「国家機密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」に反対する決議
本文
現在、国会に提出されている「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」は、人権侵害の危険が極めて大きい。
その問題点は、次のとおりである。
- 防衛・外交にかかわる「国家秘密」の内容が、実質的に、広範囲・無限定であり、行政当局の恣意的専断を許すことになる。
- 「探知・収集」、「外国に通報」、「他人に漏らす」などの実行行為及び過失犯など、その行為類型もすべて、広範囲・無限定であり、調査・取材活動、言論・報道活動、日常的会話等のすべてが含まれる。
- 死刑を含む重罪の提案は、合理的な根拠を欠き、時代の流れに逆行して、著しく異常なものである。
- 予備・陰謀罪と独立教唆犯の提案も、また、罪刑法定主義と行為責任主義の原則に違反する。
今日、政治問題の多くが何らかの形で防衛・外交問題に結びついていること、国民がそれと知らないで「国家秘密」に接触する場合もありうることなどを考えるならば、刑罰による権力的統制が国民の言論活動と日常生活のすみずみに至るまで広く波及し、国民主権主義と民主主義の根幹が脅かされるおそれは、まことに大きい。
われわれは、この法律案に強く反対し、速やかに撤回されることを切望する。
右決議する。
昭和60年10月19日
日本弁護士連合会
理由
現在、国会に提出されている「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」(以下、法律案という)は、報道機関の取材・報道活動、一般国民の日常生活上の行為をも広く処罰の対象としており、憲法が保障する言論・表現の自由をはじめとする国民の基本的人権を侵害し、国民主権主義の存立基盤を崩壊させかねない極めて危険な内容をはらんでいる。
法律案の定義する「国家秘密」の範囲は極めて広汎かつ無限定であり、その構成要件の不明確性は明白である。しかも「秘密」の指定は政府等行政当局の専権によるのであり、行政当局の「秘密」に対する恣意的判断が、刑事裁判の場においてもそのまま押し通されることになる危険性は過去及び現在の実務に照らして極めて大きく、本来国民に開示されるべき「違法秘密」の公表も、重罰を覚悟のうえでなければできなくなってしまうのである。
また、法律案は、行為類型として、「国家秘密」についてこれを「探知・収集」する行為・「外国に通報」する行為・「他人に漏らす」行為の三つに分類したうえ、目的・態様・行為主体等の組み合わせによって多様な類型を定めているが、それらはいずれも無限定であり、取材・報道の自由が著しく侵害されることは勿論、一般市民の日常生活における行為が広く処罰の対象とされることになり、国民はおよそ時の政府が発表する範囲内での情報しか得られず、その範囲内での議論しかなしえないことになるのである。
さらに、法律案は、このような多様な行為類型について、死刑を含むいくつかの段階の刑罰を定めているが、いずれも合理的な根拠を欠く極端な重罰であり、刑法その他の刑罰法規と比較しても刑の不均衡が著しい。
このように、法律案の定める構成要件はいずれも抽象的かつ不明確で処罰される行為の範囲が無限に広がるおそれがあり、しかも著しく罪刑の均衡を失しており、罪刑法定主義という近代法の大原則に反するものであることは明白であり、濫用の危険性も大きく、自由と民主主義に対する重大な抑制をもたらすものである。
加えて、法律案は、正犯の行為をまたずに教唆者の責任を問う「独立教唆犯」規定を設けているが、この独立教唆犯は、刑法の共犯理論を覆すだけでなく、基本たる行為がないにもかかわらず刑罰を科するものであり、刑法の基本原則である行為責任主義に明らかに反するものである。これは、国家が秘密にしたいと欲する事項、国民の目には触れさせたくないと欲する事項には、間接的にでも触れることを刑罰をもって一切禁じ、国民の知る権利をいわば入口の一歩手前で塞いでしまうということにほかならない。
かつて「改正刑法準備草案」において、「外国に通報する目的をもって日本国の防衛上又は外交上の重大な機密を不法に探知し、又は収集した者は、2年以上の有期懲役に処する」(136条1項)「外国の利益をはかり、又は日本国の利益を害する目的をもって、防衛上又は外交上の重大な機密を外国に通報した者も前項と同じである」(同条2項)という「機密探知罪」の新設が試みられた際、国民各層から強い批判がまきおこり、法制審議会刑事法特別部会も構成要件が不明確であるとして、「改正刑法草案」から「機密探知罪」が削除された経緯があるが、法律案は、かかる「機密探知罪」を、処罰範囲を著しく拡大し、死刑を含む重罰化をもって復活させようというものであって、時代の流れに逆行すること著しく、到底容認できるものではない。
当連合会は、10年余にわたって改正刑法草案による処罰範囲の拡大、重罰化、保安処分新設を内容とする刑法「改正」の阻止運動を展開し、言論表現の自由を侵害する「公務員機密漏示罪」「企業秘密漏示罪」の新設に反対してきた。また、第23回人権擁護大会決議のとおり、政府・自治体等官公署が保有する情報は、国民主権・民主主義の理念にてらし、できるだけ広範に国民の前に公開されるべきであるとの見解を明らかにし、情報公開のための法律や条例の制定等の方策を提言してきた。
法律案は、改正刑法草案の「公務員機密漏示罪」「企業秘密漏示罪」を先取りするものにほかならず(しかも大幅に刑が引き上げられ、過失犯までもが処罰される)、「国家秘密」を国民の知る権利、言論・表現の自由、取材・報道の自由に事実上優越するものとして扱おうというものであって、これまで当連合会が、国民主権・民主主義・基本的人権擁護の理念に基づきとってきた立場と真向から対立するものである。
われわれは、憲法が基本原理とする国民主権・民主主義・罪刑法定主義を堅持し、言論・表現の自由、報道・出版の自由、国民の知る権利をはじめとする基本的人権を擁護する立場から、法律案の制定に強く反対するものである。