を策定した上、支援プロジェクトの実施にあたることです(reparations mandate)。もう一つは、広くICCの扱う事件の被害者、その家族やコミュニティを対象として同様の支援プロジェクトを立案、実施することです(assistance mandate)。TFVは2008年以来、assistance mandateの下で、ウガンダとコンゴ民主共和国(DRC)の2カ国で、延べ40万人を超える人たちを支援して来ています。


Q 裁判所の被害者賠償命令は、執行可能性ということに関係なく、判例などに基づいて出されるのですね。信託基金では賄えなくなることはないのですか。

判例というほどのものはなくて、被害者の数と、どのような支援を必要としているかに応じ、支援のプロジェクトとして、命令を出します。おっしゃる通り、裁判所は、原資はいくらあるかということは考慮せずに、命令を出します。現に、Trust Fundでは賄えなくなっています。そもそも損害賠償ですから、本来は被告人が負担すべきお金ですが、被告人が無資力の場合には被害者信託基金が、ある種の肩代わり、complementできる。後日被告人に求償できる権利があるわけですが。

これまでのところ、全ての損害賠償命令についてTrust Fundが拠出していますけれど、既に裁判所が出した損害賠償の総額は15億円を超えていて、TFVでは賄いきれなくなっています。その分はドナー・アピールという形で寄付の要請をしていますが、必ずしも損害賠償命令の出るスピードについて行けていません。

Q 損害賠償命令の「実施計画」というものは、どういうものでしょうか。

これはプロジェクトの企画書案に近いです。こういう被害者のグループがあり、いちばん喫緊のニーズとしてこういうものがある(例えば心理的トラウマのケアとか、住むところがない、子どもの学費が払えないとか)、そういういろんなニーズの要素ごとに、これにいくら、これにいくらというように賠償金額を割り振っていって、全体として例えば2億円の賠償となるというような、企画書案ですね。

ベースになる基準は、裁判所がreparations order(損害賠償命令)の中で出します。TFVの側は、それを現実のプログラム、プロジェクトに落とし込み、命令の実施計画書を作ります。その段階では、被害者の意向をかなり反映させます。それをまた、Chamberが承認する。その上で実施するというわけです。


Q reparations mandateという方は、お金の賠償命令だけかと思いましたが、支援プロジェクトの実施命令があるのですね。

reparations mandateには2種類、individual(個人的)と collective(集団的)があって、individual reparationsはcashで、一人いくら分配するというような賠償命令ですね。collective reparationsは、先述したようなプログラム形式での支援です。これまでに出た3件の損害賠償命令のうち2件の命令には、 individualと collective、両方入っています。

TFVの場合は、それ以外にassistance mandateというものがあります。これは裁判所による損害賠償命令を待たずに、TFVの裁量で被害者支援プログラムを立ち上げて、実施するというものです。ですから、assistance mandateは、reparationsの文脈で言えば、collective reparationsに非常に近い。

ではどこが違うのかというと、reparationsは被告人が負担すべきものであるというところが違うのです。同時に損害賠償ですから、かなり厳密に、被害者がそのcharge(被疑事実)に密接に関連した被害者であるかどうかというスクリーニングが要求されてきます。他方、assistance mandateの場合は、そこはかなり緩い。


Q そういうreparationsやassistance mandateのプログラムを実施するにあたり、人材や資金、物資が不足するということはないのでしょうか。

実際にはTFVのスタッフが自分でプログラムを実施することは物理的に不可能であって(スタッフは十数名しかいません)、TFVは全部NGOに国際競争入札で発注します。それにあたって、必要とされるcapacityもしくはexpertise(専門的技術)を十分に備えたNGOが見つかるという保証はありません。特にDRC(コンゴ民主共和国)などでは、そういう専門性のあるNGOは非常に少ない。マリなどでも、元はいたんだけれど、紛争が長引いてみんな逃げてしまって、今は誰もいません。このような状況で、実施パートナーを探すのもなかなか大変です。


Q TFVのスタッフには日本人の方はいらっしゃるのですか。

いません。


Q ICC自体には日本人スタッフの数はとても少ないのですか。

ICC全部で今、日本人の数は10人前後くらいでしょうか。その一部は、法律職ではなくて、ITとか会計とか、back-office的な事務方の仕事です。現在、政府からICCに行っている人はほとんどいません。2018年からICC判事に就かれた赤根智子判事は、検察官を退職してICCに行かれています。


Q TFVのお仕事は理事長という行政的なお仕事ですが、野口先生は個別事件にTFVが提出する意見書や、損害賠償命令の実施計画書にも関わられたそうですね。

はい。それはたまたま私がlawyerであるということもありますし、さっき申し上げたようにカンボジアで、これの別バージョンの仕事をしていたので、カンボジアでの経験を、ICCでこれから始まるreparationsの実務に生かすという部分は多いにありました。

特にreparationsに関しては、私が理事長をやった6年間の3年目くらいに、実際に1件目のreparations orderが出て、ようやく去年くらいに実施開始のレベルまで漕ぎ着けました。ちょうど就任から4年間くらいは、最初の仕組みづくりをするタイミングでした。

reparationsについてはICCの判事もほとんど経験がない分野で、現場にも行ったことがない、判例もないという状態で、五里霧中でした。やはり法律的にある程度正しい仕組みを作らないといけませんが、かつ実務的に実施可能なものでなくてはなりません。あまりに理想主義的だと、実務的に実施不可能だということになりますので、その辺りが非常に難しい。

そういう仕組み作りの時期に私がちょうど当たったものですから、私はカンボジアの経験を踏まえて、reparationsの制度構築には、かなり一生懸命取り組んだつもりでおります。まだ、この制度は始まったばかりですけれどね。


Q 1件目のorderも、今まさに実施しているところなのですね。

3件 orderが出て、そのうち2件くらいを実施し始めたくらいで、まだまだこれからですね。

Q 子ども兵士や性虐待を受けた集団の被害者に対するケアなど、具体的にはどんなプログラムを提供されているのですか。


Q 子ども兵士や性虐待を受けた集団の被害者に対するケアなど、具体的にはどんなプログラムを提供されているのですか。

かなりいろいろなcomponent(構成要素)があるのですが、1つにはchild soldiersといってもこの事件は15年前なので、当時子ども兵士だった人たちも今30歳くらいになってしまっていて、多くは居場所も分からないような状況ですから、なかなか実施は難しいです。被害者たちが一体今どこにいて、どういうニーズがあるのか、ある程度サンプル的には調べましたが、全体像はつかみにくい状況です。DRC(コンゴ民主共和国)は事態が悪化しているし、エボラ熱がまた再燃していて、ちょっと我々も今近づけない状況にあります。

なかなか現場の状況は厳しく、私も2回行っていますけれど、近づくだけでも大変なところなので、そこにベースを置いて、被害者に対して継続的な支援を提供するというのは、想像を絶する難しさがあります。

なかなか思うようなスピードで進まないし、年単位でsuspendしなければいけないことも結構あります。


Q 国際協力に携わりたい法曹に望まれることは何ですか。

一つは、さっき申し上げたこと。国際的に活躍するためには、まず国内で何か自分のコアの専門性と、日本でも海外ででもいいのですが実務家であれば5年間等の実務経験を積み、専門家としての基礎を作ることが必要でしょう。

もう一つ、国際機関へ就職したい方々に、どうしたら就職できるかというと、万能薬はないのですけれど、とにかく競争率がやたらに厳しく、一つvacancy announcement(空席募集)が出ると、非常に多くの応募者があり、その半分くらいはもう同じような職種を経験済み、もしくは現職でもう一つ上を狙って、みたいな人たちであったりします。ですから、なかなか日本人がshort listに入るのも難しいのです。外務省も、何とか日本人を採ってもらおうということでサポートはしています。しかし、サポートできるのは、具体的に誰かが応募し、選考で一定のところまで行った時に、もうひと押しするぐらいのことですから、実際に応募する人がどんどん出てくることがどうしても必要です。

日本人は非常に律儀なので、数打てば当たるみたいなことを好まない人が多いですけれど、国際機関の場合は、激烈な競争率の状況なので、興味のある人は、気長に手当たり次第応募しておく。それで、忘れた頃に何か言ってくるかもしれない、というくらいの期待で、気長にやらないと仕方がないかと思います。

他方で、今の若い人の場合はもっと意識的に自分のCV(Curriculum Vitae)を作っておくということができると思うのです。若い時に外国のdegreeを取っておくとか、できれば外国のbar(法曹資格)も取っておくとか、国際機関で早いうちからインターンシップをやるとか。日本人はなかなかshort listにも残らないという中で、何とか実現する術としては、ある程度自分が意識して、時間をかけて積み上げていかないといけないことで、そのための努力はやりようがあると思います。

これだけ日本人のプレゼンスが国際機関で下がってきているというのは由々しきことであって、はっきり言って国力の低下に拍車をかけています。今まで日本人が占めていたポストを、どんどん他国に取られてしまっていて、中央官庁から人材を送り込むだけでは、とても追いつかないです。特に法曹の場合は、政府勤務の法曹は専門性が高い反面で守備範囲が非常に狭いので、もうちょっとビジネス・ローあるいは人権活動を広くやっている弁護士から、国際機関に出てもらわないと戦いようがない、という分野は非常に多いです。たくさんの志望者にどんどんチャレンジしていただきたいです。

貴重なお話をありがとうございました。