国際機関就職支援 インタビュー 鈴木 五十三 会員(2008年11月21日)

国連補償委員会での専門家パネルとしての経験

Q 鈴木五十三先生は、国連の「補償委員会(The United Nations Compensation Commission)」の中で、その専門家パネルの委員としてのお仕事をされたと伺っていますが、まず委員となられるまでの弁護士実務について教えて下さい。

鈴木 五十三 会員写真1

国連の補償委員会のパネルの仕事を始めたのが1999年ですが、私は1975年に弁護士登録しましたので、当時で弁護士経験が20年以上あったことになります。


登録から3年間は主に国内実務をしましたたが、その後、米国に留学して(UCバークレー大ロースクールLL.M.)、さらに米国の法律事務所で1年間の勤務経験を経て、合計2年間米国にいました。この間、NY州弁護士の資格を取得しました。


帰国後は、外国に関係する法律実務を手がけるようになりました。日本の会社が外国の取引先、紛争先と交渉したり、裁判などで紛争解決するといった法律問題を中心に扱ってきました。それと並行して、弁護士になってから、ある程度の時間を公益的な事件に使おうと考えてきましたので、最初は外国人の事件をやっていました。それが広がって、いわゆる戦後補償裁判を約20年することになりました。また、航空機事故の裁判も多く手がけました。特に航空機事故の裁判では、損害賠償額の立証という要素は重要です。


戦後補償裁判や航空機事故裁判は、いずれも、特殊不法行為の分野に属する事件であり、その中でも、当事者や法律・証拠の面で外国・国際的な要素がからむ事件だったと言えます。


そうした経験があったためか、国連・補償委員会の専門家パネルに推薦されることになりました。これは、当初、外務省から日弁連に、専門家の推薦依頼が来たために、日弁連の国際人権問題委員会で「基準に合致しそうな人」ということで候補者として推薦されることになったのです。


Q 国連の「補償委員会」とはどんなものですか。

「補償委員会」とは、安全保障理事会の付属委員会で、湾岸戦争の被害者からの申し立てを受けて、責任原因と損害額を裁定する委員会です。


委員会設置の根拠は、1991年の安保理決議(SCR687、SCR692)と国連事務総長のレポート(S/22559)です。安保理決議687では、イラクのクェート侵攻は国際法違反であり、それによる被害を賠償すべきだとしています。これを受けて、国連事務総長が補償委員会の具体的な仕組みを勧告するレポートを作成し、安保理決議692がこれを採択して補償委員会が設置されました。


補償金を払うのは最終的にはイラク政府となることも定められています。1991年当時、イラクの石油輸出は、安保理決議による経済制裁で禁じられていました。これを解禁する際、その輸出代金の一定割合を、国連がファンドとして預かりました。これが補償の原資となっています。


Q 日弁連国際人権問題委員会で、補償委員会の専門家パネルに委員を推薦する、という話を聞いて、どう思いましたか?

「やりたい」と思いましたね。ずっとやってきた戦後補償と近いとも思いました。また、基本的にはパートタイムの仕事で、日本の実務を維持したままで出来るという点は大きな魅力でした。フルタイムだったら応募する余裕はなかったのではないかと思います。


鈴木 五十三 会員写真2

Q 選考プロセスはどのようなものでしたか?

専門家パネルの委員は、形式的には国連事務総長が推薦して、補償委員会の理事会が任命します。国連は常にそうかもしれませんが、この補償委員会でも、ある程度、地理的に比例的に代表を求めなければならないという要請があったのだと思います。当時、日本は理事国ではなかったと思いますが、そうした背景の中で、日本からも委員を出すということで外務省が候補者を求めていた。


委員の条件の1つに「20年以上の実務経験がある」というものがあったと思います。それから、もちろん、英語で法律実務ができることも条件でした。それに加えて損害賠償に関わる裁判についての経験があることが大きかったと思います。


日本政府が候補者のリストに入れるといってもそれで決まるわけではなく、正式にレジュメ(履歴書)を提出し、採用前にはインタビュー(面接)という選考プロセスがありました。ですから先ほどお話したような、日本での関連実務の経験をレジュメに書いて出しました。日本軍によるヨーロッパ人の戦争捕虜(POW)裁判などもやっていましたが、おそらくそうした戦後補償裁判や、航空機事故裁判の経験が採用につながったのではないか、と思います。


専門家パネルの他のメンバーも、ほとんど国際法の学者や実務家ですが、仲裁や商事紛争の経験者が多かった。人権というよりもむしろ損害賠償という側面が大きかったですね。


Q それでは、先生が委員を務められた「専門家パネル」の具体的な仕事の内容を教えて下さい。

補償委員会は3つの階層から成っていて、一番上が理事会、その次に委員会、そして事務局があります。理事会とは、安全保障理事会の理事国の代表者により構成されます。


その下で、委員会は、小委員会=パネルに分かれており(Aパネル~F4パネル)、各専門家パネルに3名ずつの委員が配属されています。事務局は委員会の活動など全般にわたってこれを補佐します。


私は、このパネルの内、「D2パネル」の3人の内の1人でした。各パネルは、扱う申立てのカテゴリーが決まっていて、私たちD2パネルでは請求額が10万米ドル以上の「大規模個人請求」を扱いました。


Q 委員の待遇・条件、仕事のやり方などはどんなものでしたか?

委員のステータスは専門家(エクスパート)ということで、それに対応した旅費、日当、年俸があります。


ジュネーブに1ヶ月半に1回ほど、1回について移動時間を含めて1週間くらい行って、パネルの仕事をします。これを7年間 ほど続けました。


ジュネーブに行く2週間くらい前に、事務局からごそっとファイルが送られてきて、それを予習してから行くことになります。パネルの委員3人で合議するのですが、1回の滞在で10件程度、忙しいときは、午前2件、午後2件というサイクルで4~5日間ですから計20件くらいになることもありました。


合議では、まず事務局のリーガル・オフィサーたちが論点を整理したメモを作成し、説明をします。それを端緒に3人で検討して、最後に採決する。


検討するのは、補償委員会に管轄がある事項か、責任原因があるか、因果関係(proximate cause)があるかといった論点、そして損害の算定です。


Q どの法律に準拠して検討するのでしょうか? 国際人道法は?

国際人道法の専門性は、採用のときには特に問われていませんでした。ただ、実際に事件を審理していくと、戦争中の違法行為には一定の類型があることも分かっていきます。家を壊されて中のものを盗まれる、拉致、抑留、強姦、殺害。家族の離散。占領軍が通貨を発行して事実上の収容を行う。そういった場面での責任の判断には、人道法も関係してきます。D2パネルは、個人事業に対する財産上の損害なども管轄事項でした。


ただ、一般には、準拠法は必ずしも意識しないで、参考になる文献を参照していました。コモン・ローの不法行為に関する有名な文献(プロッサー教授のものなど)はよく参照されていました。


日本の赤本の話をすると、生活費控除をどうするとか、結構通じる部分もあって、そういうところは同じだな、と思いました。


なお、人の死亡に関する損害額については、D2パネルの設置以前に、すでに検討され、定型化されていました。法的には、逸失利益というよりは、慰謝料という考え方でした。大量の申立てを処理する必要があり、ある程度個別事情は切り捨てざるをえなかった面があります。入院日数、死亡時の年齢、請求者と死亡者の関係などの基準となる要素があり、その有無をパネルで認定していく。その要素に応じて定額が設定されています。


各国政府や国連機関が、被害者の請求を取りまとめて、提出者(submitting entity)として委員会に申し立てます。各国政府は自国民の被害に限らず、また、無国籍者も含めて、取りまとめができます。


鈴木 五十三 会員写真3

Q 手続はどのように進むのでしょうか? 

このやり方は、そもそも国際法違反において個人に損害請求権があるか否かという論点があることに関係しています。請求者は個人であり、金額も個人ごとに決定されるので、事件の実質は個人単位で進んでいくのですが、政府が提出者となり、補償金の合計を当該政府に払い、当該政府が個人に払って、それを報告しなければならない、という仕組みにすることで、国際法上の論争を回避しているのです。


審理は、通常は対審構造(adversarial)ではなく、被告的立場に立つイラクを相手とする一方だけの手続(ex parte)です。また、基本的には、書面審査です。重要な請求については、イラク政府に文書を送り、文書での回答を求めます。証人尋問などもありません。ただ、かなり稀ですが、特に重要な場合には口頭弁論を開催することはできます。口頭弁論では、イラク政府の代理人と、請求者個人の代理人がそれぞれ出頭してきて、裁判所での原告・被告間の手続のように口頭弁論が行われます。


準司法的な機関として、証拠に基づき賠償法理に従った法的な判断を行うもので、政治的な問題は考慮しません。委員会が出した準司法機関としての結論を報告書にまとめ、その結論を理事会が承認する、というのが手続の流れで、仮に政治的判断が入るとすれば、委員会の上位にある理事会が責任をもって行うことになります。ただし、政治決定をするにあたり、準司法的な判断を尊重する、という形で行われており、少なくとも私たちD2パネルでは、パネルの判断が理事会によって覆されたという経験はありません。事務局はいろいろと調整していたのかもしれませんが。


私たちD2パネルが作成し、提出した報告書については、ご興味があれば、icon_pdf.gif 補償委員会のウェブサイトで入手することができます。


ちなみに、D2パネルの話ではありませんが、2001年の9・11事件の直後に開かれた口頭弁論では、イラク政府が、スイスの法律事務所を雇い、大代表団をジュネーブに送り込んできて、「9・11事件とイラク政府とは関係がない」ということを強くアピールしていました。準司法機関とはいえ、こうした場面では、外交の一コマを垣間見る経験をしました。


Q 「D2パネル」の他のお2人はどんな方でしたか。

ホサイン(K. Hossain)氏は、バングラデシュの元法相、元外相、元石油相で、軍事政権下で追放されたのですが、その後戻ってきて、弁護士事務所を開設したという人。イギリスのバリスターでもあります。国連人権委員会が任命したアフガニスタンの人権状況に関する特別報告者(Special Rapporteur)や、国際海洋法裁判所の臨時裁判官なども務めました。


オベイド氏(N. Comair-Obeid)は、レバノンの女性弁護士で、パリでフランス法を学んだバックグラウンドがあり、レバノン仲裁人協会の会長などを務めています。なお、オベイド氏の前任者のエララバイ氏(N. Elaraby)はエジプトの外交官で、国連の国際法委員会の委員でもありましたが、国際司法裁判所(ICJ)の判事になったのでオベイド氏に代わったという経緯です。


みんな地域的にはアジア出身ですが、ホサイン氏など、ほとんど英・ロンドンの人。ただ、隣のパネルはインド人、パレスチナ人、エチオピア人という構成で、やはり欧米からの委員はいませんでしたね。


使う言葉は英語ですが、証拠原本はアラビア語で書かれているものがほとんど。すべて事務局で英訳をつけてきますが、レバノン人のオベイド氏が原本を読めるので、その存在は重要でした。「翻訳が間違っている」などと気づくこともありました。
  


Q  パネルのメンバー以外ではどんな人たちと仕事をしましたか。

事務局は、法律家(リーガル・オフィサー)と会計士が中心になって構成されています。ほかにITの専門家などもいますが。


われわれパネルと接触があるのは主にリーガル・オフィサーです。パネルと異なり、ジュネーブでフルタイムで働きます。彼らはおおむね30代前半の若い弁護士たちで、チーフはカナダ人、その次(deputy)もカナダ人。そのほか、ニューヨークの大手事務所の勤務弁護士だったアメリカ人や、アジア関係ではマレーシア、韓国系アメリカ人(韓国生まれ)、中国系アメリカ人(アメリカ生まれ)、オーストラリア人などがいました。英語圏以外から来ているのは韓国の人だけでしたね。


そして、良いか悪いかは別として、みんなコモン・ローで教育を受けた法律家でした。韓国の人もアメリカのロースクール出身だし、マレーシアの人も留学している。


それから、特徴的なのは、事務局内では、来る以前からの友だちが多い。つまり、もともと先輩がいるとか、人間的なつながりがあって、採用されている。


カナダなどは、一生懸命政府がバックアップをしていますね。要所にカナダの人を置いて、継続的にカナダ人が採用されるよう政府が熱心です。


事務局に来た動機を聞いてみると、公的な活動をしたいというものや、ジュネーブが好きだというもの。国連職員になると、仕事をしながら第二外国語を無料で教えてもらえるので楽しいらしいですね。ジュネーブでの勤務を、自分の栄養補給期間みたいに見ている。


私自身もジュネーブの美しさは印象に残っています。


Q パネル委員としての仕事の魅力や印象に残っていることなどありますか。

鈴木 五十三 会員写真4

扱う事件、1件1件が興味深いものでした。その中で、一つ分かったのは、3人全てバックグラウンドが違うのに、意見が対立したことは一度もなく、最後は必ず同じ結論にたどり着いたということです。使っている法律構成は違う、つまり私は赤本で考え、彼らはプロッサー教授のコモン・ローで考えているが、結論は同じになる。それが面白かったですね。


また、扱う範囲が非常に広く、事実認定でも様々な問題に触れました。家を壊した、ホテルを壊したことによる損害。中にある絵や宝石が盗まれたらその鑑定をする。宝石はオークションにいって実際に同じようなものを見て、認定の基礎にする。絵が本当にあったか否かから議論が始まるが、同じ絵が他の場所にあるのが分かると請求者の申立ては虚偽ではないか、とか。競馬馬がすべて殺されたのだが、馬は一頭いくらか、種馬は高いか否かなど、個別の損害の認定に広がりがありました。


しかし戦争のことなので、損害賠償や人権人道と言ってみても、政治問題とも深く関わっている。これは、国際機関で仕事をすると皆分かると思いますが、たとえば、イエルサレムへのミサイル発射で家が壊れた、というその損害賠償になると、非常にデリケートな話になってきて、一方で、因果関係はどうか、損害は壊れた物損だけか、仮住居費用まで含むか、という法律問題ですが、他方では政治問題にも関係してきます。


そういう中で、準司法機関としてのパネルは、通常の因果関係論と、過去のパネルの先例があるので、そうした先例を参照しながら、あくまで法律的な判断をしてきました。先例は、基本的には拘束力はありませんが、法律家だからやはり先例は常に意識します。そうやって議論すると、結論は落ち着いてくる。先例の価値というのは重要だと感じました。


また、自分たちがやっていることと、全体との繋がりは、意識しながら仕事をしました。というのも、当時のフセイン政権は、安保理の経済制裁(石油輸出を原則禁止し、輸出が許された場合には、その一部を国連に拠出させられた)そのものが非人道的で、違法だという立場でした。そして、制裁により苦しむのは政府ではなくてイラク国民であるという議論をしていました。これに対して、国連は、制裁により得られた資金を国連のファンドとして留保しても、それはイラクの軍事費の総額以下である、だから軍事に使っていた分を回せば良いだけだと反論していました。


先にお話したように、補償の原資となるイラク政府からの資金が無いと賠償はできません。大きく見ると、イラクにお金を作らせるということとイラク国民の保護との調整、という非常に難しい問題だった。少なくとも、賠償によってイラク国民にだけ負担がいくのはいけないと感じていました。


そうすると結局、個別の請求を見ていくときに「何でも認める」というよりは、むしろ「法律的にきちんとしたものしか認めない」という方向への意識が働きましたね。


また、苦労した一つに、パレスチナからの請求がありました。実は補償委員会への請求は、1994年が締め切りだったのですが、パレスチナからの請求だけ、締め切りを延長したのです。これは、適切な提出者(submitting entity)がパレスチナには存在しないから請求できなかった、という理由です。


そして、遅れて請求された申立てほど、証拠・記録が整理されている。われわれは審査が終わった案件については、報告書で公表していましたから、パレスチナの弁護士や会計事務所の人間がコンサルタントになって、証拠・記録を整理して申し立ててくる。最初の頃の素朴な請求から比べて、どんどん立派になる。すると、むしろ警戒心が出てきて、慎重になります。こうしたパレスチナ請求の処理は、悩みが多かったですね。


また、最後は時間にも追われ始めます。予定通りにはいかずに、夜遅くまで議論して。事務局が、翌朝に全部書き直してきたものを、チェックしたりもしました。事務局は、よくやってくれたなあと思っています。


Q 日本の弁護士業務との兼ね合いでも苦労があったのではないかと思うのですが。

鈴木 五十三 会員5

それはもちろんありました(笑)。


補償委員会の仕事は、その量・内容から見て、経済的に見合っていると言えるものではありませんでしたが、ものすごく犠牲にしたというものでもありません。一定の年俸もありましたし、1回あたり1週間という短い期間でしたから。


ただし、日本での実務がその分空白になったのは、やはり大変でしたね。ジュネーブ出張中、電話などで何とかつなぎながら、という形でした。


Q 「補償委員会」のパネルでの仕事は、現在の仕事にどのように影響していますか。

自分自身の勉強になった面は多かったです。こうした国際機関での仕事というのは、実は狭い社会という面もあって、そういうところでの行動の仕方、考え方なども勉強になりました。ホサイン氏のリーダーシップ、考え方、納得できるまで考える姿勢などにも刺激を受けました。


それから、当時の経験は、言うまでもなく、国際人権問題委員会の会務、あるいは、LAWASIAの副会長として国際会議などに出る場合にも、とても役に立っています。どんな問題でも、それぞれの相手や国の立場を考え、実現可能性から考えて議論しないと役に立ちませんし、人権の問題では政治的にどこで折り合いをつけていくか、という側面は出てきます。そうした思考のプロセスは補償委員会での議論と通じるところがあります。また、当時の経験を経て、アジアについての関心・動機が強まったということもありますし、行けば行くほどさらにそれが強まる。補償委員会のパネリストだったことで、相手から信頼されるという面もあります。


ちなみに、私は、ある国際的な紛争案件で、海外当事者を含む多数の当事者が参加した「私的調停(mediation)」の調停人に任じられ、これを主宰したことがあります。この事件は、請求額も巨額で複雑なものでしたが、この私的調停のプロセスを通して最終的に和解に至りました。こうした国際的な要素の強い紛争解決の仕事を、中立の立場から手がける際にも、補償委員会でのパネリスト委員としての仕事の経験があったことは、非常に大きかった、と感じます。
また、そうした経験は、一方の当事者を代理するときにも、もちろん役に立つものです。


Q 国際機関で日本の法曹が仕事をすることについては、どうお考えになりますか。

自分の場合は、副業だったのでやり易かったわけですが、フルタイムの仕事を求めるのか否かで違ってくる面はあるでしょう。また、自分には20年以上の実務経験が前提にありました。補償委員会の事務局のリーガル・オフィサーのように、若い頃からフルタイムの仕事を求める、という場合には、採用には政治的な側面もあると思いますし、枠があるか、という問題もあるわけですが、カナダのように政府も協力しながら、先駆けとなる人が出て、その後の人が続いていく、という流れになれば、とも思います。


また、国際機関で活躍するには、少なくとも英語が出来て、コモン・ローの法学教育を受けることはどうしても必要に思われます。それに加えて、アジアの出身であること、日本で大陸法の法学教育も受けた、ということはプラスの要素としてアピールになる部分があると思います。
 


Q 国際的な問題に取り組もうとする若い人へのメッセージなどありましたら、お願いします。

私は、弁護士になってからずっと一種の外国人裁判をやってきたので、それが最後までプラスに働きました。ですから、何でも若い頃に始めたことを長い間続けてやっていれば専門家として、国際的に仕事ができるチャンスも出てくると思います。


あるいは今、海外に行ってしまって、すぐに仕事を始めても良いですが、いずれにしても、同じことを時間をかけてずっと続けていく、そして「専門家になる」ということだと思います。


お忙しいところ、ありがとうございました。