北九州爪ケア事件

2007年6月に福岡県北九州市の病院の看護師Aが同病院に入院中の患者2名の爪を剥がしたとして傷害罪で逮捕された事件。控訴審で正当な医療行為であったと認められ無罪となったえん罪事件。


事案の概要

療養型医療施設と呼ばれる高齢者を対象とした一般内科病院に勤務する看護師Aの入院患者に対する爪切り行為が問題となった。


Aは、過去に患者の爪がシーツに引っかかり取れて出血しているのを見た経験から入院患者の爪を切るようになった。当初は指先から先に伸びた爪を切っていたが、高齢の入院患者の爪の中には、肥厚して、爪が爪床から浮くなどしており、爪切りニッパーで切るとぼろぼろと切り崩れるものもあり、2004年か2005年頃からは、入院患者のそうした爪を、指先よりも深く切るようになった。



(1) 患者Bの爪

Aは、2007年6月11日、脳梗塞等で入院していた患者Bに点滴の処置をした際、右足親指の爪が肥厚して黒ずみ、右第2趾の方向に曲がって伸びているのを発見したため、Bのベッドの右脇に、Bの足先の方向を向いて床に両膝をついた体勢で、爪切りニッパーで爪を切った。爪の先端部から爪の根元の方に向けて、爪を徐々に切り進めた。右足親指の爪は、肥厚しており、脆く、爪切りニッパーで切ると、切り崩れた。Aは、爪の隙間に爪切りニッパーの片刃を少しずつ差し入れるようにしながら、指先より深くまで爪を切り取っていき、爪切りニッパーの刃を差し入れる隙間がなくなるまで爪を切り取った。


その結果、右足親指の爪は、根元部分に爪の4分の1から3分の1程度、鋸歯状となった状態となった。爪切りを終えてまもなく、切り取らなかった爪付近から血がにじみ出た。そのため、点滴に使用するために持ってきていた消毒用の綿花であるステリコットを露出した爪床に巻いてテープで固定した。


(2) 患者Cの爪

クモ膜下出血後遺症等で入院中の患者Cの右足中指の爪が剥がれかかっていたところ、主治医のD医師が、6月11日にその状態を診察した。爪部分の先端部は浮いているものの、すぐには剥がれない状態だと判断し、医師指示表に、爪は自然経過(落下)にまかせると記載して指示した。Aは、同日、午前11時前後、チームステーションでCの医師指示表の上記記載を確認し、看護師欄にサインをした。


Aの上司である看護部長Eは、Aに対し、患者の足はもう触らないようにしなさいと指示したが、同日、Aは、Cの夫が見舞いに訪れた際、同人に対し、「奥さんの親指の爪をこのままにしたら毛布とかに引っかかって危ないので、私が切らせてもらっていいですか。」と告げ、6月15日午前7時45分頃、Cの爪を切るために、ワセリンと爪切りニッパーを持って、Cの病室に行き、「おはよう。今から爪を切るよ。」とCに声をかけ爪を切った。


まず、Cの右足にワセリンを塗った。そして、Aは、Cの右足中指の爪について、Cの右足中指に横方向に貼られたガーゼ付き絆創膏を剥がし、続いて、縦方向に貼られたガーゼ付き絆創膏の粘着部分を剥がした上、Aの右手の人差し指の腹を絆創膏の上からC右足中指の爪先に当て、Aの右手親指を、その爪の根元付近に押し当て、そのまま親指と人差し指で絆創膏ごと爪をつまむようにして、Cの右足中指の爪を取り去った。その結果、爪の根元の両脇部分に、ティッシュペーパー等を当てればそちらに付着する程度に点状に出血した。


続いてAは、Cの右足親指の爪を切った。Cの右足親指の爪は、全体的に白く変色しており、爪の中央付近から先の方が何層にも重なったようになって著しく肥厚し、伸びた爪の先が指先に沿うように少し下に曲がっていた。Aは、爪切りニッパーで、爪の先端部から爪の根元の方に向けて、爪を切っていったが、爪が脆くなっていたため、爪切りニッパーで徐々に切り進めると、爪がぼろぼろと切り崩れた。Aは、指先よりも深い箇所であっても爪と爪床との隙間へ爪切りニッパーの刃を少しずつ差入れるようにしながら、徐々に爪を切り進めた。また、切り進める最中、爪切りニッパーの刃の逆側の湾曲した薄い辺のところで、取れかかった爪をほじるようにこさいだりもした。


爪床が5分の4程度露出するところまで爪切りを進めたころ、爪切りニッパーの圧力で、C右足親指の爪の根元近くの皮膚に、赤紫色の、幅約1ミリから2ミリ程度、長さ約1センチ足らずくらいの線状の内出血が生じた。Aは内出血が生じたことに気づき、また、爪切りニッパーの刃を差し入れる隙間が見当たらなくなったことから、爪切り行為を終了した。


その結果、爪の5分の4程度が切り取られ、爪床が5分の4程度露出した。切り取られなかった根元部分の爪の断面は、爪が崩れた跡の鋸歯状の状態であった。爪切り後に、残存した爪付近からティッシュペーパー等を当てればそちらに付着する程度の血がにじんだ。


逮捕~起訴

2007年6月25日、病院はAが患者の爪を剥いでいるとの記者会見を行った。その後、Aのことを「爪剥ぎ看護師」とする報道が連日連夜なされた。


AはBに対する傷害の容疑で7月2日に逮捕され、7月23日に傷害罪で起訴された。同年10月4日、事実関係を調査した日本看護協会は「虐待ではなく看護ケア」との見解を発表した。それにもかかわらず、検察官は同月31日、患者Cへの傷害罪でさらに起訴した。


第一審(福岡地裁小倉支部平成21年3月31日判決)

Aは、C及びBの爪を剥いだことはなく、C及びBの各右足親指は、爪の浮いている部分を爪切りで切除した、Bの右足中指は、絆創膏の貼替え時に爪が取れたに過ぎず、したがって、Aには、傷害の実行行為も結果もない、また、傷害の故意もない、仮にAの行為が傷害罪の構成要件に該当するとしても、正当業務行為として違法性が阻却される旨を主張した。


これに対し、第一審は、看護師の捜査段階における供述調書の信用性を肯定し、これらの供述調書を含む関係証拠によって、看護師の犯罪事実として、(1)Cに対し、その右足親指の肥厚した爪を、爪切り用ニッパーを用いて指先よりも深く爪の3分の2ないし4分の3を切除し、爪床部分から軽度出血を生じさせる傷害を負わせ、(2)Bに対し、その右足中指の剥がれかかり根元部分のみが生着していた爪を、同爪を覆うように貼られていた絆創膏ごとつまんで取り去り、同指に軽度出血を生じさせるとともに、右足親指の肥厚した爪を、爪切り用ニッパーを用いて指先よりも深く爪の8割方を切除し、同指の爪の根元付近に内出血を、爪床部分に軽度出血を生じさせる傷害を負わせたと認定し、各傷害罪の成立を認め、看護師を懲役6月・3年間刑執行猶予に処した。


控訴審(福岡高裁2010年9月16日判決)

控訴審は、第一審を破棄し、Aに無罪を言い渡した。


控訴審判決は、Aの捜査段階の供述調書を信用することはできないとしたうえで、以下のように判示した。


 ・各公訴事実中、Bの右足中指の爪を剥離させたという点は、Aが、経過観察のために、浮いていた爪を覆うように縦横に貼られていた絆創膏を剥がした際、爪が取れてしまったものである。


 ・爪床と若干生着ないし接着していた爪甲が取れて爪床を露出させている以上、傷害行為には当たるが、Aには傷害(または暴行)の故意が認められないから、傷害罪の構成要件に該当しない。


 ・また、C及びBの各右足親指の爪を剥離させたという点は、Aが、爪切り用ニッパーで指先よりも深く爪を切除し、本来、爪によって保護されている爪床部分を露出させて皮膚の一部である爪床を無防備な状態にさらしたものであるから、傷害行為に当たり、傷害の故意もあるので、傷害罪の構成要件には該当するが、看護目的でなされ、看護行為として必要性があり、手段、方法も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえないから、いずれも正当業務行為として違法性が阻却される。



その上で、本件各傷害罪の成立を認定した1審判決には、明らかな事実誤認があるというべきであるとした。



捜査段階の供述調書の信用性を否定

控訴審判決は、Aの捜査段階の供述調書を信用できない理由として以下の点を挙げ、爪の剥離行為を認める供述部分はもとより、その動機・目的等を含むその余の部分も含め、Aの真意を反映せず、捜査官の意図する内容になるよう押し付けられ、あるいは誘導されたものとの疑いが残り、その疑念を払拭できるだけの特段の事情も見当たらない、としてその信用性を否定した。


<Bの右足親指について述べた検察官調書>

 ・「爪を剥離させたときの状況についてお話しします」

 ・「爪床から先に伸びた部分だけじゃなく、とれるところまで全部切ったりして剥がしてしまおうと思って」

 ・「剥がせるだけ爪を切って剥がすつもり」であった

 ・「Bさんの爪は肥厚して爪床から少し浮いていたので、爪床と爪の間にニッパーの片側の刃を差し込んで、そして同じようにハの字に切って爪を剥がしていった」

 ・「患者の苦痛についてはあまり考えられなくなってい」た

 ・「無用な爪を剥がしていくということに集中して、ある意味のおもしろさを感じて」いた


<Bの右足親指について述べる警察官調書>

 ・「爪切り専用ニッパーを使って、切るなどして剥いだ事件について話します」

 ・「ニッパーを使って切り、剥ぎ取ってしまいたいという思いしか無く、看護師の業務等という考えは、頭から吹き飛んでい」た

 ・「認知症を患い、物を言う事も、体を動かす事も、殆ど出来ない老人の爪を、自分の欲するままに剥ぐ、という残酷な事をすることには、全く躊躇はなかった」

 ・「肥厚した爪を剥ぎ取ってしまう事での、自己満足を得たいがため、それでもかまわないという思いばかりが勝り、このように出血を見るまで、爪を切り続け剥ぎ取った」

このような供述調書が作成された事情について、Aは、いくらケアだと言っても刑事は理解してくれず、これは爪を剥いだとしかいえないなどと言われ、その表現を受入れ、供述調書の署名も、これをしなければ自分はどうなるか分からず、自分の運命は刑事が握っていると思いサインをした、また、看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしなさい、などと言われ、Aの行為が爪の剥離行為であると決め付けられ、看護師としての爪ケアであることの説明を封じられた旨を公判で説明した。


これを前提に、控訴審は、
「Aが爪ケアとしての爪切り行為であると説明しても、警察官から、爪の剥離行為であると決め付けられ、その旨の供述を押し付けられ、これを認める供述をしたという疑いを容れざるを得ず、その後のAの検察官に対する供述も、前の爪の剥離行為を認める供述に沿って誘導されたものと疑わざるを得ない。そして、Aの行為態様が、爪を剥いだ行為なのか、爪床から浮いている爪甲を切った行為なのかは、まさに本件の核心部分であるが、「剥離」ないし「剥いだ」という供述が、供述調書全般に繰り返し多用されていること、また、そのような剥離行為であるとなれば、およそこれを正当化することは困難であることはAも十分認識していたことは明らかで、剥離行為を認めることは、不当な動機・目的による行為であることを認めるに等しく、剥離行為を認める供述が、その動機ないし目的についての供述とも密接に関わることになることからすると、上記の疑いは、剥離行為を認める供述のみならず、動機、目的を含めたその余の供述部分の信用性にも重大な影響を及ぼすものというべきである。そうすると、Aの捜査段階の供述は、爪の剥離行為を認める供述部分はもとより、その動機・目的等を含むその余の部分も含め、Aの真意を反映せず、捜査官の意図する内容になるよう押し付けられ、あるいは誘導されたものとの疑いが残り、その疑念を払拭できるだけの特段の事情も見当たらない。」

とし、無罪を言い渡した。


控訴審が言い渡した無罪判決に対し検察官は上告を断念し、Aの無罪が確定した。



blank平成22年9月16日 福岡高等裁判所判決(裁判所ウェブサイト)