松橋事件

事案の概要

1985年(昭和60年)1月8日の朝、熊本県松橋(まつばせ)町(現在の宇城市)で、一人暮らしをしていた59歳の男性が自宅で亡くなっているのが発見されました。事件が起きた町の名前にちなんで、「松橋事件」と呼ばれている事件です。


遺体には多数の刺し傷があり、死因は失血死でした。状況からして、被害者が何者かに殺害されたことは明らかでした。


被害者の遺体は、発見時には死後2~4日間が経過していると推定されました。殺人事件として捜査を開始した警察は、遺体発見の3日前の1月5日夜に、被害者の家で開かれていた酒宴の際に被害者と言い争いをしていた宮田浩喜さんに目をつけ、1月8日夜、警察署に呼び出しました。


そして、その後12日間にわたり、警察は宮田さんを呼び出して連日長時間の取調べを行いました。宮田さんは、1月19日までは犯行を否認していましたが、1月20日、自宅を訪れた警察官らに、やってもいない罪を認める「自白」をし、逮捕されてしまったのです。その際、宮田さんは、「切出小刀を使って被害者を殺した」と話し、捜査機関に自分が持っていた切出小刀を提出しました。


捜査機関はその後、「切出小刀」を調べましたが、その「切出小刀」には、血液が一切付いていなかったのです。


捜査機関は、その理由を説明するため、2月5日、宮田さんに、「何年か前まで着ていた赤と茶のネルシャツの左袖を切出小刀に巻き付けて刺した」と自白させました。これは、宮田さんが最初に自白をさせられた1月20日には出てきていなかった話でした。


そして、その翌日の2月6日、捜査機関は、宮田さんの家から発見された、左袖部分を除いたチェック柄のシャツの布切れ4枚を宮田さんに見せ、「このシャツの左袖を切り開いて使った。巻き付けた左袖は犯行後に燃やした」と自白させたのです。


この自白をもとに、宮田さんは、2月10日に起訴され、裁判にかけられることになりました。宮田さんは、裁判の途中から無罪を訴えましたが、熊本地方裁判所は宮田さんに懲役13年の判決を言い渡し、この判決は1990年に最高裁判所で確定し、宮田さんは長期間服役することになってしまったのです。


経過と問題点

この事件で、宮田さんが犯人であることを直接示す証拠は、宮田さんの「自白」だけでした。


裁判のやり直しのための準備をしていた弁護士は、1997年、まだ開示していない証拠を見せるよう検察官に求めました。そして、弁護士が開示された証拠物を確認したところ、その中に、シャツの布切れが「4枚」ではなく「5枚」あることがわかったのです。しかも、その「5枚」の布切れを並べてみると、なんと、完全な1枚のシャツが復元されたのです。宮田さんが「燃やした」と自白させられていたシャツの左袖部分も、捜査機関はずっと持っていたのです。さらに、「切出小刀に巻き付けて刺した」とされたそのシャツの左袖部分からは、血液が検出されていなかったこともわかりました。シャツの左袖は、犯行に使われてもいなかったし、その後に燃やされてもいなかったのです。


完全に復元されたシャツ


そのシャツの左袖部分は、宮田さんが起訴された4日後の1985年2月14日に宮田さんの家から発見されて捜査機関の手に渡り、その日のうちに血液の付着の有無について調べる手続が行われていました。そして、14日後の2月28日には「血液の付着を証明し得ない」旨の鑑定書が作られていました。しかし、捜査機関は、そのことを全て把握しておきながら、「燃やした」とされたシャツの左袖部分が見つかったことも、その部分に血液が付いていなかったことを示す鑑定書も、当初の裁判では提出しなかったのです。


裁判のやり直しの段階になってようやく、捜査機関が弁護士側に開示してこなかったシャツの左袖部分が発見されたことで、宮田さんが虚偽の自白をさせられた可能性が濃厚となり、2016年6月30日、熊本地方裁判所は、裁判のやり直しを認めました。


再審開始決定に喜ぶ宮田さん


しかし、検察官は、この判断を不服として、福岡高等裁判所に「即時抗告」をしたのです。2017年11月29日、福岡高等裁判所は、検察官の「即時抗告」を退け、裁判のやり直しを支持しましたが、これに対して検察官は、さらに、最高裁判所に「特別抗告」まで行いました。


2018年10月10日、最高裁判所は検察官の「特別抗告」を棄却し、ようやく宮田さんの裁判のやり直しが確定しました。その後の2019年2月、宮田さんに対するやり直しの裁判が行われ、熊本地方裁判所は、2019年3月28日、宮田さんに無罪判決を言い渡しました。事件が起き、宮田さんが犯人として逮捕されてから、34年以上も経ってのことでした。



無罪が確定した翌年の2020年10月29日、宮田さんは87歳で亡くなりました。宮田さんのことをずっと支え、裁判のやり直しの手続にも協力していた宮田さんの長男は、2017年9月、父親の汚名がそそがれる様子を見ることも叶わず、病気で亡くなりました。


捜査機関が証拠を隠すことなく、シャツの左袖部分が見つかり鑑定書が作成された1985年2月の段階で、その証拠を弁護士に開示するとともに裁判所に提出していれば、そもそも、その後に宮田さんに有罪判決が言い渡され、宮田さんが長期間にわたって服役することにはならなかったかもしれません。宮田さんが、34年以上もの間、殺人犯の汚名を着せられて苦しむ必要はなかったのです。


また、裁判のやり直しを認めた2016年6月30日の熊本地方裁判所の判断に対し、検察官が「即時抗告」や「特別抗告」といった不服申立てを行わなければ、宮田さんの長男がご存命の間に、宮田さんに対して無罪判決が言い渡されていたことでしょう。しかも、「即時抗告」や「特別抗告」の手続が行われていた間に、宮田さんご自身の認知症も進んでしまいました。検察官の不服申立てが禁止されていれば、宮田さんが、人生の最晩年の約3年間を、殺人犯の汚名を着せられたまま過ごさなくてもすんだはずです。また、裁判の意味をもっと理解した上で、ご自身の雪冤が果たされた喜びをより一層噛み締めることができたはずです。


証拠開示の法制化、検察官の不服申立ての禁止は、一刻も早く、実現されるべきです。