湿地保全・再生法の制定を求める決議

湿原、河川、湖沼、干潟等の湿地は、生物多様性に富み、多くの野生生物の命を 支えているだけでなく、食料などを提供し、またその水質浄化機能や洪水調節機能によって人の生存をも支えてきた。最近では、その気候緩和機能によって地球温暖化防止にも資すると注目されている。しかし、とりわけ戦後における強力な開発政策の下で多くの湿地が消失させられ、大阪湾ではほぼ100%、東京湾でも約90%の干潟が消滅し、世界全体でもこの50年間に先進国を中心に70%もの湿地が消失した。


このような湿地の消失に対して、国際的に湿地生態系そのものを保全しようとの 考えから、既に1971年にはラムサール条約が締結され、1980年にわが国も加盟した。同条約締約国会議の決議・勧告は、各締約国に対して、湿地保全を図るために有効かつ具体的な施策をもった「国家湿地政策」の策定を求めている。


わが国では、ようやく最近になって、中海干拓や藤前干潟等の埋め立ては中止と なり、政府も湿地保全の必要性について言及し、また環境省は2001年12月に開発計画等に際して保全上の配慮を促す目的で重要湿地500選を公表している。しかし、十分な国家湿地政策がなく、具体的な保全策が策定されていないこともあって、500選の1つである沖縄市の泡瀬干潟でも埋立計画が進行中であり、周辺海域の漁獲量激減および養殖ノリの不作等の深刻な事態を招いている諫早湾干拓事業も中止されていない。


2002年7月には自然再生推進法案が国会に上程され継続審議となったが、同 法案は、先ず残すべき自然を保全し、再生は保全と生態学的に関連づけて実施しなければならないという基本原則を無視しており、抜本的見直しが必要である。そのままでは、真に生態学的に配慮された再生事業が行われることが期待できず、むしろ、再生事業が自然破壊の免罪符となるおそれがある。このように、湿地保護をめぐる動きは流動的であり、現在曲がり角にある。


わが国の湿地が十分に保全・再生されない原因が、湿地の価値の重要性を無視し た開発政策と、その歯止めとなる保全のための法制度の不備にあることに照らせば、今こそ、その誤った開発政策を是正するとともに、湿地の保全と再生を国家目標に定め、そのための法整備を図ることが緊急の課題である。


よって、当連合会は、国に対し、次の施策を求める。


  1. 湿地の保全および再生を法の目的に明記した湿地保全・再生法(仮称)を制定し、その内容として、500選の湿地をはじめとする重要な湿地を保全するため の保護区制度、開発行為が湿地に及ぼす影響について、回避・最小化・代償とい う優先順位をもって保全を行う手法(ミティゲーション)、生態学的知見に基づ き保全と再生を一体的に行うための湿地管理計画制度、および湿地保全・再生の ための施策に環境保護団体・住民が参加できる制度的保障等を盛り込むこと。
  2. 前記1の保護区制度によって保全策が取られるまでの緊急措置として、500選の重要湿地およびその周辺地域で進行中の開発計画を中止させること。

以上のとおり決議する。


2002年(平成14年)10月11日
日本弁護士連合会


提案理由

1. 多くの湿地が破壊されるに至った経緯

湿地保護の国際条約であるラムサール条約(特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)は、第1条で「湿地とは、天然・人工、汽水・淡水を問わず、沼沢地、湿原、泥炭地又は水域をいい、低潮時における水深が6mを超えない海域を含む。」と定義している。これによれば、湿原、河川、湖沼、池、貯水池、水田、海岸、干潟、マングローブ、サンゴ礁、藻場などの多様な生態系や水辺環境が湿地とされる。


このような湿地は、生物多様性に富み、多くの野生生物の命を支えているだけでなく、食料などを提供し、またその堆積土砂と侵食のコントロール、洪水調節、水質の保全と汚染の緩和、地下および地上の水供給の保持機能によって人の生存をも支えてきた。また、最近ではその気候緩和機能によって、地球温暖化防止にも資すると注目されている。


しかし、人は、湿地の価値を十分に認識せず、じめじめした不毛の土地と見て、開発を続けた。特に戦後は大型工作機械によって、農地、宅地、商工業用地造成のために生態系への配慮もなしにすさまじい勢いで開発が続けられた結果、大阪湾ではほぼ100%、東京湾でも約90%の干潟が消滅しており、国内産のハマグリはもはや有明海南部と大分県の北部でしか採れなくなっている。


また、多くの河川で発電・治水・利水等の目的でダム建設が行われて自然の流れが分断され、洪水の対策のために直線化やコンクリート護岸等の河川改修が行われて河川環境は悪化した。同様に、土地改良事業によって、ため池は潰され、農業用水路もコンクリート三面張りにされてしまい、かつては身近な存在であったホタルやメダカの姿も消えてしまった。湖沼についても、八郎潟、河北潟などわが国を代表する汽水湖が農地造成のために干拓されてしまっただけでなく、都市化の進展によって、琵琶湖や霞ヶ浦等は自然の浄化能力を超えた大量の工場廃水、生活廃水が流れ込み、深刻な水質汚染が進行している。


海外においても湿地は格好の開発対象とされ、全世界では、この50年間に先進国を中心に70%もの面積の湿地が消失したといわれている。


2. ラムサール条約と国際的な湿地政策の転換

湿地の消失と環境の悪化は、まず、そこに生息していた動植物に多大な影響を与え、特に国境を越えて移動する渡り鳥にとっては、休息地あるいは採餌場になる湿地の消失により渡り自体が困難となって、絶滅の危機に直面させられた。そこで、その生息地である湿地生態系そのものの保護を図るため、1971年にラムサール条約が採択された。最初の自然保護条約であり、わが国も1980年に加盟している。同条約は、締約国の国内にある国際的に重要な湿地の条約登録(2条)、登録された湿地の保全および国内の湿地の賢明な利用促進のための計画作成と実施(3条)を定めているが、その余の湿地保全のための具体的施策については、ほぼ3年ごとに開催される締約国会議での決議・勧告(6条)に委ねている。この決議・勧告の中で湿地保全のために最も重要なものが、各締約国に対して「国家湿地政策」の策定を求めるものである。同条約は、次第に水鳥の生息地に限定されない多様な湿地そのものの保全を目指すようになっており、この「国家湿地政策」も湿地そのものの保全を図るために有効、かつ具体的な施策を伴ったものであることが要求されている。


また、アメリカでは、1989年以降、国内の湿地が果たしている機能全体で正味の損失を出さないとするノーネットロス(No Net Loss)の原則を掲げて、湿地の減少と機能低下の防止を国家政策とするようになり、1990年代からは各省庁、自治体が湿地の再生に積極的に取り組んでいる。そして、かつては干拓推進国であったオランダやデンマークでも、既に湿地の破壊を止めており、1990年代からは湿地の再生について年次目標を設定する等、湿地に関する政策が干拓から保全・再生へと完全に転換されている。


3. わが国の湿地をめぐる動き

国際的な湿地保全・再生の取り組みが進む中で、1993年に釧路市で開催されたラムサール条約第5回締約国会議を機に、わが国においても長良川河口堰建設や川辺川ダム等のダム建設計画、諫早湾や中海の干拓事業等の湿地を対象とした大規模公共事業に対する反対の気運が高まっていたが、1997年4月14日、諫早湾干潟が潮受け堤防を閉め切る293枚の鋼板によって有明海から完全に遮断されてしまった。開発政策が継続され、約3000haの当時わが国最大規模で日本一のシギ・チドリ類の飛来数を誇った干潟が消滅していく姿は、国民に広く湿地保全の必要性を強く印象付け、ラムサール条約締約国でありながら国際的に重要と評価されていた諫早湾干潟を破壊する暴挙に、内外から多くの非難が寄せられた。当連合会も1997年5月22日には排水門の開放を求める会長声明を出し、同年10月17日には排水門の開放と事業の廃止及び諫早湾干潟についてラムサール条約の湿地登録を求める意見書を公表した。当連合会は、1997年5月2日に中海干拓事業の中止を求める意見書を、1999年12月17日に三番瀬の埋立計画を中止してラムサール条約の湿地登録を求める意見書をそれぞれ公表している。


こうした湿地保護を求める世論を受けて、名古屋市の廃棄物処理場建設のための藤前干潟埋立計画も環境庁の計画見直しを求める意見書を契機に中止となり、中海干拓事業や三番瀬埋立計画も中止となった。そして、政府は1994年12月策定・2000年12月に改定の環境基本計画や1996年5月策定・2002年3月改定の生物多様性国家戦略において湿地保全の重要性に言及するようになり、環境省も2001年12月には、今後の保全のための基礎資料とし開発計画がある場合には保全上の配慮を促すとして、「日本の重要湿地500」(以下「重要湿地500選」という)を選定し公表している。そして、国土交通省も、釧路湿原において自然再生事業を開始し、さらに、2002年7月には、後述のとおり内容的に不十分な点があるものの、自然再生型の公共事業を進めるための「自然再生推進法案」が議員立法として国会に上程されるに至っている。


4. わが国の湿地保全政策の問題点

国際的な湿地保全・再生の潮流の中でわが国の湿地が十分に保全・再生されてこなかった原因は、湿地の価値の重要性を無視し、破壊・消失させてきた開発政策を根本的に見直さず、湿地の開発を抑制し、その保全・再生を図るための法制度を整備しなかったことにある。


既に諫早湾干拓事業の潮受け堤防の閉め切りから5年半が経過し、堤防内の水質汚染、周辺海域の漁獲量激減、養殖ノリの不作と深刻な影響が発生しており、見直しが急務であるのに、堤防は依然として開放されず、干潟再生の見通しは立っていない。また、沖縄島最大のシギ・チドリ類飛来地で重要湿地500選にも選定され、その中でも極めて生態学的に重要である沖縄の泡瀬干潟についても、当連合会が2002年3月15日に埋立事業の中止とラムサール条約登録湿地としての保全を求める意見書を公表する等埋立反対の声が上がっているが、いまだ事業中止に至っていない。わが国では、重要湿地500選についても、保全するための施策は講じられていないのである。


その結果、条約登録湿地も、釧路湿原、琵琶湖等わずか11ヵ所、8万3725ha(そのうち琵琶湖が6万5602ha)にとどまっている。


また、湿地保全・再生を直接目的とした法律がなく、現状は国土交通省、農水省、環境省等が各々独自の事業として湿地保全策を行っている結果、保全策は生態学的配慮に欠け、統一性もない。保全施策の中心となっている自然公園法、鳥獣保護法、自然環境保全法等によるゾーニング(zoning)についても、地域住民の発意ではなく行政庁の専権とされているため、かえって地元合意が得られずに保護区の指定が進まないなどの問題もあり、また保護区以外の湿地を保全するための有効な法的手段も存在しない。


宮城県の蕪栗ぬまっこくらぶによる蕪栗沼の保全活動、アサザ基金により霞ヶ浦で行われているアサザプロジェクト等のように、NPO主導で、官民が一体となった湿地の保全・再生活動が各地で行われ、その成果が注目されるようになってきてはいるが、このように地域住民や保全の運動を続けてきた環境保護団体が行政と対等な関係で湿地保全・再生事業に参加する法制度は未だ整備されていない。


自然再生推進法案についても、再生に先立つ緊急の課題である現在残されている自然を保全する原則が明記されておらず、自然再生事業の実施主体となる自然再生協議会の組織化に当たって、地域住民や環境NPO等が関わる手続的な保障がなく、また、国や地方自治体が主体となる再生事業に関与する環境NPO等の選択に関してその公平性を担保する制度がない。そのため、自然再生が自然破壊の免罪符とされるおそれや、これまで地道に活動してきた草の根の環境NPOを排除し、その活動を妨げるおそれもはらんでいる。そのため当連合会は、2002年7月18日に同法案の抜本的修正を求める会長声明を出している。


5. 提言

(1) 湿地保全・再生法の制定

今後わが国が国際的潮流に従って、十全な湿地の保全・再生策を実施していくためには、湿地の価値を再認識して、従来の開発政策を是正し、湿地の保全と再生を国家目標に定めて実現するために、少なくとも次の内容を持った湿地保全・再生法(仮称)を速やかに制定する必要がある。


なお、仮に前述の自然再生推進法案が国会において可決・成立した場合でも、湿地に関しては、湿地保全・再生法が特別法として優先適用されるべきである。


  1. 自然生態系における湿地の価値の重要性に鑑み、まず、個々の湿地の減少や水質汚濁・乾燥化・生物多様性の減少等の質的劣化を防止して総体としての湿地の機能を確保する必要(ノーネットロスの原則の採用)があるのみならず、既に開発によって失われた湿地を可能な限り再生することが必要であり、法の目的にそれらが明記されなければならない。
  2. 重要湿地500選に選定された湿地をはじめとする重要な湿地については、科学的見地から十分な保全が図れるよう湿地保護区制度を設け、その保全に支障を及ぼす行為を制限できるようにしなければならない。
  3. 湿地の機能と価値を早くから評価し、湿地保全にいち早く取り組んだ欧米諸国では、湿地保全の手法が確立されており、湿地を開発しようとする際にはミティゲーション(mitigation)の手法によることが原則とされている。ミティゲーションは単なる代償措置ではなく、正しくは、まず影響の回避を図り、影響が回避できないときには影響を低減して最小化を図り、影響を低減できないときには最後の手段として代償措置を取ることである。ミティゲーションはノーネットロス原則を実現するための手段として有効であり、とりわけ保護区の指定を受けていない湿地の保全のためにはなくてはならない手法であるので、保全手法として是非採用されなければならない。
  4. 湿地は集水域を単位にした生態的な繋がりを持っており、この湿地の生態的ネットワーク全体について、統一的かつ実効性のある保全・再生を実施するためには、生態学的知見に基づき、集水域単位の保全・再生事業を一体化した湿地管理計画を策定し、これを一元的に管理する組織体制を確立しなければならない。また、管理計画内容を実現させるために開発計画策定に際して作成者に湿地管理計画の内容の配慮義務を課す必要がある。
  5. 湿地は、それが存在する地域住民の暮らしと密接に関わっている。住民が抱く将来の地域像と離れて湿地を保全・再生することはできず、今までの行政主導型を改め、地域住民や地域住民と一体となって保全に取り組んできた環境保護団体が行政と対等に湿地保全・再生の施策の主体の役割を担ってこそ、はじめて長期的な見通しを持った湿地の保全・再生が可能になる。そのためには、湿地保全・再生の取り組みに対して市民や環境保護団体が参加できるための手続の整備とその実効性を担保するための訴訟制度を設けることが必要である。

(2) 重要湿地の保全

前述のとおり、環境省は生態学的特徴に応じて日本を代表する重要湿地500選を公表したが、前述の泡瀬干潟や諫早湾の外にも、佐敷干潟(沖縄県)、和白干潟(福岡県)、吉野川河口(徳島県)等では開発計画が進められつつある。重要湿地500選の重要性は極めて高く、湿地保全・再生法が制定され、同法によって湿地保護区に指定されるまでの間に、質的劣化や破壊されることは絶対に回避されなければならない。従って、国は、湿地保全・再生法を制定し、同法によって湿地保護区に指定するまでの間、緊急措置として、重要湿地500選にかかる湿地およびその周辺地域における開発計画については、国が関与の場合は自ら中止し、自治体等の事業についても自治体等に対し事業中止の要請を行うべきである。