湖東記念病院事件

事案の概要

湖東記念病院(滋賀県)に重篤な症状で入院していた患者B(72歳)に装着されていた人工呼吸器のチューブを引き抜いて酸素の供給を遮断して呼吸停止状態に陥らせて、急性低酸素状態により死亡させて殺害したとして、看護助手として勤務していた女性Aが殺人罪で起訴され、2007年5月に確定した有罪判決が、再審において無罪となったえん罪事件。


確定審での判断

Aは、捜査段階で自白していたが、公判では否認に転じ、無罪を主張した。しかし、第一審から上告審に至るまで、いずれもAを有罪とした。


(1)第一審(大津地裁2005年11月29日判決)

酸素供給が途絶した原因が人工呼吸器の誤作動や何者かの過失であるとは考えられず、何者かが故意にBを殺害しようとして酸素供給を途絶させることは人工呼吸器のチューブを外すなどの方法で容易にできることであり、また、その際、人工呼吸器の消音ボタンを押せばアラームを止めることができ、また、Bの死亡時に誰もアラーム音を聞いていないのは、アラームが鳴らないように作為が加えられたためと考えるのが合理的であり、Bは何者かによって殺害されたものであると推認されるとした。Aの捜査段階における自白については、極めて高い自発性が認められ、その内容は詳細かつ具体的で不合理なところがなく、その核心部分において一部変遷があったものの捜査段階の途中からは一貫しており、当初の変遷についても変遷した理由が納得できるもので、自白の信用性は極めて高く、任意性にも疑いはないと判示した。他方で、虚偽の自白をした理由を述べるAの弁解は不合理で、公判供述は到底信用できないことから、AがBを殺害したことは優に認められるとして、被告人を懲役12年に処する有罪判決を言い渡した。
(裁判長長井秀典、裁判官藤野美子、裁判官山田哲也)


(2)控訴審(大阪高裁2006年10月5日判決)

Aの自白は、自ら進んで供述したもので自発性が高く、その内容も極めて詳細かつ具体的であり、捜査官の知らなかった事実をも含んでいるうえ、客観的な状況とも符合し、最終的な犯行態様を自白するまでの自白の変遷についてもとりたてて不自然な部分があるわけではないから信用性が高いとした。他方で、Aの公判供述は、不自然、不合理、かつ、曖昧であって、たとえば消音ボタンを押すことによる消音時間が1分間であることを事件前から知っていたかどうかといった枢要部分について合理性もなく変遷しており、信用性に乏しいとして、原判決には何らの事実誤認もないとして控訴を棄却した。
(裁判長若原正樹、裁判官遠藤和正、裁判官冨田敦史)


(3)上告審(最高裁第一小法廷2007年5月21日決定)

Aの自白の任意性を疑わしめる証跡は認められないとして、上告を棄却した。その後の異議申立ても同年6月4日に棄却され、有罪判決が確定した。
(裁判長泉徳治、裁判官横尾和子、裁判官甲斐中辰夫、裁判官才口千晴、裁判官涌井紀夫)



第一次再審請求

第一次再審請求は、2010年9月21日に申し立てられ、特別抗告まで争ったが、いずれも棄却された。申立てから特別抗告棄却までの期間は1年足らずであった。


(1)再審請求審(大津地裁2011年3月30日決定)

Aの捜査段階供述について、Aに高い迎合性が認められ、対人的葛藤状況に置かれると自暴自棄になる傾向があること、自白が真の体験記憶に基づいているとは言えないことを内容とする心理学的鑑定意見書等の証拠を提出して再審請求をしたが、これらの新証拠と確定判決等に表れた証拠を総合しても、請求人に無罪を言い渡すべき合理的な疑いを生ぜしめるものとはいえないとして、再審の請求を棄却した。
(裁判長坪井祐子、裁判官千松淳子、裁判官中出暁子)


(2)即時抗告審(大阪高裁2011年5月23日決定)

鑑定意見書について、妥当性の疑わしい独自の見解で証拠として取り扱うことの相当性にすら疑問があるなどとして、即時抗告を棄却した。
(裁判長松尾昭一、裁判官五十嵐常之、裁判官潮海二郎)


(3)特別抗告審(最高裁第二小法廷2011年8月24日決定)

適法な抗告理由に当たらないとして棄却した。
(裁判長竹内行夫、裁判官古田佑紀、裁判官須藤正彦、裁判官千葉勝美)




第二次再審請求

2012年9月28日に第二次再審請求がされた。再審請求は棄却されたものの、即時抗告審で原決定が取り消されて、再審開始が決定された。検察官の特別抗告は最高裁で棄却され、再審開始決定が確定した。


(1)再審請求審(大津地裁2015年9月30日決定)

Aの自白する方法ではBが死亡することはないなど自白が信用できないとの主張を排斥し、Bが病気で死亡したとの主張についても、新証拠として提出された死因に関する医師の意見書や供述心理の専門家の自白の信用性に関する意見書等の新証拠を踏まえても、確定判決の事実認定に合理的疑いを生じさせないとして請求を棄却した。
(裁判長川上宏、裁判官赤坂宏一、裁判官田中浩司)


(2)即時抗告審(大阪高裁2017年12月20日決定)

Aの自白を除いて検討すると、Aの死亡原因が酸素供給途絶であることは証明されておらず、Aの自白を加えて検討しても、Aの自白には、単独でも、解剖所見から心機能不全が死亡に関与した可能性は否定しきれないとする弁護人提出の新証拠などの証拠を併せてみても、Aの死亡原因が酸素供給途絶であると認め得るほどには信用性はないから、Aが自然死した合理的疑いが生じるとして、再審開始を決定した。
(裁判長後藤眞理子、裁判官杉田友宏、裁判官酒井康夫)


Aは、この決定が出る前の2017年8月24日、刑の執行を終え、出所していた。


(3)特別抗告審(最高裁第二小法廷2019年3月18日決定)

検察官の特別抗告を適法な抗告理由に当たらないとして棄却したことで、再審開始決定が確定した。
(裁判長菅野博之、裁判官山本庸幸、裁判官草野耕一)



再審(大津地裁2020年3月31日判決)

再審公判手続では、警察が検察官へ送致していなかった証拠の存在が明らかとなり、人工呼吸器の管内での痰の詰まりにより患者が心臓停止した可能性もあるとする解剖医の所見が記載された捜査報告書などが新たに開示された。


検察官は当初、再審においてもAの有罪を主張立証する方針を示していたが、後に新たな有罪立証を断念したものの、「取調済みの証拠に基づいて適切な判断を求める」として、確定審での主張は撤回しなかったが、判決は、そもそも事件性を認めることができず、むしろ、Bが病気で死亡した具体的可能性があるとし、自白には任意性がないとして、Aに無罪を言い渡した。
(裁判長大西直樹、裁判官今井輝幸、裁判官進藤諭)


各争点については以下のような判断がされた。


①確定審で根拠とされた法医学鑑定について
Bの遺体解剖を行った法医学教室の医師の鑑定について、人工呼吸器の管の外れ以外の可能性を排斥する理由が説明されておらず、医師が当初は、管の外れ以外の原因で酸素供給低下状態になった可能性も十分考えられると説明していたこと、低酸素状態のときの顔色は赤黒くなるのに、発見当時のBの顔色は蒼白であったことなどから、Aの死因に関する医師の判断は信用できない、とされた。


②想定されうる死因について
解剖所見や診療経過から、低カリウム血症に起因する致死性不整脈等の複数の死因の具体的可能性が想定される、として、人工呼吸器の管の意図的な抜去による酸素供給遮断であると認めるに足りる証拠はない、とされた。


③Aの自白の任意性および信用性について
Aの供述は、複数の重要な点でめまぐるしく大幅に変遷していて、真の体験に基づく供述を選別することは極めて困難であり、アラームを鳴らさずに故意に酸素供給遮断状態を作出したとの供述について、いつアラームの消音状態維持機能を知ったのかという点の変遷が含まれており、変遷の合理的な動機が想定できず、自白が体験に基づく供述ではないのではないかとの疑いを基礎付けるとし、自白の内容も医学的知見に照らして不合理であるとして、信用性に重大な疑義があるとした。


さらに、Aの特性・恋愛感情やこれに乗じてAに対する強い影響力を独占してその供述をコントロールしようとする警察官の強固な意図と相まって、虚偽供述を誘発するおそれがあるものであったとして、自白は、実質的にみて自発的にされたものとは言えず、「任意にされたものではない疑」いがあるというべきであるとして、証拠排除した。


検察官は、無罪判決に対して控訴せず、Aの無罪が確定した。


国家賠償請求訴訟

再審無罪判決が確定した後、Aは2020年12月25日、国と滋賀県を相手取り、約4300万円を請求する国家賠償請求訴訟を提起した。国および滋賀県は、請求棄却を求めている。



blank令和2年3月31日 大津地方裁判所再審判決(裁判所ウェブサイト)