学校生活と子どもの人権に関する宣言

本文

いま、子どもが人間として生きる基盤を培う学校は、放置できない現状にある。教育条件の整備がなおざりにされ、教育内容への統制の強化が問題とされるなかで、子どもは、学歴偏重の風潮を背景にした受験競争にさらされ、詳細極まる校則、体罰、内申書などによって管理され、「おちこぼれ」、「いじめ」、登校拒否、非行など深刻な事態に追い込まれている。さらに、子どもの非行を警察依存で処理し、教育的対応を放棄しようとする社会的傾向も強まっており、未来を開く子どもの人権侵害は深刻な事態にある。


子どもも、憲法で保障される自由や人格権の主体であり、教育を受け、よりよき環境を享受し、人間としての成長発達を全うする権利を有する存在である。何人といえども子どもの人権を侵害することは許されない。


われわれは、国及び自治体に対し、憲法及び児童憲章に定める子どもの権利保障を徹底させ、教育基本法、学校教育法などに規定する教育目的を達成するため、教育条件を整備する具体的措置の速やかな実施を求める。同時に、父母、教師及びすべての人々に対しても、子どもの人権を保障する責務があることの自覚を求め、共に、体罰や「いじめ」の一掃、「おちこぼれ」の解消を図り、子どもや父母の校則制定・改定への参加の機会の保障、子どもに対する処分に際しての適正手続の保障、内申書などの自己情報を知り・質す機会の保障など、子どもの人権の確立を期する。


さらに、われわれは、子どもの権利の救済窓口を設置するなど、具体的な子どもの人権擁護のため全力を尽す決意である。


右宣言する。


昭和60年10月19日
日本弁護士連合会


理由

1. 日本国憲法11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」と規定し、同法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」と規定している。さらに、同法18条は、奴隷的校則及び苦役からの自由を、同法19条は、思想及び良心の自由を、同法20条は、信教の自由を、同法21条は、集会・結社・表現の自由を、同法31条は、適正手続の保障を、それぞれ定めている。


これら憲法で保障された基本的人権は、すべての人々に対して保障されているのであり、もとより子どもも例外ではない。


右の権利・自由の保障に加えて、子どもは成長発達過程にある存在であり、人類の未来を開く存在として、その可能性を全面的に開花させるため、おとなに保障される以上に人権が保障されなければならない。その中心となる権利が、同法26条の教育を受ける権利であり、よりよき環境を享受する権利である。学校教育の過程にあるということは、子どもに対して、より十分な人権保障を要求する根拠にこそなれ、子どもの人権を制限する根拠にはなり得ないものである。


2. かつて、子どもは、親や国家の保障の客体とみられてきた。


しかし、現代の人権思想は、子どもが固有の権利及び自由の主体であることを承認している。日本国憲法の精神に従って、1951年(昭和26年)5月5日に制定された児童憲章は「児童は、人として尊ばれる。児童は、社会の一員として重んぜられる。児童は、よき環境のなかで育てられる。」と三大原則を宣言した。


国際連合総会は、1959年(昭和34年)11月20日「児童の権利宣言」を採択し、子どもを次の世代を担う主体として、その心身の健全な発達を図ることが社会全体の責任であることを宣言した。


さらに、わが国においても1979年(昭和54年)9月21日に発効した国際人権規約は、右「児童の権利宣言」と1948年(昭和23年)12月10日国際連合総会で採択された「世界人権宣言」とを人権の通則と認め、A規約及びB規約に、子どもの権利をより具体的に規定している。子どもが権利の主体であることは、明確な法的根拠を与えられているのである。


3. 子どもの個性が豊かに開花されることは、他の市民的、政治的、文化的、経済的人権を有効に働かせる前提となるものであるから、人間的に成長発達し、平和的な国家及び社会の形成者として、個人の価値を尊び、自主的精神に充ちた国民となるための教育を要求する権利は、子どもの人権中の人権とさえよぶことができるものである。


最高裁判所も、昭和51年5月21日の学力テスト事件判決において、子どもが学習権の主体であると判示し、このことを承認しているのである。


子どもの教育を受ける権利の内容は、憲法、教育基本法によって根拠づけられ、国際人権規約A規約13条においても、教育の目的は「人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきこと」と規定されている。


4. ところが、わが国の現実は、果たして子どもが人権の主体として位置づけられているのかと問わざるを得ないほど子どもの権利は危機的状況にある。


なかでも、人間として生きる基礎を培う重要な場である学校での人権侵害は深刻である。


学歴偏重の社会風潮を背景とする能力主義の名の下に、偏差値にかたよった受験競争が展開され、教師は、知識偏重の学習指導要領を消化することに追われ、授業についていくことのできない多くの子どもをおちこぼし、子どもの教育を受ける権利が侵害されている。


久しく要求されてきた大規模校の解消や少人数学級が実現されず、他方、教師に対する管理は強化され、教師が一人一人の子どもを人間として大切にし自信とゆとりをもって教育に打ち込むことを困難にする教育行政の現実を背景にして、多くの学校は、子どもの自主性を無視し、問題を起こさせないことにのみ目を奪われ、子どもや父母の意見を聴くことなく「生徒心得」などを制定して、子どもの学校内外における画一的な生活管理を強化している。「生徒心得」などの多くは、校内生活の心得、所持品規制、服装や髪型の規制、校内掲示や集会規制のみならず、通学路の規制から本来自由であるべき校外生活のあり方に至るまでこと細かく規定しており、子どもの精神的自由(憲法21条)、憲法13条から導かれるプライバシーの権利、いかに生きるかを自ら決定する権利、あるいは国際人権規約A規約13条に定められた「親権者などが、自己の信念にしたがって児童の宗教的および道徳的教育を確保する自由」を侵害する危険性が極めて高いものである。


そして、このような微細な「きまり」を押しつける手段としても、学校教育法11条で禁止されている体罰が違法に行われており、本年5月には、高校教師の体罰による子どもの死亡事件まで発生している。教師に認められる指導懲戒権の行使に際しても、子どもの名誉権、人格権(憲法13条)を無視するような言動が日常的に頻発している。また、出席停止処分のごとき子どもの教育を受ける権利を剥奪するに等しい措置を行う場合でさえ、子どもや父母の弁明の機会は、権利として保障されていないのである。これらの実態は、国際人権規約B規約7条に定める「非人道的な若しくは品位を傷つける取扱いの禁止」に違反するものである。


また、学校の内申書は、内容が教師によって一方的に作成され、当該子どもや父母が知ることができないという現実と、その内容が進学の合否に影響をあたえるということから、子どもの心理を抑圧し、微細すぎる「きまり」にも従順な子どもをつくり出す機能を果たしている。


非行を行った子どもに関して、ときとして学校から警察あるいは家庭裁判所に対し、報告書が提出されているが、その報告書も、学校が一方的に作成するものであり、伝聞証拠に基づく事実も記載されているが、子どもや父母は内容を知ることができず、この点で内申書と同様の知る権利の侵害が行われているといわなければならない。また、報告書の内容には「学校教育の限界を超えた」という文言が多用され、学校は、教育機関としての役割を安易に放棄しているのではないかとの危惧を禁じ得ない。


さらに重視すべきことは、警察に対する学校の依存関係が、今日一層深まりつつあるということである。警察庁は、少年警察体制の一層の整備を図ると共に、警察の総合力の発揮と民間の力の積極的な活用による総合的な少年非行対策を推進する必要があるとの観点から、昭和57年5月27日「少年非行総合対策要綱」を発表し、少年を非行から守るパイロット地区活動等の地域活動の強化や、本年2月13日に施行された風俗営業取締法「改正」法にみられるような有害環境等の浄化の促進などと並んで、学校への働き掛けを強化するとの方針を打出し、さらに進んで、警察自ら、非行に全く関係のない子どもに対しても規範意識を持たせるための指導が必要として「人づくり活動」に乗り出している。昭和38年に成立し、昭和45年には全国の90パーセントを超える学校で組織されている「学校警察連絡会」は、右「少年非行総合対策要綱」が発表されて以降、一層活発化し、今日、全国各地で学校から警察に対し、生徒の名簿が提出されているという事実などをみるとき、学校や教師が、子どもの人権について、どれほどの理解と認識を有して教育に携わっているか疑問をもたざるを得ない。


5. このような、子どもの人権が存在しないかのごとき学校、教師の管理は、子どもの成長発達にいかなる影響をもたらしているであろうか。


心理学者の分析によれば、管理された状況におかれた子どもは、自らの判断を必要としない状態にならされる結果、創造性や活力を奪われ、主体性を失い、自信を喪失し、多数派に同調し、同質化をもとめるようになると発表されており、さらに、人間は、権威に弱く、強い強制の下では、自主性を失うばかりか、むしろ不道徳、無責任を学習するとの実験結果の報告もある。


近時、「他から指示されなければ、主体的に何もできない自立性のない子どもが増えた」とか、「無関心・無責任・無感動」のいわゆる三無主義の子どもや、自分中心で他人の痛みを知ろうとしない子どもが多くなったとの指摘がなされている。そもそも民主主義社会は、自主的な個人の独立した理性を前提としてのみ存立できるものである。その視点から今日の子どもの現状をみるならば、わが国の明日の民主社会を担うべき主体が育成されていないとさえいえるのであって、その意味では、管理に反発して一過性の非行に走ることなどとは較べものにならないほど深刻な子どもの病理現象が進行しているのである。


今日の重大な社会問題となっている、「いじめ」、登校拒否、中途退学、非行などの増加は、社会・文化的背景、社会の価値観や社会構造に深く根ざしているものではあるが、学校における管理の状況と無関係ではあり得ない。これらの子ども達の現象の中に、せめて学校だけは、個人の価値を尊び、心身共に健康な国民を育成するにふさわしい教育の場として早急に復活して欲しいと願う切実なさけびをみることができる。


6. 子どもは、社会的に弱い存在であるが故に、自らその権利を主張し得ないところに特殊性をもつものであって、まず、第一に父母が、そして保護者が、地域住民が、学校の教師が、さらには社会全体がその権利の実現を保障する責務を負うものとして尽力しなければならない。


事態は深刻であり、1日も放置することは許されない。国も自治体も、父母も、教師も、全国民がいますぐ子どもの人権の確立に立ち上がらなければならない。


われわれは、まず、国及び自治体に対し、憲法、児童憲章、国際人権規約を遵守し、教育基本法、学校教育法に規定する教育目的を達成するため、大規模校の解消、少人数学級の実現、教師の教育の自由の保障、学習指導要領の見直しなど教育条件を整備するための具体的な措置を速やかに実施することを求める。


同時に、子どもの人権侵害が、一部の教師、父母の人権感覚の欠如により助長されていることに留意し、子どもの人権を保障する責務の自覚を求め、地域社会の人びとと手をつないで、基本的人権尊重の理念を徹底させ、体罰や「いじめ」を一掃し、「おちこぼれ」の解消を期する。さらに、子どもに対する処分に際しての告知・聴問、不服申立手続の保障、非行を行ったとされる子どもについて教師が作成する家庭裁判所や警察に対する報告書、内申書などの自己情報を知り・質す機会の保障、校則を制定・改定する場合に子どもや親が参加する機会を保障し、今ある校則を見直すなど、子どもの人権の確立を期する。


子どもの権利は、子どもとしての権利であると同時に、自らがおとなへと成長する権利でもある。子どもの権利は、歴史的には、おとなの人権思想から派生したが、現代では、子どもの人権を保障することが、人権一般を豊かに発展させることにつながるのである。


7. 子どもをとりまく環境の悪化に伴い、非行件数が増加していくなかで、警察による犯罪捜査規範や少年警察活動要綱すら無視した少年補導の濫用、暴力を伴う違法な取調べ、強制された虚偽の自白による寃罪事件などがしばしば発生している。それにもかかわらず、少年保護事件については、再審制度すら確立していないのである。


また、「個別性、社会性、科学性、教育性」を尊重し、ケースワーク機能を生命として発足した家庭裁判所の少年事件の取扱いは、近時、形式的画一的な処理に傾き、最近では、最高裁判所から「少年事件処理要領モデル試案」が出されるなど、家庭裁判所に期待されている子どもの成長発達権保障機能は、ますます減退しつつあり、さらに法務省は、少年法を福祉と教育の法から処罰と取締まりの法へと変質させる動きを進めている。


われわれは、これらの事態を座視することなく、これまで、少年事件の附添人活動や少年問題法律相談活動、さらには民事事件訴訟、行政事件訴訟あるいは少年法「改正」反対の活動を通じて、子どもの人権保障の重要性を訴えてきたが、今後とも、これらの諸活動を拡充すると共に、学校をめぐる今日の深刻な状況にかんがみ、会内に子どもの権利の救済窓口を設置することを含め具体的な人権保障のために全力を尽くす決意をこめて、ここに本宣言を提案するものである。