布川事件

事案の概要

1967年(昭和42年)8月30日、茨城県北相馬郡利根町布川で、一人暮らしの62歳の男性が死体で発見されました。事件が起きた町の名前である布川にちなんで「布川事件」と呼ばれるようになります。しかし、この事件は後に再審請求がなされ、誤った裁判がなされた事件であることを象徴するものとして、布川事件と言われるようにもなりました。


被害者の死体の両足はタオルとワイシャツで縛られ、首はパンツが巻き付けられ、口の中にはパンツが押し込まれた状態でした。


室内は荒らされ、小銭が落ちていて、死体が発見された8畳間の床は、床板、根太掛(ねたがけ)が折れて大きく落ち込んでいました。室内の2枚のガラス戸は外され、一部のガラスは割れていました(犯行現場の見取り図と室内の写真をご参照)。


犯行現場見取り図と犯行現場写真(ガラス戸の状況)


経過と問題点

被害者の死体解剖の結果、8月28日夜から29日早朝が犯行日時と推定され、県警の捜査本部が置かれ大々的に捜査が進められました。


しかしながら、捜査は難航し、死体発見から40日以上たった10月10日に櫻井昌司さんが、10月16日に杉山卓男さんがいずれも別容疑で逮捕されました。櫻井さんの別件の取調べは早々に終了し、10月12日ころから警察により強盗殺人事件の取調べが続きました。櫻井さんは強盗殺人に対しては否認していましたが、取調官から、被害者宅前でお前を見たという人がいる、お袋もやってしまったことは仕方ないと言っている、ポリグラフ検査で陽性反応が出た等と虚偽の事実を告げられ、10月15日に自白してしまいました。杉山さんも逮捕当初強盗殺人を否認していましたが、取調官から、櫻井さんが杉山さんと一緒にやったと泣いて謝っているなどと言われ、10月17日に自白をしてしまい、二人の多数の自白調書が作成されました。


その後、二人は警察の留置場から拘置支所(刑事裁判が確定していない人が収容される施設)に移され、担当の検察官は、11月13日、強盗殺人については処分を保留して釈放しました。


しかし、その後、担当の検察官が交替し、二人は12月1日に再び警察署の留置場(代用監獄)に身体が移され、再び警察において強盗殺人の取調べを受けることになったのです。二人は当初否認したものの、再度自白に追い込まれました。12月中旬ころからは、検察官による取調べが始まり、二人は当初犯行を否認したのですが、数日後に自白してしまいました。警察による取調べでは、櫻井さんは、「否認していると死刑になる」と言われ、担当の検察官からは、「救いようがない」、「極刑もあり得る」という脅し文句を突き付けられていたのです。二人は12月28日に強盗殺人罪で起訴されてしまいました。


第一審の水戸地方裁判所土浦支部での裁判は、1968年2月15日から始まりました。二人は強盗殺人については一貫して否認を続けました。裁判では、死体が発見された当日に二人を最寄りの駅や被害者宅への路上や被害者宅前で目撃したという複数の証人の尋問がなされ、二人の自白調書も証拠として取調べがなされました。二人と犯行を結びつける物的な証拠は一切ありませんでした。


裁判所は、二人と犯行を結び付ける物的証拠は一切ないものの、二人は詳しい自白をしているし、現場につながるいくつかの場所で、犯行日時と推定された8月28日に二人を見た人が多数いるとして、二人を有罪にしました。二人は控訴しましたが、棄却され、最高裁判所に上告しました。しかし最高裁判所は長文の決定を出し、自白がなくても目撃証人らの証言などの情況証拠があるので十分に有罪と認定できるとの理由を付して棄却しました。


刑務所に服役中の1983年、二人は裁判のやり直し、再審の請求をしましたが、9年の歳月がかかったものの認められませんでした。1996年11月仮釈放になって社会に戻った二人は、諦めることなく弁護団とともに再審請求の準備を始め、2001年12月に2回目の再審請求をしました。


再審請求の手続では、(1)確定判決が摘示した被害者の死因は「扼殺」ではなく、「絞殺」である、(2)二人を見たという多数の目撃証言は、目撃した日時を間違っていた、(3)夜間に二人を見たという証言については、実験をすると正確には視認できない、(4)指紋が発見されないのは二人が現場にいなかったことを示す、(5)櫻井さんが獄中で綴っていた日記からは警察官や検察官の違法な取調べがなされたことが強くうかがえ、無実の者しか書けない内容に満ち溢れている(獄中日記の写真ご参照)などなど多くの疑問が指摘され、これを支える多数の新証拠が提出され、審理がなされました。医学鑑定に関する証人尋問をはじめとして複数の証人の尋問も行われ、2005年9月、水戸地方裁判所土浦支部は、裁判のやり直し、再審開始を決定しました。これを不服として検察官は即時抗告をしましたが、東京高等裁判所はさらに事実調べを行い、2008年7月、検察官の不服申立てを退けました。これに対して検察官は最高裁判所に特別抗告まで行いましたが、2009年12月、最高裁判所も検察官の不服申立てを退け、再審の開始が確定しました。弁護団は、再審請求手続において、検察官が手元に保有する未開示の証拠を開示するよう繰り返し要請し、検察官が開示した証拠のうち、無罪をうかがわせる証拠を新証拠として出し続けました。その中には、櫻井さんに対する取調べを録音したテープもありましたが、分析をすると、捜査官が録音を止めたり、テープを戻したりして取調べ内容を操作していることが分かりました。証拠開示がなされたことで、検察官が隠し持っていた無罪方向の証拠が明らかにされたのです。


櫻井昌司さん作成の獄中日記(1967年11月8日~1970年10月6日のもの)


2010年7月からやり直しの裁判、再審公判手続きが始まり、都合7回の公判が行われました。ここでも弁護団は、検察官に対してまだ開示していない証拠を開示するよう求め、開示された無罪方向の証拠を提出しました。再審公判では、事件当時杉山さんを被害者宅前で目撃したという証人の尋問がなされましたが、杉山さんであったという特定はされませんでした。また二人に対する被告人質問がなされ、二人は警察や検察における取調べの状況を詳しく供述し、違法捜査がなされていたことが赤裸々に語られました。二人が取調べの状況を、長い期間にわたり、何度も反芻しつつ記憶を紡いできたことが強くうかがえます。


判決では、櫻井さん、杉山さんら二人の犯人性は、これを推認させる情況証拠は何ら存在しないこと、他方、自白の任意性には疑義があること、信用性については否定されること、捜査官の違法な取調べがなされたこと、捜査官は偽証をしていたこと、再審請求審で開示された櫻井さんに対する取調べ中の様子を録音したテープは、各種の細工がなされていたことなどが指摘され、二人は強盗殺人の犯人ではないとして無罪となりました。


二人が逮捕されてから、実に44年の年月が経過して、二人が一貫して叫び続けていたことがやっと認められて汚名をそそぐことができたのです。警察や検察が違法な捜査を続け、検察官が不十分な証拠に基づき無理やり起訴し、公判では警察官が偽証まで繰り返していましたが、再審公判ではそうした多くの違法行為が明らかにされました。



以上のとおり、再審開始決定は検察官が不服申立てをしたことにより、4年以上時間が余計にかかりました。また、検察官が隠し持っていた未開示の記録が開示されたことにより、無罪の方向を示す証拠が、実は多数存在していたことが明らかになり、検察官の不正な対応が明るみに出たことも指摘できます。再審開始決定に対する検察官の不服申立てを禁止すること、検察官手持ちの未開示証拠が開示されることは無論のこと、70年以上も改正されたことのない不備だらけの再審請求手続が全般的に改正され、適正化が図られることが重要と考えられます。

再審法の世界に、「法の支配」の原則を確立させないといけません。