旅館業法上の宿泊拒否制限の緩和に反対する会長声明


厚生労働省に設置された「旅館業法の見直しに係る検討会」は、2022年7月14日、「旅館業の制度の見直しの方向性について」を取りまとめ(以下「本取りまとめ」という。)、新型コロナウイルス感染症の感染拡大を背景に、旅館業法第5条(以下「本条」という。)による宿泊拒否制限についても見直しの方向性を示した。


現行の本条は、旅館業の営業者(以下「旅館業者」という。)は、同条各号所定の宿泊拒否を可能とする事由に該当する場合を除いては、宿泊を拒否してはならないと定めて(宿泊拒否制限)、原則として旅館業者に宿泊させる義務を課している。これに対し、本取りまとめは、発熱等の感染症の症状を呈する者には、旅館業者から、医療機関の受診や関係機関との連絡・相談、旅館・ホテルの滞在中の感染対策として厚生労働省が定めるものを要請することができるようにし、正当な理由なく応じない場合は宿泊拒否を可能とする(ただし、パンデミックなどの際に限るとされている)など、現行の「宿泊しようとする者が伝染性の疾病にかかつていると明らかに認められるとき」(第1号)とされてきた宿泊拒否制限を緩和する内容となっている。


本来、本条は、宿泊を必要とする者に宿泊場所を提供する(野宿、行き倒れ防止)という観点から、宿泊施設の公共性に鑑み、旅館業者に対し宿泊施設に宿泊させる義務を課すことにより、一次的に宿泊客の身体や生命の安全を確保し、ひいては移動の自由を担保する(憲法第13条、第22条)という重要な意義を有するものであり、こと宿泊者の身体・生命に直接関わる事項である以上、その例外としての宿泊拒否を可能とする事由は極めて限定されていなければならない。


しかるに、本取りまとめによれば、感染症の症状を呈するかどうかや、旅館業者からの要請に応じないことに正当な理由があるかどうかの判断が司法や行政の関与なく旅館業者に委ねられるところ、営業上の理由等から必ずしもその判断の適正性・公平性を担保することができない。しかも、「感染症の症状を呈する者」かどうかを判断する際に、宿泊者の健康状態など極めて個人的な情報の開示を旅館業者から求められることが想定され、プライバシー侵害も考えられる。


このような中で、本来は拒否できない場合にまで宿泊拒否が拡大することが懸念され、それが差別につながることも考えられる。2003年に、宿泊しようとしたハンセン病元患者らに対して旅館業者が、本条に違反して、他の宿泊客に迷惑が掛かるなどの理由で宿泊を拒否し、行政処分(営業停止)及び略式命令(罰金刑)を受けた事件(黒川温泉宿泊拒否事件)が発生したことを省みれば、かかる懸念は決して軽視できないものである。このような宿泊拒否制限を緩和する本取りまとめは、人権保障上の問題があると言わざるを得ない。


そもそも、1998年に成立した感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)は、ハンセン病患者、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在していたという事実を教訓として生かすことが必要であるなどとして(前文)、それまでの感染症の患者が隔離の客体と捉えられていた伝染病予防法を廃止して新たに制定されたものであり、基本理念(第2条)並びに国及び地方公共団体の責務(第3条)として感染症患者等の人権尊重、国民の責務として感染症患者等の人権が損なわれることがないようにすること(第4条)を明記している。これは、感染症の患者は医療を受ける権利主体なのであって、社会にとって危険で迷惑な存在であり排除すべき対象ではないことを明らかにしたものと言える。また、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟事件の熊本地方裁判所判決(2001年)において、「らい予防法」が存在したこと自体が「ハンセン病に対する差別・偏見の作出・助長・維持に大きな役割を果たした」と判示されているように、法律の存在自体が感染症の患者に対する社会における差別・偏見を作出・助長・維持する原因にもなり得る。


本取りまとめが提言する発熱等の感染症の症状を呈する者等について、法律上宿泊拒否を可能とすることは、感染症法の理念や趣旨にそぐわない上、感染者や感染させるおそれのある人々が社会にとって危険で迷惑な存在であるから排除してよいという誤ったメッセージを社会に発信し、感染症の患者に対する差別的な意識を醸成し、社会的な排除や偏見・差別を作出・助長する危険性につながることが懸念される。


折しも、新型コロナウイルス感染症の感染拡大が問題となっている状況において、感染拡大防止や宿泊施設従業員の安全確保も重要な課題であることに異論はない。しかし、これらの課題は、政府が、市民一人ひとりによる感染対策への理解と協力を求めていき、宿泊客自身の感染対策に対する啓発・広報活動をより一層推進していくこと、旅館業者に対する必要かつ十分な経済的支援等をより拡充・整備していくことなどの政策を構築・実行することにより克服されるべきものである。


当連合会は、2001年11月9日に開催された第44回人権擁護大会において「arrow_blue_1.gifハンセン病問題についての特別決議」を採択し、再び同種の人権侵害が発生することのないよう、他の感染症対策、公衆衛生行政一般に対して、不断の監視をしていくことを決意した。以来、感染症に関わる人権侵害や偏見・差別を防止し、個人の尊厳・平等原則などの基本的人権が最大限保障されるよう全力を尽くして取り組んできたものであり、これらの観点から、本取りまとめに従って本条を改正し、宿泊拒否制限を緩和することに反対する。



2022年(令和4年)8月18日

日本弁護士連合会
会長 小林 元治