湖東事件


事案の概要

2003年(平成15年)年5月22日午前4時30分ころ、滋賀県愛知郡湖東町(当時)の湖東記念病院で、入院患者のT氏(当時72歳)が心肺停止状態になっているのを、当直のM看護師と看護助手の西山美香さんが発見しました。T氏は約7か月前に心肺停止状態で湖東記念病院に救急搬送され、一命は取り留めたものの植物状態となり、人工呼吸器で生命を維持している状態でした。


T氏の死から1年以上が経過した2004年7月2日、任意で取調べを受けていた西山さんは、取調官のY刑事に対して、人工呼吸器のチューブを外してT氏を殺害したと自白し、同年7月6日に殺人罪で逮捕されました。西山さんの自白は、T氏の殺害方法について目まぐるしい変遷を繰り返しましたが、最終的に人工呼吸器のチューブを約3分間外して窒息死させたという内容となりました。検察官は、西山さんの自白に基づいて、同年7月27日に殺人罪で起訴しました。


西山さんは公判で犯行を否認し、無実を訴えましたが、大津地方裁判所は捜査段階の自白を根拠として懲役12年の有罪判決を宣告し、2007年5月21日に最高裁判所で有罪判決が確定しました。西山さんは、24歳で逮捕され、保釈も認められないまま刑が確定して和歌山刑務所に服役し、2017年8月24日に満期出所したときは37歳になっていました。


経過と問題点

2010年9月21日、西山さんは、心理学者による供述鑑定などを新証拠として、大津地方裁判所に1度目の再審請求をしましたが棄却され、大阪高等裁判所に即時抗告しますが棄却され、2011年8月24日に最高裁判所でも特別抗告が棄却されました。


2012年9月28日、西山さんは、T氏の死因に関する法医学鑑定などを新証拠として、大津地方裁判所に2度目の再審請求をしました。大津地方裁判所は請求を棄却したものの、2017年12月20日、西山さんの即時抗告を受けた大阪高等裁判所は、①T氏が他の死因で死亡した可能性があること、②自白についても、その変遷から体験に基づく供述ではない疑いがあり、西山さんが取調官の誘導に迎合した可能性があることから、T氏が自然死した合理的疑いがあるとして、再審開始を決定しました。


大阪高等裁判所の再審開始決定に対して、検察官は特別抗告をし、解剖医の供述調書や法医学者2名の鑑定書を新たに作成し、これらの証拠調べを請求していました。しかし、2019年3月18日、最高裁判所も、検察官の特別抗告を棄却して再審開始が確定し、再審公判が開かれることになりました。


検察官は、再審公判で有罪立証を行うと宣言し、具体的な立証計画も明らかにしていました。しかし、検察官は、2019年9月になって、突然「有罪立証を行わない」と述べ、同年10月18日に「被告人が有罪である旨の新たな立証は行わない」「年度内に判決が受けられるよう、期日を指定していただきたい」との書面を提出しました。


弁護団は、この事件の真相を解明するべく、未開示証拠の開示を粘り強く求め続けていたところ、検察官は未開示であった相当数の証拠を数回に分けて開示し、未開示証拠の一覧表も交付しました。


そして、同年10月31日、「2019年7月29日に新たに送致された別表記載の証拠を開示する」として、滋賀県警察が再審開始決定後に初めて検察官へ送致した証拠のうち58点を開示しました。これらの証拠の中には、人工呼吸器の管内での痰の詰まりによりT氏が心臓停止した可能性もあるとする解剖医の所見が書かれた捜査報告書など、西山さんの無実を裏付ける証拠もありました。滋賀県警察は、西山さんにとって有利な証拠を、再審公判が始まるまで検察官にも隠し続けていたのです。仮に捜査段階でこれらの証拠が検察官へ送られていれば、西山さんは起訴すらされていなかったかもしれません。


解剖医の所見が記載された捜査報告書(イメージ)


再審公判の審理は、2020年2月3日と同年2月10日の2回に分けて行われました。冒頭陳述で「適切な判断を求める」とだけ述べて無罪主張をしない検察官に対し、弁護団は「公益の代表者としてふさわしくない」と批判しました。


被告人質問で、西山さんは、Y刑事の気を引こうとして嘘の自白をした経緯や、弁護人の忠告に従って否認をしても「逃げるな」「そんな弁護士を信用するな」と取調官から言われたこと、取調官がジュース、ドーナツ、ケーキ、ハンバーガーなどの飲食物を提供していたことを述べました。


論告で、検察官は、冒頭陳述と同様に「適切な判断を求める」とだけ述べて、求刑をしませんでした。


2020年3月31日、大津地方裁判所は、西山さんに無罪判決を言い渡しました。弁護団提出の新証拠をもとに、T氏が自然死した具体的可能性を認め、自白以外の証拠では事件性を認めるに足りないとし、自白についても、信用性に疑いがあるだけでなく、防御権の侵害や捜査手続の不当によって誘発された疑いが強く、その任意性にも問題があるとして、証拠から排除しました。


裁判長は、無罪判決を言い渡した後、10分以上もの「説諭」を行い、「取調べや客観証拠の検討、証拠開示のどれか一つでも適切に行われていれば、このようなことにならなかった」と現行制度の問題点に言及し、「もう嘘は必要ありません」と、目を赤くし、声を詰まらせながら西山さんに語りかけました。無罪判決は、検察官が上訴権を放棄し、同年4月2日に確定しました。


湖東事件の真相は、いつ亡くなってもおかしくない状態であった入院患者が、ある朝、心肺停止状態で発見されたという出来事であり、そこに「事件」はありませんでした。警察が事件のないところに「事件」を作り上げた「空中の楼閣」だったのです。


そして、過去に再審無罪となったえん罪事件の多くは20世紀の事件ですが、湖東事件は21世紀になってもえん罪が起きることを明らかにしました。


湖東事件で、えん罪を生んだ原因のひとつは嘘の自白です。

西山さんは、軽度の知的障がいや発達障がいがあり、取調官の誘導に乗りやすい特徴がある「供述弱者」でした。警察も、西山さんがY刑事に好意を抱いたことを利用し、弁護人との信頼関係も破壊していきました。さらに、西山さんの自白を維持させるために起訴後も頻繁に取調べを行い、「公判で否認しても、それは自分の本心ではない」という検察官宛ての手紙を書かせていました。

このように、違法・不当な方法で自白がなされることのないよう、取調べの可視化(録音・録画)や弁護人の立会いを認めるなどの制度改革が必要です。


また、湖東事件でも、警察は、西山さんの無実を裏付ける重要な証拠を、再審公判の段階になるまで検察官にも隠し続けていました。通常の刑事裁判では証拠開示の制度化が進められてきましたが、再審請求でも証拠の開示をきちんと制度化すべきではないでしょうか。


なお、大阪高等裁判所の再審開始決定に対して、検察官は特別抗告をすることで、湖東事件の再審開始が約1年3か月遅れ、西山さんのえん罪被害救済もそのぶん遅れることになりました。再審開始決定に対する検察官の不服申立ては、えん罪被害者の救済を不当に遅らせるものであり、やはり禁止すべきではないでしょうか。