東京電力女性社員殺害事件

事案の概要

1997年(平成9年)3月19日、東京都渋谷区にあるアパートの1階(本件現場)で女性の死体が発見されました。


その後の捜査により、被害者は東京電力に勤務していた30代の女性社員であることが判明しました。被害者は、以前から会社勤務の傍ら、勤務終了後に東京都渋谷区円山町界隈で深夜まで売春をするという生活を続けていました。ところが、被害者は、同年3月8日に自宅を出た後、同日深夜に本件現場付近で目撃されたのを最後に行方が分からなくなっていました。


司法解剖の結果、被害者の死因は頸部圧迫による窒息死と推定されました。また、膣内には精液が残っており、精子の存在が確認されました。さらに、被害者の所持品を確認したところ、被害者が財布の中に入れていたと思われる4万円がなくなっていました。したがって、被害者は、同年3月8日の深夜に本件現場で殺害され、その際、犯人が少なくとも現金4万円を奪い去ったものと考えられました。


被害者の遺体が発見された部屋


この事件の犯人とされたゴビンダ・プラサド・マイナリさんは、ネパール国籍の外国人であり、在留期限を過ぎて不法残留となった後も千葉市内のインド料理店で働いていました。


被害者の死体が発見された1997年3月19日、マイナリさんは、勤務先から自宅のアパートに帰宅したところで、警察官から事情聴取を受けました。その後、マイナリさんは、同年3月23日に出入国管理及び難民認定法違反(不法残留)の容疑で逮捕されました。


ところが、マイナリさんは、不法残留容疑で逮捕された直後から、殺人事件についても厳しい追及を受け、それは不法残留の件の起訴後も続きました。マイナリさんは、殺人事件への関与を一貫して否定していましたが、同年5月20日に被害者に対する強盗殺人の容疑で再逮捕され、同年6月10日には強盗殺人罪で起訴されました。


経過と問題点

2000年4月14日、第一審(東京地方裁判所)の判決が言い渡されました。


判決は、現場の便器に残されていたコンドーム内の精液や、現場から発見された陰毛がマイナリ氏のものであることなどから、マイナリさんが犯人である疑いがあると指摘しました。ただ、その一方で、それは事件発生日とは別の機会に被害者と性交した時のものである可能性を否定できないとも述べました。さらに、マイナリさんを犯人とするには合理的に説明できない4つの疑問点があるとも指摘しました。その上で、「疑わしきは被告人の利益に」との刑事裁判の鉄則に従い無罪判決を言い渡しました。


これに伴い、マイナリさんは、勾留を解かれ、そのままネパールに強制送還される予定でした。


ところが、検察官は、無罪判決に対して、事実誤認を理由に控訴するとともに、マイナリさんを再び勾留するよう裁判所に請求しました。そして、控訴審(東京高等裁判所)は、第一審で無罪判決が言い渡されたにもかかわらず、実質審理の開始前である同年5月8日、マイナリさんを再び勾留したのです。


その後、控訴審(東京高等裁判所)は、同年12月22日、解明できない事実があることを認めつつも、7つの間接事実を総合すれば、マイナリさんが犯人であると認められると判断し、マイナリさんに無期懲役の有罪判決を言い渡しました。


これに対し、マイナリさんは最高裁判所に上告しましたが、2003年10月20日、上告が棄却され、マイナリさんに対する有罪判決が確定しました。


その後、マイナリさんは、2005年3月24日、東京高等裁判所に裁判のやり直し、再審請求の申立てを行いました。2009年11月以降、定期的に裁判官・検察官・弁護人による裁判の進行についての協議が開催されるようになりました。その中で、弁護団が繰り返し証拠開示、とりわけ現場に残された客観的な痕跡に関する証拠の開示を求めたところ、裁判所の積極的な訴訟指揮もあって、現場に残された陰毛等や被害者の膣内に残っていた精液が存在することが明らかとなりました。


そこで、弁護団がこれらの証拠物についてDNA型鑑定を実施するよう求めたところ、裁判所の強い要請により、検察官が依頼してDNA型鑑定を実施することとなりました。その結果、被害者の膣内に残っていた精液や、本件現場に残された陰毛から、マイナリさん以外の男性(X)のDNA型が検出されたのです。このことは、Xが事件当日、現場において被害者と性交して、その後、犯行に及んだ疑いが強いことを示しています。


しかも、その後、検察官から新たに証拠が開示されたのですが、その内容は驚くべきものでした。被害者の唇や乳房に付着していた唾液の血液型はO型だったのです。マイナリさんの血液型はB型で、Xの血液型はO型です。このように、マイナリさんが無実であることを示す証拠が再審段階まで隠されていたのです。


このような審理の結果を踏まえ、2012年6月7日、東京高等裁判所は、再審開始を認めるとともに、マイナリさんの刑の執行を停止する決定をし、マイナリさんは釈放されました。これに対しては、検察官から不服申立て(即時抗告に代わる異議申立て)が行われましたが、同年7月31日には検察官の異議申立ても棄却されました。


その後、やり直しの裁判、再審公判が開かれ、同年11月7日の再審公判期日で、第一審の無罪判決に対する検察官の控訴を棄却する判決が言い渡され、ようやく無罪判決が確定しました。


再審開始決定当日の様子


この事件では、再審請求の段階で、弁護士に開示されていない重要な証拠を捜査機関が保管していたことが明らかになり、その証拠についてDNA型鑑定を実施したことが再審開始の決め手となっています。しかし、現在の法律では、弁護士が捜査機関の保管する証拠の開示を請求したり、その証拠についてDNA型鑑定を実施することを請求したりする権利は保障されておらず、このようなことが実現したのは、たまたま熱意のある裁判官に当たったからにすぎません。


その意味で、この事件は運がよかったといえますが、正義の実現が運に左右される状況を放置しておくことはできません。えん罪被害者の速やかな救済のためには、必要な証拠が開示されるよう、再審請求手続における証拠開示の制度化は不可欠です。