死刑廃止を考える[Q12]死刑判決が確定したえん罪事件の例

免田事件

事件の概要

1948年12月29日に熊本県人吉市で発生した一家4人が殺傷された強盗殺人事件(夫婦が殺され、子供2人が重傷)で、被害者はいずれも頭部に鉈様の凶器による多数の傷痕があり、指紋や遺留品はありませんでした。


犯人とされた免田栄さん(事件当時23歳)は翌年1月に警察に連行され、別件窃盗事件で逮捕されて本件につき不眠不休の取調べを受け、逮捕後3日目に自白して起訴されました。


1950年3月、熊本地裁八代支部は死刑判決を宣告し、1951年3月、福岡高裁は控訴を棄却し、同年12月、最高裁は上告を棄却し、死刑判決が確定しました。


再審の経緯

免田さんは、1952年6月から再審請求を行い、1956年8月10日、第3次再審請求で一旦は熊本地裁八代支部が再審開始を決定しましたが、福岡高裁によって取り消されました。その後も再審請求は棄却され続け、日弁連の支援により申し立てた第6次再審請求により、1979年9月27日、福岡高裁が再審開始を決定しました。


これに対して、検察官は特別抗告しましたが、1980年12月、最高裁はこれを棄却して再審が開始され、1983年7月15日、熊本地裁八代支部は無罪を言い渡し、確定しました。


誤判の原因と無実の証拠

捜査機関は、極端な見込み捜査により、別件で免田さんを逮捕し、暴行、脅迫、誘導、睡眠を取らせない等の方法により、免田さんに自白を強要しました。免田さんは当初からアリバイを主張しており、移動証明書や配給手帳等により裏付けられていましたが、全て無視されました。


裁判所も、自白を偏重して全面的にこれを信用し、免田さんのアリバイを無視して、有罪判決を言い渡し、再審請求を棄却し続けました。


第6次再審請求の抗告審で、ようやく、免田さんの自白が客観的事実に反していること、免田さんにアリバイがあることが認められたのです。


なお、免田さんは、再審請求中に、国を相手として、無罪を裏付ける重要な証拠である鉈、マフラー、手袋等の重要証拠の返還を求めて提訴しましたが、国は「紛失した」と言って返還を拒んでいます。


財田川事件

事件の概要

1950年2月28日、香川県三豊群財田村(当時)で発生した強盗殺人事件で、1人暮らしの男性(62歳)が就寝中に襲われ、鋭利な刃物で30数箇所の傷を負って失血死しました。


犯人とされた谷口繁義さん(事件当時19歳)は、地元素行不良者の一人として別件逮捕され、同年4月1日に隣村で発生した強盗致傷事件で同年6月15日に懲役3年6月の有罪判決を受けましたが、引き続き数度の別件逮捕により代用監獄で自白を強要され、同年7月26日に至って本件を自白して起訴されました。


1952年2月、高松地裁丸亀支部は死刑判決を宣告し、1956年6月、高松高裁は控訴を棄却し、1957年1月、最高裁が上告を棄却して、死刑判決が確定しました。


再審の経緯

第1次再審請求は棄却されましたが、その後谷口さん本人が高松地裁丸亀支部宛てに「事件時に着用したズボンに付着した血液につき男女の区別をする鑑定をして欲しい」旨の手紙を出し、これが発端となって、1969年4月に第2次再審請求が始まりました。


その後、曲折を経て、最高裁が1976年10月12日に高松地裁に差し戻し、高松地裁は1979年6月7日に再審開始を決定しました。


これに対して、検察官は即時抗告しましたが、1981年3月14日、高松高裁はこれを棄却して再審が開始され、1984年3月12日、高松地裁は無罪を言い渡し、確定しました。


誤判の原因と無実の証拠

捜査機関は、地元の風評以外に何の根拠もないのに、谷口さんを犯人と確信し、別件逮捕を繰り返して、極めて長期間、代用監獄に谷口さんの身体を拘束して、食事を増減したり、暴行を加えたりして、谷口さんに自白を強要しました。


また、裁判所も自白を偏重し、当時法医学の権威とされた古畑種基・東京大学教授の鑑定を安易に信用するという誤りを犯しました。再審開始決定において、古畑鑑定は、検査対象とされた血痕は事件後に付着した疑いがある等から、信用できないものとされました。


更に、1970年に、裁判所が検察官に対して不提出証拠の有無につき釈明を求めたところ、紛失したという回答がありました。しかし、1977年になって、裁判所が検察官に対して開示を促したところ警察の捜査書類綴が提出されました。本件では、犯人が刃物で被害者の胸を突き刺し、刃物を体外に全部抜かずに、また突いた(二度突き)という自白があり、これが犯人しか知り得ない秘密性をもつ事実だとされていましたが、再審で提出された警察の捜査書類綴の中に二度突きの記載があり、捜査官が二度突きの事実を知っていたことが明らかとなり、自白の嘘が暴露されました。


松山事件

事件の概要

1955年10月18日、宮城県志田郡松山町(当時)で火災があり、一家4人(夫婦と幼児2人)の焼死体が発見されました。


同年12月2日、隣村出身の斎藤幸夫さん(事件当時24歳)が別件暴行事件により東京で逮捕され、同月6日に本件につき自白し、すぐ撤回しましたが、殺人・放火事件の犯人として起訴されました。


1957年10月、仙台地裁古川支部は死刑判決を宣告し、1959年5月、仙台高裁は控訴を棄却し、1960年11月、最高裁が上告を棄却して、死刑判決が確定しました。


再審の経緯

第1次再審請求は全て棄却され、第2次再審請求は、仙台地裁が1971年10月26日に棄却しましたが、1973年9月18日、即時抗告審の仙台高裁は、原決定を取り消して仙台地裁に差し戻し、1979年12月6日、仙台地裁は再審開始を決定しました。


これに対して、検察官は即時抗告しましたが、1983年1月31日、仙台高裁はこれを棄却して再審が開始され、1984年7月11日、仙台地裁は無罪を言い渡し、確定しました。


誤判の原因と無実の証拠

捜査機関は、斉藤さんを別件逮捕したうえ、斉藤さんの同房者である前科5犯の男性をスパイとして利用し、自白するように唆すという謀略的な取調べを行っています。


また、「掛布団襟当の血痕」が自白を補強するものとされましたが、再審では、血痕の付着状況が不自然であり、捜査機関によって押収された後に付着したと推測できる余地を残しているとされました。


更に、斉藤さんの自白では、「犯行の返り血でズボンやジャンパーがヌルヌルした」となっていますが、警察の鑑定では、着衣には血痕の付着がないことは分かっていました。弁護側の強い要求により、これは控訴審の結審間際に提出されましたが、犯行後に洗われたことにより、血痕は消失したとされました。しかし、再審において、血痕反応は洗濯などでは消失しないことが判明しました。


この事件では、再審を請求した直後から、弁護人は検察官に対して不提出証拠を開示するよう繰り返し要求しましたが、1975年になって、裁判所の勧告により検察官はようやく証拠を開示しました。この中に、(1)「布団に血痕は付着していない」という事件直後に作成された鑑定書、(2)布団の写真、(3)警察のスパイとなって斎藤さんに自白を勧めたという斉藤さんの同房者の供述調書等、重大な証拠が含まれていました。


島田事件

事件の概要  

1954年3月10日、静岡県島田市内の幼稚園で6歳の女児が誘拐され、三日後、市内を流れる大井川沿いの山林で死体が発見されるという幼児強姦殺人事件が発生しました。


当時放浪生活を送っていた赤堀政夫さん(事件当時25歳)は、同年5月24日に放浪先の岐阜で職務質問の上、連行されて一旦釈放されましたが、別件窃盗罪で再逮捕され、同月30日に代用監獄で自白して起訴されました。


1958年5月、静岡地裁は死刑判決を宣告し、1960年2月、東京高裁は控訴を棄却し、同年12月、最高裁が上告を棄却して、死刑判決が確定しました。


再審の経緯

第1次から第3次の再審請求は全て棄却され、第4次再審請求も、静岡地裁は1977年3月11日に再審請求を棄却しましたが、即時抗告審の東京高裁は、1983年5月に原決定を取り消して静岡地裁に差し戻し、静岡地裁は1986年5月30日に再審開始を決定しました。


これに対して、検察官は即時抗告しましたが、1987年3月26日、東京高裁はこれを棄却して再審が開始され、1989年1月31日、静岡地裁は無罪を言い渡し、確定しました。


誤判の原因と無実の証拠

捜査機関は、見込み捜査により、別件で赤堀さんを逮捕し、暴行、脅迫等により、赤堀さんに自白を強要しました。


赤堀さんは、事件当時には東京にいたというアリバイを主張していましたが、全て無視されました。


また、自白によると凶器は石とされ、当時法医学の権威とされた古畑種基・東京大学教授の鑑定がこれを裏付けているとされていました。しかし、再審で、被害者の傷痕が石では生じないことが明らかになりました。


更に、この事件では、捜査機関は約200名にのぼる前科者、放浪者等を取り調べており、警察の強引な取調べのため、赤堀さん以外にも自白した者がいます。


検察官の不提出証拠の中には、これら赤堀さん以外の自白調書や捜査の過程を示す捜査日誌がありました。しかし、弁護人の度重なる開示要求にもかかわらず、検察官は遂に開示せずに押し通しました。