樺太残留韓国人問題について

戦時中、戦争協力のため樺太(現サハリン)へ強制的に連行され、炭鉱等で労働に従事させられていた多数の朝鮮人が戦後その故郷である南朝鮮や親兄弟のいる日本への帰還を熱望しながら、今日なお、その希望がかなえられずにいる事実は、我々日本人に重い自責の念を感じさせずにおかないものがある。


日本弁護士連合会は、樺太帰還韓国人会の申立をうけ、数次にわたる調査の結果を報告書にまとめ、これに基づき、日本政府・関係各国・各国赤十字社・国連等に対して、これら帰還希望者の帰還が1日も早く実現するよう、日本政府の努力と関係各国等の協力を要請することにした。


園田外務大臣は、1978年3月の衆議院内閣委員会において、「人道的、さらに法律的以上の道義的責任、政治責任があって、政府はあらゆる努力をして、こういう方々の御希望に沿うようにしなければならぬと考えております」と発言しているが、調査の結果によれば、戦争終結以後、日本の外務省・法務省・厚生省がこれら帰還希望者の帰還業務について実際にとった措置は、右の外相発言とは程遠い、極めて冷たいものであったことが指摘できる。また、その状況は今日においても変化をみせていないものといえる。


一例をあげれば、ソ連邦当局は、1962年の末頃から1976年の半ば頃までは、南朝鮮地方(現韓国)出身の帰還希望者の帰還申請に対し「日本政府が入国を許可すれば出国を許可する」との態度を示してきたのであるが、日本政府は、入国を拒否しつづけてきたのであり、1975年7月に帰還希望者から「樺太残留者帰還請求訴訟」が提起されるとの新聞報道がなされた翌8月に至って、漸く、外務省は、帰還希望者に対し入国申請を受理するための手続を開始したのである。しかし、不幸にも、日本政府が実際に入国許可の書類の発給を始めてから約3ヶ月後の1976年7月頃からソ連政府は出国許可を与えなくなった。もし、日本政府がこれら帰還希望者に対し、早い時期に入国許可の措置をとっていたならば、今日の未帰還者の悲劇は避けえたものと思われる。


わが国は、先年国際人権規約を批准し、更に本年は難民条約をも批准して、「人権後進国」との国際的批判に応える姿勢を示そうとしているが、日本弁護士連合会は、政府が、わが国の責任に起因する「難民」ともいうべき樺太残留の朝鮮民族の人々をその故郷に帰すことなくしては、1910年の日韓併合以来の日本民族による朝鮮民族に対する支配の歴史は終らないことに深く思いを致し、政府及び関係各省が帰還実現についてソ連邦等関係国の理解と協力をえるための適切な措置を直ちにとるよう強く要望するとともに、ソ連邦等関係国に対しては、この問題が、日本にとって、朝鮮民族のため原状回復をなすべき戦後処理の義務の履行を意味するものであることを理解し、また故郷に帰って愛する肉親のもとで生涯を終えることを望んでやまない帰還希望者たちの切なる願いに深い同情を寄せて、帰還実現への好意ある配慮をなされんことを心から希望する次第である。


1981年(昭和56年)10月7日


日本弁護士連合会
会長 宮田光秀