日本にもあった裁判員制度
日本でも陪審制度が行われていた!
 1.戦前の陪審法はこうして作られた
横浜地方裁判所陪審法廷(移築復元)-学校法人桐蔭学園提供
1889年、大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されましたが、この憲法の制定を 議論していた当時にも、陪審制度を盛り込んだ憲法草案が、複数の民間団体から 出されています。


陪審制度導入に向けて本格的に動きだしたのは、1900年代に入ってからでした。 日本の政治において、政党が次第に力を強めてきたその頃、いわゆる大正デモク ラシーの時期に向かい、政治の民主化を求める多くの声がありました。


大正陪審法の成立に中心的役割を担ったのは、政党・政友会の原敬でした。彼は、 2つの事件をきっかけに、陪審制度の導入をすすめようとしたと言われています。


1つは、1909年に起きた日糖事件といわれる疑獄事件です。当時、検察権力は 非常に力を持ち、政治的疑獄に対して積極的に介入する姿勢を持っていました。 これは、政治を担う政党にとっては、大きな脅威でした。この日糖事件で、多く の議員が拘束され、検察に取調べを受けました。政党側は、こうした検察の捜査 などが人権を無視した過酷なものであったと主張しました。


2つ目は、1910年の大逆事件です。原敬は、この秘密裁判は非常に問題である と考えました。


1910年2月、当時、政友会の有力者であった原敬は、自らが中心になって、政友 会「陪審制度設立ニ関スル建議案」を議会に提出しました。この建議案は、全会 一致で衆議院を通過しています。


1918年9月、原内閣が成立しましたが、1919年5月には、陪審制度の立法化につ いて閣議の了承がなされました。同じ年の11月から、陪審制度についての具体的 な検討が始まりました。


陪審制度の具体的な制度設計は、内閣総理大臣の諮問機関である臨時法制審議会、 司法省の陪審法調査委員会、枢密院の陪審法案審査委員会を経てなされ、ついに 1923年、陪審法として成立しました。この間、枢密院が法案に反対するなど紆 余曲折があり、また、1921年11月には、原敬自身が凶刃に倒れるという事件も ありました。


1921年1月17日、原敬は、枢密院の陪審法案審査委員会第一回審査委員会で、 次のように述べています。
「陪審の現実は、人民をして司法事務に参与せしむるにあり。我国に於ては議会を設けられ、人民が参政の権を与へられたるに、独り司法制度は何等国民の参与を許されざりき。憲法実施後三十年を経たる今日に於ては、司法制度に国民を参与せしむるは当然の事なり。」 「此の際陪審法を設けざれば、国家の前進の為に害多し。人民をして司法に信用を置かしめ、上下の阻隔と杜絶怨嗟の勢を絶ちたし。…政治上の方向より見て特に各位に願ふ次第なり。」
伊藤巳代治「陪審法委員会議事筆記」第一回、大正10年1月17日(『伊藤巳代治関係文書』二九八一イ、国立国会図書館憲政資料室所蔵)
陪審法は、5年間の施行準備期間を経て、1928年(昭和3年)から施行されました。 時の司法省刑事局は、陪審制度を導入した理由として、政治上の理由(民主主義)と司法上の理由(裁判への信頼の確保)を掲げています。政府は、国民に制度を周知させるため、5年間の準備期間の間に、のべ3339 回の講演会で124万人の聴衆を集めたほか、284万部のパンフレット類、11巻の映画を作成しました。
 
歴史をおさらいしましょう
Q&A
大日本帝国憲法(明治憲法)
 
ドイツ憲法に範をとり、伊藤博文らの起草で欽定憲法として1889年発布された。近代的立憲体制が整ったが強大な天皇大権などを特徴とした。
原敬
 
原敬
 
1918年、政友会総裁として、最初の非華族の首相による政党内閣を組織した。1921年東京駅で暗殺された。
大正デモクラシー
 
産業発展、市民社会の成立、第一次大戦当時の世界的なデモクラシーの潮流を背景に高揚した、大正時代の自由主義・民主主義の潮流
日糖事件
 
1910年、当時の大日本製糖株式会社が、原料である砂糖の輸入税を企業に一部還元することを規定した法律の有効期限の延長を実現するために、政友会その他諸政党の議員に対して贈賄を企てた事件。
大逆事件
 
1910年、無政府主義者の明治天皇暗殺計画という理由で、幸徳秋水ら社会主義者26名が起訴され、幸徳ら12名が死刑となった事件。
 2.どんな制度だったのか? 内容とその後
陪審法における陪審員は、直接国税3円以上を納める日本国民の男子から無作為抽出で選ばれた12人で構成されました。対象事件は、被告人が否認している重罪事件。陪審員は、有罪・無罪の結論を出し、裁判官に対し「答申」しますが、裁判官は法律上これに拘束されず、「答申」を採用せず審理のやり直しを命じることができました。また、被告人は、陪審員による裁判か、裁判官による裁判かを選択することができました。


この法律の下で行われた陪審裁判は484件、無罪率は16.7%でした。


1943年、陪審法は停止されるに至りました。その理由については、「陪審事件数が減る一方、戦争が激化する中で、陪審制度維持のための労力(市町村による陪審員資格者名簿・候補者名簿作成の事務負担など) を削減する必要があるため」と説明されています(岡原昌男「『陪審法ノ停止ニ関スル法律』に就て」
(法曹会雑誌21巻4号 1943年)参照)。


そして、陪審事件数が減少した理由については、さまざまな分析が行われています。そもそも、日本国民は裁判官による裁判を志向したとの見解もある一方、制度上の問題点を指摘する見解もあります。例えば、陪審法の下では、被告人は、有罪判決を受けてもこれに対し控訴することができませんでした。また、事件によっては、有罪判決の場合、訴訟費用や高額に上る陪審費用(陪審呼出の費用や日当、宿泊料など)を負担するリスクもありました。さらに、陪審裁判の選択は、審理前に、担当裁判官への不信を表明することを意味します。陪審法では、陪審の判断は裁判官にとって「参考意見」にすぎず、最終決定は担当裁判官が行いましたので、被告人側にとっては、裁判官の悪印象を避けたいとの心理的抵抗があったともいわれています。こうした理由から、被告人が陪審裁判を選択しづらかったと指摘されています。


陪審事件数が極端に減りながらも、政府は、陪審の「廃止」を選択しませんでした。政府は、停止法案の提出にあたり、「施行の停止は戦時下の緊迫する諸般の事情に鑑みれば妥当であるが、制度の理念としては平時であればむしろ望ましいといえるから、廃止するのではなく停止とし、戦後の再施行を考慮する」、と説明しています。陪審の「停止」は、国民の司法参加の理念に大きな意義を認めた上での、一つの大きな選択でした。


それから60年余が過ぎました。陪審法は、その理念の復活を待っているかのように、「廃止」ではなく「停止」のまま、現在でも、法律として生きています。
横浜地方裁判所陪審法廷(移築復元)-学校法人桐蔭学園提供
現存する陪審法廷(復元)について
学校法人桐蔭学園メモリアルアカデミウム
立命館大学末川記念會舘
 
コラム
戦前の陪審員制度と今回の裁判員制度はどこが違うの?
 
たとえば以下のような違いがあります。まず、裁判員制度は、民主憲法である日本国憲法下で定められた制度ですから、性別、収入などに基づく資格要件は当然ありません。


また、裁判員の数は原則として6名です。対象事件は、否認しているかどうかを問わず一定の重大な刑事事件です。被告人が裁判員裁判か裁判官による裁判かを選択することはできません。さらに、裁判員と裁判官の立場は対等ですから、裁判官が裁判員の判断を一方的に拒否して審理のやり直しを命じることはできません。