大崎事件

事案の概要

1979年(昭和54年)10月15日、鹿児島県の大隅半島にある、大崎町という小さな集落で、当時42歳の男性の遺体が発見されました。事件が起きた町にちなんで「大崎事件」と呼ばれるようになります。


遺体は、牛小屋のなかで、堆肥に埋められた状態で発見され、何者かによる「死体遺棄事件」であることは明らかでした。

ただ、死体遺棄事件であっても、殺人事件であるとは限りません。「殺していなくても死体を隠す」ことは、ありうるからです。

しかし、警察(鹿児島県警志布志警察署)は、最初から「近親者による殺人事件」という見立てのもとに捜査をはじめます。

これが大崎事件の悲劇のはじまりでした。



亡くなったのは、この町に住む四郎(仮名)さん。四郎さんには兄弟がいて、長男の一郎(仮名)さん、次男の二郎(仮名)さんが近所に住んでいました。一郎さんの妻が、原口アヤ子さんでした。

四郎さんは酒癖が悪く、飲んだ先で迷惑をかけたり、酔いつぶれて道路に寝たりすることもありました。そのたびに親族が四郎さんを迎えに行き、連れて帰っていました。


四郎さんが遺体で発見される3日前、親族の結婚式がありましたが、その日も四郎さんは、朝から酒に酔って荒れていたので、兄弟たちは、四郎さんを結婚式に連れて行きませんでした。


四郎さんは、午後3時ころ、近所の商店を訪れて焼酎を買い、午後5時半ころにも再び同じ店に焼酎を買いに行きました。

午後5時半をすぎたころ、四郎さんが自転車ごと道路の側溝に落ちているのを通行人が発見し、道路脇に引き上げます。側溝の深さは80センチほどありました。

夜8時半ころ、連絡を受けて現場へ迎えに行ったのは、四郎さんの近所に住むIさんとTさんでした。そのとき、四郎さんが着ていたシャツはずぶ濡れで、下半身は裸の状態でした。


当時の大崎町の気温は、18℃以下。四郎さんは、この状態で3時間以上、道路脇に寝かされていたことになります。のちの解剖で、四郎さんの口のなかに、側溝に転落したときのものと見られる土が残っていました。


口もきけず、自分で立つこともできない四郎さんを、IさんとTさんは軽トラックの荷台に乗せ、夜9時ころに四郎さんの自宅へ送り届けました。


その翌々日、四郎さんは遺体となって牛小屋で発見されたのです。


経過と問題点

警察は、「面識のある者、あるいは、近親者による殺人事件」という見立てのもと、遺体発見の翌日には、二郎さんの取調べをし、その翌日には一郎さんの取調べをします。


そしてその翌日、2人は四郎さんの殺害を自供して、逮捕されました。 このとき警察は、アヤ子さんが、四郎さんに生命保険を掛けていたことに着目します。「身内の者による保険金目的の殺人事件」というストーリーを描き、死体遺棄を手伝ったとして二郎さんの息子である太郎(仮名)さんも逮捕。最後に、事件の主犯格としてアヤ子さんを逮捕します。


事件当時のアヤ子さん 52歳


四郎さんの遺体を解剖した医師は、死因を窒息死と推定し、他殺ではないかと鑑定しました。

そして、一郎さんと二郎さんは、これに合わせるように、四郎さんの首をタオルで絞めて殺したと自白してしまいました。


アヤ子さんだけが一貫して事件への関与を否定していましたが、1980年3月、鹿児島地方裁判所は、共犯者とされた3人(一郎さんと二郎さんは殺人と死体遺棄の共犯。この2人に加えて太郎さんは死体遺棄の共犯。)の自白、そして、それに沿う法医学鑑定などを根拠に、アヤ子さんに対し、殺人と死体遺棄の罪で懲役10年の有罪判決を言い渡しました。


じつは、犯行を自白した3人には共通点がありました。知的障害のある「供述弱者」だったのです。


「供述弱者」とは、取調べや裁判などの場面で自分を防御する能力が低い人のことを言います。難しい言葉を理解する能力や、自分の記憶や気持ちをうまく表現する能力が低いために、取調官の誘導に乗りやすいという特徴があります。一般的には、子どもや外国人、そして知的障害のある人たちが供述弱者に当たると言われています。


知的障害のある人は、取調官の言うことがよく理解できません。取調官は何度も何度も同じ質問することになります。

「なぜそうなるんだ」、「さっきと違うじゃないか」、「もう一回言ってみろ」

そんなふうに言われ続けると、知的障害のある人は「怒られている」と感じます。

「怖い」、「これ以上怒られたくない」、そういう心境から、よく理解できないまま、とりあえず取調官の言うことに「イエス」と言ってしまいます。期待どおりの答えを引き出せた取調官は、突然優しくなります。


知的障害のある人は、イエスと言っておけば優しくしてもらえると感じ、取調官が描くストーリーに迎合した供述をしてしまうのです。


最近では、供述弱者に対する取調べは録音録画されるようになってきました。えん罪を防ぐために、取調べの状況をあとから検証できるにしているのです。

しかし今から40年以上前、大崎事件が起こった当時は、こうした配慮は全くありませんでした。


一郎さん、二郎さん、太郎さんも、それぞれ懲役刑が確定して服役しました。しかしその後、3人とも「本当は事件に関与していない」と言うようになります。


さらに、四郎さんの死因を鑑定した医師が、四郎さんが自転車ごと側溝に転落した事実を聞かされずに鑑定をしたとして、「死因は窒息死」とする自らの鑑定は間違いだった、他殺か事故死かわからない、と証言します。


アヤ子さんは、服役してからも、そして出所してからも、自分はやっていないと訴え続けました。


事件から23年経った2002年3月、鹿児島地方裁判所は、アヤ子さんの裁判のやり直し、「再審開始」を決定しました。

しかし、これに対し、検察官が高裁に即時抗告(不服申立て)した結果、福岡高等裁判所宮崎支部は、2004年12月に再審開始決定を取り消してしまいました。


それでもアヤ子さんはあきらめず、2017年6月、3度目の再審請求で再び鹿児島地方裁判所がアヤ子さんの再審開始を決定します。またも検察官は即時抗告しましたが、今度は福岡高等裁判所宮崎支部も再審開始を支持しました。


事件から40年、アヤ子さんは92歳になっていました。やっとアヤ子さんに、無罪が言い渡される。誰もがそう信じていました。


ところが、検察官がさらに最高裁判所に不服申立て(特別抗告)し、2019年6月、最高裁判所は、アヤ子さんの再審開始を取り消したのです。

裁判のやり直しが認められるためには、高いハードルがあり、「開かずの扉」と呼ばれてきました。鹿児島地方裁判所、福岡高等裁判所宮崎支部が、延べ3度開けたその扉を、最高裁判所が閉じてしまったのです。


アヤ子さんの弁護団は、四郎さんは転落事故のときに致命的な傷害を負い、IさんとTさんに自宅に連れてこられたときには、すでに亡くなっていたのだということを明らかにする医学鑑定を新しい証拠として、2020年3月、鹿児島地裁に4度目の再審請求を申し立てました。

しかし、2022年6月、鹿児島地方裁判所は再審請求を棄却し、これを誤りだとしてアヤ子さんが申し立てた即時抗告も、2023年6月、福岡高等裁判所宮崎支部がこれを棄却し、再審を認めませんでした。現在も、最高裁判所で争われています。


このように、裁判所が延べ3回も再審開始を決めたのに、その都度検察官が抗告をしたため、いまだに再審が開始しません。これほど抗告の問題性が明らかになった事件は、大崎事件しかありません。


現在のアヤ子さん 96歳