志布志事件(鹿児島選挙違反事件)

2003年4月13日施行の鹿児島県議会議員選挙の候補者の選挙運動に関して、候補者本人や鹿児島県曽於郡志布志町(当時)の住民に対して公職選挙法違反の嫌疑が向けられた一連のえん罪事件。任意取調べの最中に、取調官が取調べ対象とされた男性に対し、同男性の親族の名前等を記載した紙を踏ませる等したこと(「踏み字」)が明らかになった「ビール口・焼酎口事件」、付近に住む8名が買収事件で取調べを受けたものの立件されなかった「現金供与事件」、「4回の会合が開かれ、計191万円が授受された」とされて住民13名(後に1名が死亡)が公職選挙法違反に問われた「買収会合事件」が含まれる。


ビール口・焼酎口事件(踏み字事件)

鹿児島県議会議員選挙で前記候補者の運動員であったホテル経営者は、2003年4月14日から16日まで連日、任意同行されて警察署において取調べを受けた。鹿児島県警がホテル経営者に向けた嫌疑は、候補者への投票等を依頼する趣旨で志布志町内の建設業者に缶ビール1ケースを供与したという被疑事実(ビール口事件)と、候補者への投票等を依頼する趣旨で志布志町内の有権者に焼酎を供与したという被疑事実(焼酎口事件)であった。


4月14日、取調べを担当した警部補は、取調べの前に、「決まりだから持ち物を机の上に出してくれ」と指示して、ホテル経営者に免許証入れを出させ、さらに、ホテル経営者の同意を得ることなく、着衣の上から身体のボディチェックをして、令状に基づかない捜索をした。そして、同日、ホテル経営者は、昼時には家に帰って食べると申し出たり、午後5時頃にはホテルが気になるからと帰宅を求めたりしたが、警部補は、任意取調べであるにもかかわらず、これを拒絶した。さらに、ホテル経営者がトイレに行く際にも、取調べ補助者が同行し、退去の自由を侵害した。


警部補は、4月16日の取調べの際、ホテル経営者の実父、義父、孫がホテル経営者を諭す体裁の次のような文章を考え、それをA4版の紙面にそれぞれ一枚ずつ書き記して、その三枚の紙をホテル経営者の足下に置き、正面にしゃがみこんで、右手で左足首を、左手で右足首を掴み、両足を持ち上げて紙の上に乗せた。


 「お前をこんな人間に育てた覚えはない」

 「じいちゃん、早く正直なじいちゃんになってください」

 「娘をこんな男に嫁にやった積もりはない」


4月16日の取調べ中、ホテル経営者は「弁護士を呼んでください」と要請したが、警部補は、この要請を無視し、取調べを続行した。


このような取調べを受けたホテル経営者は、2日目の4月15日の朝から吐き気、後頭部の痛みを覚え、翌16日の取調べにおいても吐き気、頭痛を訴え、「病院に連れて行ってほしい」、「家に帰らせてほしい」と言ったが、警部補らは無視して取調べを続けた。翌17日、ホテル経営者は、吐き気や頭痛がひどく、起き上がることができず、妻に病院へ連れて行くよう頼み、同日から同月30日まで入院することとなった。



現金供与事件

鹿児島県警は、2003年4月19日から、候補者の選挙運動員が、志布志町内の有権者に対し、候補者への投票等を依頼する趣旨で焼酎または現金を供与したという被疑事実に係る事件の捜査に着手した。


鹿児島県警は、4月22日、前記選挙運動員を、同人が、本件選挙において前記候補者を当選させる目的をもって、有権者に対し、候補者に対する投票および投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬等として、現金1万円および焼酎2本を供与し、別の有権者に対しても、同様の報酬等として、現金1万円を供与し、もって一面立候補届出前の選挙運動をしたとの被疑事実で逮捕した。同選挙運動員は、検察官の請求を受けて裁判官が発付した勾留状により勾留され、接見等禁止決定を受け、勾留期間延長決定を経て、5月13日に処分保留のまま釈放されるまで、身体を拘束された。


5月13日、鹿児島県警は、前記選挙運動員の夫を、同人が前記運動員と共謀の上、本件選挙において前記候補者を当選させる目的をもって、同候補者に対する投票および投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬等として、有権者らに現金1万円および焼酎2本を供与し、もって一面立候補届出前の選挙運動をしたとの被疑事実で逮捕した。夫は、検察官の請求を受けて裁判官が発付した勾留状により勾留され、勾留期間延長決定を経て、6月8日まで身体を拘束された。



買収会合事件

鹿児島県警は、2003年4月30日から、前記候補者がその妻ないし前記選挙運動員と共謀の上、投票等を依頼する趣旨で、2月上旬頃から3月下旬頃にかけて4回にわたり、志布志町の有権者を前記選挙運動員宅に招いて会合を開催して現金を供与したという被疑事実に係る事件の捜査に着手した。


検察官は、6月3日、1回目会合に関し、前記選挙運動員を含む6名を被告人として、公職選挙法違反の罪で公訴提起した(第1次起訴)。


鹿児島県警は、6月4日、4回目会合に関し、前記候補者、その妻および前記選挙運動員を含む8名を逮捕した。8名は、検察官の請求を受けて裁判官が発付した勾留状により勾留され、勾留期間延長決定を経て、6月25日まで身体を拘束された。


鹿児島県警は、6月8日、4回目会合に関し、前記選挙運動員の夫を逮捕した。夫は、検察官の請求を受けて裁判官が発付した勾留状により勾留され、勾留期間延長決定を経て、6月29日まで身体を拘束された。


鹿児島県警は、6月25日、4回目会合に関し、前記候補者、その妻および住民4名を逮捕した。6名は、検察官の請求を受けた裁判官の発付した勾留状により勾留され、接見等禁止決定を受け、勾留期間延長決定を経て、7月17日まで身体を拘束された。


鹿児島県警は、6月29日、1回目会合に関し、前記選挙運動員の夫を逮捕した。夫は、検察官の請求を受けた裁判官の発付した勾留状により勾留され、接見等禁止決定を受け、勾留期間延長決定を経て、7月17日まで身体を拘束された。


検察官は、7月17日、4回目会合に関し、前記選挙運動員およびその夫を含む10人を被告人として、公職選挙法違反の罪で公訴提起し、同日、1回目会合および4回名会合に関し、前記候補者およびその妻を被告人として、公職選挙法違反の罪で公訴提起した(第2次起訴)。


鹿児島県警は、7月23日、2回目会合および3回目会合に関し、前記候補者およびその妻を逮捕した。両名は、検察官の請求を受けた裁判官の発付した勾留状により勾留され、接見等禁止決定を受け、勾留期間延長決定を経て、8月12日まで身体を拘束された。


検察官は、8月12日、2回目会合および3回目会合に関し、前記候補者およびその妻を被告人として、公職選挙法違反の罪で公訴提起し、同日、同会合に関し、前記選挙運動員を含む6名を被告人として、公職選挙法違反の罪で公訴提起した(第3次起訴)。


検察官は、被告人である前記候補者およびその妻の起訴後勾留について、接見等の禁止を請求し、裁判官は、両名につき、第1回公判期日の日の午後10時までの接見等禁止決定をした。


検察官は、8月27日、2回目会合に関し、前記選挙運動員を含む2名を被告人として、公職選挙法違反の罪で公訴提起し、同日、同会合に関し、前記候補者およびその妻を被告人として、公職選挙法違反の罪で公訴提起した(第4次起訴)。


検察官は、10月10日、1回目会合に関し、前記候補者および前記選挙運動員を被告人として、公職選挙法違反の罪で公訴提起し、同日、同会合に関し、住民1名を被告人として、公職選挙法違反の罪で公訴提起した(第5次起訴)。


13名の被告人のうち、6名について、「自白」を内容とする供述調書が作成されていた。「自白」調書に署名押印した1人は、後に、国家公安委員会委員長主催の「捜査手法、取調べの高度化を図るための研究会」のヒアリングにおいて、次のように述べている。


  • 刑事は、私を頭から犯人扱いし、長時間の取調べを行った。取調べの中で、刑事から「お前を死刑にしてやる。」「みんなが認めているんだ。認めないと地獄に行くぞ。」等と言われた。また、受領したとする金額について、私が「1万円ですか。」と聞くと、「そんな半端な額ではない。」と言った。このような取調べにより、受領した金額と参加者は、刑事の言うとおりに調書化された。
  • 刑事は、私の主張を全く聞き入れず、机を拳で叩いたり足で蹴飛ばしたりした。また、刑事に、「机に手を載せたまま絶対下ろすな。」と言われ、同じ姿勢をとらされた。
  • 現金の受領現場の見取図を書かされた時は、刑事が下書きをした。
  • 検事調べで私が否認すると、検事から、「頭を冷やして出直してこい。」などと言われた。


2003年7月3日の第1回公判期日から2007年2月23日の判決宣告期日まで、54回の公判期日が開かれた。13名の被告人のうち、10名は当初から無罪を主張し、当初公訴事実を認める旨の陳述をした3名も、その後否認に転じた。


第1回公判期日の前日である2003年7月2日、検察官が勾留中の被告人の1人を訪問し、被告人と弁護人との間の接見内容を聴取して調書を作成し、翌3日、裁判所に対して国選弁護人の解任請求をした。これを受けて、裁判所は、弁護人に対し、弁護人が接見室で家族の励ましの手紙を被告人に見せたことを確認し、7月7日、国選弁護人を解任し、翌8日、事件を合議体で審理する旨を決定し、新たな国選弁護人を選任した。これに対しては、鹿児島県弁護士会が弁護活動に対する重大な侵害行為であるとして検察庁および裁判所に抗議し、国選弁護人の推薦を一時停止するなどの対抗措置を採った。合議体の裁判長は、2006年3月、定年を待たずに退官した。


鹿児島地方裁判所は、2007年2月23日、


  • 「自白」によれば会合に出席していたことになる被告人にアリバイが存在すること
  • 本件買収会合が開かれたとされるのは、わずか7世帯しかない集落であるが、このような小規模の集落において、ほぼ同じ顔ぶれの買収会合を開き多額の現金を供与することに選挙運動として果たしてどれほどの実効性があるのか、実際にそのような多額の現金を供与したのか疑問があること
  • 「自白」において供与されたとされる現金については、その原資が全く解明されておらず、供与後における使途も不明であるなどの客観的証拠の裏付けを欠き、「自白」した原告らの供述は、合理的理由のない変遷をしている上、その変遷の過程で、それぞれの供述が相互に影響を及ぼし合っていたことが強く疑われること
  • 原告らが連日のように極めて長時間の取調べを受け、取調官から執拗に追及されたため、苦し紛れに供述したり、捜査官の誘導する事実をそのまま受入れたりした結果、このような供述経過になったと見る余地が多分にあること


などを指摘して、捜査段階および公判廷における「自白」はいずれも信用することができず、他に公訴事実を認めるに足りる他の証拠はないとして、判決前に死去した1名を除く被告人12名全員を無罪とする判決を言い渡した。検察官は控訴せず、無罪判決は確定した。



国家賠償請求事件等

ビール口・焼酎口事件(踏み字事件)の取調べに関して提起された国家賠償請求事件において、鹿児島地方裁判所は、2007年1月18日、警部補はホテル経営者に不法な有形力を行使し、また、任意捜査における退去の自由を制約し、令状なしに身体の捜索をするなどの違法行為により精神的苦痛を与えたものであるとして、鹿児島県に対し、賠償を命じる判決を言い渡した。


弁護人らが提起した国家賠償請求事件において、鹿児島地方裁判所は、2007年10月9日、警察官および検察官らが被疑者および被告人らを取り調べた際、弁護人との接見内容を聴取し、供述調書に録取して、秘密交通権を侵害したと認め、鹿児島県および国に対し、賠償を命じる判決を言い渡した。


無罪判決を受けた被告人らが提起した国家賠償請求事件において、鹿児島地方裁判所は、2015年5月15日、鹿児島県警の警察官らによる違法な取調べ、警察官による弁護権侵害、検察官および警察官らによる違法な捜査、検察官による違法な起訴を認定し、鹿児島県および国に対し、賠償を命じる判決を言い渡した。



【参考】

〔刑事事件無罪判決〕blank鹿児島地方裁判所平成19年2月23日判決(裁判所ウェブサイト)・判例タイムズ1313号285頁

〔踏み字国賠〕鹿児島地方裁判所平成19年1月18日判決・判例時報1977号120頁

〔接見国賠〕鹿児島地方裁判所平成20年3月24日判決・判例時報2008号3頁

〔取調べ国賠〕鹿児島地方裁判所平成27年5月15日判決・判例時報2262号232頁

blank警察庁「捜査手法、取調べの高度化を図るための研究会」第6回会議(平成22年7月23日開催)議事要旨(警察庁ウェブサイト)

blank最高検察庁「いわゆる氷見事件及び志布志事件における捜査・公判活動の問題点等について」(2007年8月)(最高検察庁ウェブサイト)