第2章 イタリア T はじめに−視察の目的 権利条約は基本理念として,インクルージョンをあげている。これは障がいのある人の権利と尊厳は一般社会の中で実現されなければならず,決して分離された特別の空間で保障されるものではないということを,権利条約という法的規範性のあるものとして認めたものである。この理念は,差別とは何かを問い直す中で確認され,障がいのある人のみならず,人種,性別はもとより広くマイノリティの権利と尊厳の実現のあり方として確認された。この理念の確認は新しいものではない。1960年代後半から1970年代は,全世界的に,人種差別,民族自立,女性差別撤廃の戦いが大きなうねりとしてあったのであり,当然,障がいのある人を含むマイノリティの共通に求めるものとして確認された。これは日本においても例外ではない。同じ時期,差別と戦う広範な運動が日本にもあり,学生や労働者らは,「障がい者解放」「施設解体」をスローガンに,障がいのある人もない人も,共に学び,共に地域社会で暮らすことを求めていた。 イタリアは,この時期,これらの反差別を掲げる大衆・労働運動のうねりのなかで,大きく社会制度を改革し,障がいのある人の教育を,特別学校から地域の学校での教育に転換し,精神障がいのある人の医療についても,特別な医療制度ではなく一般医療の中で保障するべきであるとし,精神科病院を廃止するに至る。国自らが率先して,差別のない社会制度を構築したのである。それは1969年の民主化運動「暑い秋」の精神障がい者施設解体運動,学校民主化運動に象徴される広範な大衆・労働運動の成果でもあり,それに引き続く,教育・医療関係者らの努力の成果でもある。しかもイタリアは,一国内だけの改革に終わらせず,これを障がいのある人の権利条約として国際社会の共通のものとするように努力し続けてきた。1981年の国際障害者年を機に発表された10年の障害者行動計画の折り返し年であった1987年には,早々と障害者差別撤廃条約を国連に提案している。この時期には時期尚早として条約化は見送られたが,その後の「障害者の機会均等化に関する基準規則」(1993年)を経て,2006年の障害者権利条約採択に至るまで,一貫して条約化を主導してきた。 なぜ同じ時期,同じように差別のない社会を求めていた日本でできなかったことを,イタリアは制度として確立し,その内実を深めることができたのか。その40年にわたるインクルージョンの実践の成果を確認し,条約化されたインクルージョンをいよいよ日本で内実化するためには何をどのようにするべきか,これを学ぶためにイタリアを視察することとしたのである。それは障害者権利条約の完全実施を求めるシンポジウムで報告するにふさわしいものになるはずであり,実際,短い期間ではあったが,教育・医療・司法と班を分けることによって,広範な視察を実現でき,イタリアのインクルージョンの現在を可能な限り視察することができたと思う。 視察日程は以下のとおりである。いずれも2014年である。 〈教育〉 4月2日 午前 パオラ・ラリッサピーニ特別学校(ミラノ) 午後 学校教育実践報告(クオモ教授他) 4月3日 午前 エミリアロマーニャ州学校教育局 午後 ボローニャ大学ミーティング 4月4日 終日 学区説明及び学校現場視察(幼稚園、小学校,中学校) 〈精神〉 4月1日 午後 リハビリテーション・レジデンス・サービス 4月2日 午前 バルコラ精神保健センター 午後 マジョーレ病院 午後 トリエステ精神保健局 4月3日 午前 知的・発達障がいデイケアセンター 〈司法〉 4月1日 午後 カリスティローネ司法精神科病院 4月4日 午前から午後 ボローニャ社会内刑執行支援事務所(UEPE) U 総論 1 イタリアの障がいのある人の権利法制の流れ (1)1992年「障がい者包括法」 イタリアでは,1970年代から民主化運動が盛んに行われ,精神障がい者施設解体運動やインクルーシブ教育が推し進められてきた。個別法や大統領令により,細かな施策が次々と実施されてきた。 そして,1992年法律104号の「障害者の支援,社会統合及び諸権利に関する包括法(障害者包括法)」により,障がいのある人の権利が包括的に定められたことにより,障がい者権利法制が確立したものである。 条文構成は,1条〜5条「障害者の権利について」,6条〜11条「早期発見やリハビリ医療等」,12条〜17条「教育」,18条〜22条「就労」,23条〜28条「余暇等生活」,29条〜37条「政治」,38条〜44条「行政等の役割」となっている。 法律の目的は,障がいのある人の「完全な統合」や障がいのある人の参加や権利の実現を妨げている状況の防止や除去,障がいのある人の阻害や社会的な排除状態を克服するための手立てをとることで,これらは国の責務である(1条)。 1条(目的) 共和国は, (a) 障害者の人間的尊厳の完全な尊重,その自由と自立の権利を保障し,家族,学校,労働及び社会への彼らの完全な統合を促すものとし, (b) 障害者の人格の発達,可能な限りの最大限の自律達成及び集団生活への参加,さらに,市民権,参政権及び財産権の実現を妨げている不全的状況を防止ないし除去し, (c) 身体,精神及び感覚に障害を有する人々の機能的,社会的な回復を追求し,障害の予防,治療及びリハビリテーションに関するサービスや給付ばかりではなく,障害者の阻害や社会的な排除状態を克服するための手立てを取るものとする。 障がい者の定義は,「結果的に社会的不利又は周辺化を引き起こす,学習障がい,他者との関係作り又は職場への参加に関して困難を伴った安定型又は進行型の身体的,精神的又は感覚障がいのある者」とされている。この定義は,後述の2006年差別禁止法に引き継がれている。「社会的不利又は周辺化」「他者との関係作り又は職場への参加に関して困難を伴った」というあたりの文言に,社会モデルが取り入れられているといえよう。 (2)権利条約の批准 権利条約が採択されると,2007年3月30日,イタリアは,権利条約の署名準備が整うと同時に条約及び選択議定書に署名した。 2008年1月28日,イタリア上院(元老院)において,権利条約及び選択議定書の批准並びに権利条約に関連した国立の国内監視委員会の設立が全会一致で承認され,2009年2月24日,イタリア下院(代議院)においても権利条約及び選択議定書の批准並びに国立の監視委員会の設立について審議され,「法律2009年3月3日第18号」が成立した。これにより,国内監視委員会の設立が具体化し,批准の準備が整った。 2009年3月14日の官報(61号)にイタリア共和国大統領が批准を承認したことが記載され,同年5月15日に権利条約及び選択議定書を批准した。 元々,1987年に最初に国連総会で条約策定を提案したのはイタリアであった。その時点では国連に予算がないとか,人権問題ではないといった理由が反対意見として出され,条約制定への流れを作ることはできなかったが,イタリアは代わりに,国内法整備を着々と実現していったのである。 2 社会的協同組合の存在 (1)はじめに イタリアでは,社会的協同組合という,個人が自由な意思で加入でき,民主的ルールの下で運営される地域に根差した民間の団体が活発に活動している。 この社会的協同組合には,後述するように,組合活動の目的に応じ,A型B型の2種類がある。A型は,行政から委託を受け,社会福祉サービスを提供することがその主な活動内容であり,B型は,障がいのある人など,社会的弱者に就労の場を提供し生産活動を行うことが主な活動内容である。 (2)社会的協同組合の歴史  イタリアでは,1970年代の半ばに,最初の社会的協同組合が誕生し,次第に全国的な広がりを見せるようになっていった。  そして,1991年「社会的協同組合法」(法律381号)が制定されると,これらの取組は自治体との関係も深めながら量的にも質的にも存在感を増していった。同法の1条では,「社会的協同組合は,市民の,人間としての発達及び社会参加についての,地域における普遍的な利益を追求することを目的としている」と規定されている。  法律的な裏付けを得たことで,さらに社会的協同組合の取組は拡大し,2013年現在,イタリア全国に約1万2000の社会的協同組合が作られるまでになった。また,2013年の統計によれば,社会的協同組合が,イタリアの国内総生産の約7%を生み出し,全労働者の6%がこれらの団体で働いているとされている。 (3)2種類の社会的協同組合 法律381号では,2種類の社会的協同組合が定義されている。それがA型とB型である。 a A型の社会的協同組合 法律381号では,「社会福祉,保健,教育サービス」を提供する協同組合を「A型社会的協同組合」と規定している。 例えば,高齢者の介護,障がいのある人へのサービス,困難な状況にある未成年者保護,ホームレス夜間収容所の運営,幼稚園や保育園の経営,薬物依存患者に対するサービスなどを提供しているA型社会的協同組合が存在する。 そこで働く全ての職員が,その職業のためのトレーニングを受け,労働協約に基づく賃金を受けている労働者である。 これらA型社会的協同組合の提供するサービスの70%は,公的機関から入札等で受注した事業である。 b B型の社会的協同組合 法律381号は,「社会的不利益を被る者の就労を目的として農業,製造業,商業及びサービス業等の多様な活動」を担う協同組合を「B型社会的協同組合」として規定している。例えば緑地の整備,掃除,レストラン業,分別ゴミステーションの運営などの仕事を行っている。 このB型では障がいのある人をはじめ,「社会的不利益」を被る人々が,その事業体で働く人々全体の30%以上を構成することが義務づけられている。2007年には,全国でおよそ3万人の「社会的不利益」を被る人たちがこのB型社会的協同組合で働いている。 この,「社会的不利益」を被る人とは次の6個のカテゴリーに該当する人たちとされる。すなわち,@身体障がい者及び知的障がい者,A精神障がい者,B麻薬中毒者,Cアルコール中毒者,D未成年かつ家庭状況困難な者(親が刑務所に入っている子どもなど),E受刑者である。 B型社会的協同組合の目的は,現在弱者層に属している人に就労の場を提供することによって,弱者層から抜け出させることにある。 B型の社会的協同組合は,形態としては協同組合だが,実質は企業である。事業活動を通じて利益を出さなければならず,赤字を出すと倒産することもある。また,ここで働いている労働者にとっては,利益がそのまま賃金になる。 (4)小括  イタリアでは,社会福祉サービスの提供の場面,また,就労を通じた社会参加の場面それぞれにおいて,地域に根差した民間団体である社会的協同組合が重要な役割を果たしている。地域の福祉は,行政に任せるのではなく,その地域に暮らす人々が担い,障がいのある人など,社会的不利益を被っている人たちも,その人が暮らす地域で就労し社会参加することのできる仕組みが作られているといえる。 法制度や文化的背景の異なる日本にこれら社会的協同組合をそのまま輸入することはできないが,障がいのある人の社会参加を考える場合,障がいのある人も,福祉の客体ではなく,権利の主体として自らB型社会的協同組合の運営に参画するというイタリアの取組は,今後の日本社会においても参考となるものと思われる。 3 イタリア差別禁止法の概要 (1)イタリアでは,初の包括的な差別禁止法として,2006年に法律67号「差別の犠牲者である障害者の法的保護に対する規定」が制定されている。 この法律は,2000年11月にEUの理事会で承認された「雇用及び職業における均等待遇のための一般的枠組みを確立するEC2000年78号閣僚理事会指令(均等待遇枠組指令)」に基づいてイタリア政府が制定したものである。2006年法の前に,雇用における障害者差別禁止法が既にあったようだが,上記EU指令をそのまま法文化した内容だったようである。これを雇用以外の分野に広げたのが2006年法ということになる。 法律の内容は,全4条の短いものである。1条は目的と適用範囲,2条は差別の定義として直接差別,間接差別,嫌がらせの三つに類型化していること,3条で法による保護として司法による救済が行われること,4条で法の適用範囲として,個人及び団体を対象とすることが記載されている。 1条(抜粋) この法律の目的は,共和国憲法3条に規定され,1992年法律104号3条により推進されている,障がい者の市民的,政治的,経済的,社会的権限を完全に享受するための機会均等原則及び公正な取り扱いを完全に実施することである。 2条において,均等待遇の原則は,障がいに基づくいかなる差別も存在してはならないことを意味するとし,差別の定義として,@直接差別(discriminazione diretta),A間接差別(discriminazione indiretta),B嫌がらせ(le molestie ovvero)の3つに類型化している。 @ 直接差別 障がいを理由として,障がいのない者と比較して不利に取り扱われている,あるいは,それと近似した状態の場合 A 間接差別 表面的には中立的な規定,基準,慣行,命令,契約又は行為によって,特定の障がいを持つ者が他の者と比較して不利な立場に置かれる場合 B 嫌がらせ 障がいと関連した理由により障がいのある者の尊厳と自由を侵し,あるいは,威嚇的で侮辱的で,敵意に満ちた環境を生み出すような好ましくない行動や行為 3条では,司法による救済として,個人及び団体は裁判所に訴訟をすることができ,その手続は1998年法律286号「移民救済法」を適用し,一般の手続よりも迅速で効果的な法による保護を行うことを目指している。立証責任については,障がいのある個人に対する差別の有無の証明は原告にある。裁判所は損害賠償命令や差別の状況を改善する命令や,差別の撤廃に関する計画を迅速に採用するなどの権限を有しており,また,その地域で最も発行部数の多い新聞において裁判について公表することができる。 4条では,団体が,個人に代わってあるいは団体として起訴し裁判に参加することができることが書かれている。この団体とは障がいのある人々の保護を目的として組織された協会及び事業体にまで拡大されている。 (2)差別類型 上記のとおりイタリアの差別禁止法においては,差別類型として直接差別,間接差別,嫌がらせの3つが定められており,合理的配慮の不提供という類型がない。 この点について,ボローニャ大学で障がい問題にかかわるラウラ・アンドラオ弁護士と話をした際質問すると,イタリアには「合理的配慮」という概念がないということだった。 だからといって,合理的配慮の実態がないということではなかった。 もし視覚障がいのある人が会社に就職したのに,墨字の資料しか渡されず,内容がわからないため職務が遂行できないというケースがあったらどういう差別にあたるのかという質問に対し,同弁護士は,「間接差別にあたる。企業が障がいのある人を雇用した以上,障がいのある人がほかの人と同じように働くことが出来る環境を作らなければならない。」と明確に答えた。 また,間接差別の条文は,裁判の根拠として使われることが多いか,との質問に対しては,多い,との答えだった。 これらのことから,合理的配慮の不提供という差別類型が,イタリアでは間接差別に取り込まれ,実質的には保障されているものと思われた。 同弁護士は,嫌がらせの差別類型も訴訟でよく使われると述べていた。 嫌がらせという差別類型は日本にはなく,しかし障がいのある人が社会生活を送ろうとした場合,明確には直接差別にも合理的配慮の不提供にもあたらないような,しかし不愉快であったり傷つけられたりといった被害は,残念ながら多い。「嫌がらせ」の定義や実際のケースへの適用や立証に困難はあるかもしれないが,日本でもかかる類型の導入が検討されるべきである。ただし日本では,障害者虐待防止法で心理的虐待が定義されており,この中で「嫌がらせ」のケースを可能な限り取り込んでいくのが現状可能な方策であろう。 (3)救済プロセス イタリアの差別禁止法では,救済方法としては裁判提起ということになる。一般にイタリアの民事裁判は日本より長期間を要するようであるが,差別事案に関しては,「移民救済法」を適用し,一般の手続よりも迅速で効果的な方法による保護がなされるとのことである。 具体的には,地方裁判所に申請すると,裁判所が迅速に非公式な調査権を行使し,一般的な手順によって決定を出す。上告受理されると,裁判官は最も適切と思われる緊急命令を発行し,その後当該の命令が直ちに実施されるというシステムであるとのことである。 また日本と異なって,裁判所が,損害賠償命令を出すだけでなく,差別の状況を改善する命令や,差別の撤廃に関する計画を迅速に採用するなどの権限を有しているということである。損害賠償には,非経済的損失の補償も含まれる。また,非経済的損害の回復を決定し,差別による影響を除去する命令を下すことができる。 日本では,合理的配慮の不提供を主張する中で,実質的に被告側に改善を促したり,和解の中で改善を約束させるといった方策しか取れないが,今後は,改善命令といった作為命令を可能にする法改正が望まれる。 また差別を受けた本人だけでなく,団体訴権が認められており,障がい者団体による提訴が可能である点も,注目に値する。 (4)判例 イタリア差別禁止法に基づく判例を一つ紹介する。 2011年1月9日のミラノ一般裁判所で争われた支援教師の時間数削減に対する判決である。17人の障がいのある子どもの保護者と障がい者権利団体ledha(Lega per i Diritti delle Persone con Disabilita)が国に対して訴訟を起こし,支援教師の時間数削減は障がいのある子どもへの直接差別に当たるとして勝訴しているとのことである。 4 代理人から意思決定支援へ −ボローニャ大学ミーティング (1)期日 2014年4月3日 午後3時から5時30分 (2)参加者 ニコラ・クオモ教授(Prof. NICOLA CUOMO) マリネラ・アルベリッチ(MARINELLA ALBERICI 障がいのある子を持つ親の会から) ラウラ・アンドラオ(LAURA ANDRAO 弁護士) クラウディア・ランディ(CLAUDIA LANDI 弁護士) (3)ミーティング(テーマ:「障がいのある人の法的後見人」) a ラウラ・アンドラオ弁護士の講義 2004年法第6号により管理支援制度(amministrazione di sostegno)が制定された。これは,権利を擁護するための酸素のような存在であると考えられている。管理支援者の役割とは,障がいのある人の権利を保障することである。同制度は,民法の一部に規定されている。弱者,例えば精神的に困難な状況にある人の支援,若しくは,その家族の方への支援をするための制度である。 従来は,インテルデチオーネ(interdizione:困難な状況にある人の代わりにすべての決定権を持っている人=本人に権利がない。以下「禁治産制度」という。)しかなかったが,2004年に法が改正されて,あくまで支援を行う人としての管理支援制度ができた。弱者に代わって意思決定するのではなく,本人の意思を尊重して決めていくことができる制度である。管理支援者は,日常的な世話をする。例えば,老人でスーパーの買い物のときにお金を数えられないとか,郵便局に行ったときどの書類を書いたらいいのか,といったことの支援や,手術を受けるかどうかの意思決定の支援などもする。精神的な障がいがあるという以外にも,例えば,一時的な,麻薬常習者やアルコール中毒者といった弱者層も対象になっている。 禁治産制度しかなかったときには,制度利用により本人の決定権が全て失われてしまう状態だったが,管理支援制度の場合には,管理支援者が就任したことによって失うものはなく,かえって得るものが大きくなっている。 管理支援者は,日常生活の中で自立性の一部又は全てを失っている人の支援をするという役割がある。もし,日常的な自立性を欠く人がいて,管理支援者の利用が必要だということになれば,裁判官のところに行き,裁判官の判断で管理支援者をつけることができる。裁判官のところに申請ができるのは,本人,配偶者,永続的な同居人,四親等内の親族などである。特別に管理支援者に委任されたこと以外の全てのことについて,本人は行為能力を維持する。 管理支援制度の目的は弱者層に属する人たちが安心して日常生活を送ることであるので,支援の対象は本人が支援を必要としている部分のみである。管理支援者は,いつも本人のそばについて見守っていて,必要とあれば支援をするけれど,あくまでも,その人の支援をすることが目的であるから,決してその人の権利を奪ってはいけない。 なお,管理支援者制度の利用料は基本的に無償であり,費用がかかるとすれば,多少の経費のみである。通常は,家族が管理支援者となることが多いが,弁護士がなる場合は,10年ごとのローテーションとなっている。 b 質疑応答  Q 「代理人」から「意思決定支援」という変化と,差別禁止法や権利条約との関係性はあるか。 A 特に何か大きな出来事(条約の批准等)があって変わったのではない。この制度は,2004年の1月頃に出来た制度だが,本人の決定権を奪うような制度ではなくて,1人1人のニーズにあった支援を行おうという法律家の意見の高まりでできた。 Q 権利条約に関するイタリア政府の報告では,2004年法第6号は,行為能力の一部に制限がある,若しくは,行為能力が完全ではない人を支援するためのものだと書かれているが。 A その人が有している行為能力に合わせて,例えば50%に制限された行為能力であれば,それを全て尊重するという意味である。 Q 権利条約12条に2004年法は適合していると考えるか。 A 考える。権利条約12条を実際化したものが,この法律だと思っている。 Q 以前の禁治産制度も残っているのか。 A 併存しているが,禁治産制度が使われるケースは非常に少なく,ほとんど管理支援者制度の利用に切り替わってきている。 (4)管理支援者制度と禁治産制度 a 権利条約12条は,法律の前にひとしく認められる権利として, ア 締約国は,障がいのある人が全ての場所において法律の前に人として認められる権利を有することを再確認する。 イ 締約国は,障がいのある人が生活のあらゆる側面において他の者と平等に法的能力を享受することを認める。 ウ 締約国は,障がいのある人がその法的能力の行使に当たって必要とする支援を利用することができるようにするための適当な措置をとる。 としている。 「法律の前にひとしく認められる権利」としては,上記のとおり障がいのある人がその法的能力の行使に当たって必要とする支援を利用していくことができるかが大きな課題となっている。障がいのある人の行為能力の制限が伴わない支援の在り方としての一つが「支援された意思決定(supported decision-making)」であり意思決定支援といわれるものである。 b この点上記ミーティングにあるとおり,イタリアの管理支援者制度は本人の意思決定に重きを置く制度であり,その内容は日常生活から医療,重大な意思決定に及ぶものである。 この点で2004年法は権利条約12条3項の趣旨に適合するものと考えられる(ただしその内容は今回のミーティングでは明らかではなく,また2004年法の和文での解説が十分に入手できていないため,その理解は上記に止まる)。一方で,2004年法の施行後も禁治産制度は存続しており,代行決定を容認する制度が存続している点について,障害者権利委員会でも指摘されているように権利条約12条の法的能力の享受,行使には適合しない面も否定できない。 c 日本でも,権利条約を批准する過程で,障害者基本法23条が2005年の改正において,「国及び地方公共団体は,障害者の意思決定の支援に配慮しつつ,障害者及びその家族その他の関係者に対する相談業務,成年後見制度その他の障害者の権利利益の保護等のため施策又は制度が,適切に行われ又は広く利用されるようにしなければならない。」と規定し,さらに総合支援法(2013年4月1日施行)が42条において,「指定障害福祉サービス事業者及び指定障害者支援施設の設置者(以下「指定事業者等」という。)は,障害者等が自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう,障害者等の意思決定の支援に配慮するとともに,市町村,公共職業安定所その他の職業リハビリテーションの措置を実施する機関,教育機関その他の関係機関との緊密な連携を図りつつ,障害福祉サービスを当該障害者等の意向,適正,障害の特性その他の事情に応じ,常に障害者等の立場に立って効果的に行うように努めなければならない。」と規定するなど,意思決定支援の規定が置かれるに至った。 しかしながら,現在の成年後見制度は本人の意思決定支援の手続を経ることなく行為能力を制限する可能性があり,特に後見類型では一律及び永続的な行為能力制限の効果を及ぼす制度であることから,障害者権利委員会の見解を前提とすれば権利条約12条に違反すると指摘される可能性が高い。 その点を踏まえ,現行法上民法と任意後見契約法に分離されている成年後見制度について,意思決定支援を基軸とした統一単独法である「意思決定支援法」として規律されるべきであると提案する動きもあるところであるが(大阪弁護士会「ひまわり」設立15周年記念シンポジウム報告書),かかる提案に際してイタリアの管理支援者制度の内容は参考にされるべきである。 (5)感想   ミーティングでは,イタリアの後見制度の概要を知ることができた。紙幅の関係で割愛したが,実際の管理支援者制度の申立事例が紹介され,日本と同様,弁護士が申立てに関与し,本人の生活史を詳らかにすることで適切な支援態勢の構築を目指す活動がなされていることが分かった。中でも,必要な意思決定の支援対象として性に関する意思決定を含めていることが注目された。ダウン症の子の母親からも話を聞くことができたが,日本と同様に親なき後の問題があり,本人の将来の社会参加や後見人の引継ぎに関して問題意識を有していることや,本人の意思を重要視している姿勢が感じられた。   本人意思の尊重,意思決定支援という視点について,今回のミーティングを参考にしながら日本における成年後見制度の見直し及び現場の支援に活かしていきたい。 V 教育 1 インクルーシブ教育制度の歴史と概要 (1)全ての子どものインクルーシブ教育を保障する法律の成立 イタリアでは,0歳からの保育園から大学まで保育・教育の全ての学校段階でインクルーシブ教育が保障されている。保育園,幼稚園,小中学校,高等学校,そして,大学において障がいのない子どもと同様に普通学級での教育が法令により原則として保障されるという1970年代から始まるこの取組は1992年法律104号の障害者包括法に具現化されている。    イタリアのインクルーシブ教育法制度の特徴は,障がいのある子どものみではなく従来の学校教育制度により疎外されている全ての子どもたちを統合するという障がいの有無や程度を問わず「全ての子どもの教育を保障するインクルーシブ教育制度」を構築した点にある。 統合可能とされる障がいのある子どもを既存の学校教育制度に組み入れることで障がいのある子どもの統合とするのではなく,学校教育制度全体を改革する中で障がいの有無や程度を問わず全ての子どもの教育を保障するインクルーシブ教育制度を構築したイタリアについて,その実態と法令について整理していく。 (2)インクルーシブ教育法制度の概略史 1970年代にインクルージョンの動きが始まるまで,障がい児教育は分離された特別学級及び特別学校で行われていた。特別学級は知的障がい,身体障がい,弱視及び難聴で普通学級への復帰が可能な程度のものが対象で,特別学校はそれ以外の知的障がい,身体障がい,盲,ろうの子どもたちが対象とされた。1967年大統領令1518号は,障がいの診断手続及び特別学級,特別学校に該当する障がいについて規定しており,これに基づき学校長が保健医療所の意見を参考にして児童生徒の振り分けを行う制度が取られていた。 1969年の民主化運動「暑い秋」で精神障がい者施設解体運動や学校民主化運動等がイタリア全土を巻き込み,その流れで1970年代よりインクルージョンに向けた法改正が徐々に行われた。地域の学校の普通学級における教育の保障は,義務教育段階の障がいが軽度の子どもから重度の子どもへと拡大し,その後,幼稚園,高等学校へ,そして,1992年法律104号により,保育園,大学が加わり,0歳から成人までのインクルーシブ教育が法律で保障された。以下,1970年以降の就学に関する法令を記載する。 ・1971年 法律118号    義務教育段階の障がいのある子どもの地域の学校への就学を保障。ただし,重度の知的障がいのある子ども,身体障がいのある子どもを除く。 ・1977年 法律517号    義務教育段階の重度の子どもを含む全ての子どもの地域の学校への就学を保障。特殊学級の廃止。 ・1988年 通達262号 高等学校に障がいのある生徒の受入れを保障。 ・1992年 法律104号    保育園,幼稚園から大学まで,全ての障がいのある子どもの地域の学校での就学の権利を保障。 (3)障がいのある子どもの就学先と在籍者数 普通学級に在籍している障がいのある児童生徒の人数と全児童生徒数に占める割合について,2007/2008学校年度では,幼稚園1万8934人(1.1%),小学校7万825人(2.5%),中学校5万6023人(3.1%),高等学校4万2931人(1.6%)で合計18万8713人(2.1%)となっている。 次に,児童生徒の障がいの内訳をみる。複数回答のものと思われるが,視覚障がいが小学校5.3%,中学校4.4%,聴覚障がいが小学校6.1%,中学校5.0%,肢体不自由が小学校14.3%,中学校11.2%,知的障がいが小学校40.1%,中学校43.0%である。割合が高いのは,知的障がい,学習機能障がい,言語機能障がいの他,注意欠陥障がいや感情・情緒障がい等である。 次に,大学に在籍している障がいのある人の人数であるが,2004/2005学校年度は9134人で,身体障がいのある人が2814人,視覚障がいのある人が764人,聴覚障がいのある人が542人,知的障がいが290人,失読症が68人,その他が4656人となっている。 (4)教育の機会均等とインクルーシブ教育の権利規定 障がいのある人・子どもの教育の機会均等について,イタリア共和国憲法3条,34条,38条などで障がいのない者と同等に保障されることが規定されている。1970年代から始まるインクルーシブ教育の取組の中で,これら憲法条文について,障がいの程度を問わずそして学校段階を問わずに全ての障がいのある子どもの教育が普通学級で保障されること,そして,そのための整備は国が責任を持つとする解釈が憲法裁判所で確認されていく。 1992年法律104号(障害者の支援,社会統合及び諸権利に関する包括法)は1970年代から始まるインクルーシブ教育法制度の到達点であると位置づけられている。この法律は,教育だけではなく障がいのある人の生活全般を見通した法令である。章立てを見ると,1条〜5条「障害者の権利について」,6条〜11条「早期発見やリハビリ医療等」,12条〜17条「教育」,18条〜22条「就労」,23条〜28条「余暇等生活」,29条〜37条「政治」,38条〜44条「行政等の役割」となっている。 法律の目的は,障がいのある人の「完全な統合」や障がいのある人の参加や権利の実現を妨げている状況の防止や除去,障がいのある人の阻害や社会的な排除状態を克服するための手立てをとることで,これらは国の責務である(1条)。 教育について,0歳からの保育園,幼稚園,小中学校,高等学校,大学という全ての教育機関における教育を障がいのない人と同様に普通学級で学習する権利があり(12条1項2項),しかも,この権利について学校機関は学習の困難性や障がいその他を理由として拒否できないことが明確に記載されている(4項)。その普通学級での教育の目標は,「障害のある子どもの学習,コミュニケーション,人間関係及び社会化に関する潜在的な可能性の発展」とされている。 なお,この法律は,イタリア国籍の障がいのある人・子どものみではなく,外国人や無国籍者及び定住者にも適用される(3条4項)。 以上のようにイタリアでは「障がいのある子どもの教育権・学習権=地域の学校の普通学級において教育を受ける権利・学習する権利」と明確に法律で規定されており,学校などの教育機関には障がいのある人・子どもを受け入れる義務と責任があることが明文化されている。 (5)教育に関する差別規定と権利侵害に対する救済 イタリアの法律は明確に障がいのある子どもの学習権を保障し,国や市の義務についても規定しているため訴訟では勝訴することが多いといわれている。教育において差別禁止という文言を用いた明確な規定は存在しないが,前述の法律104号12条4項における,障がいのある子どもの学習権は障がいに起因する困難性により妨げられないという規定は,障がいのある子どもへの差別禁止に相当するものであろう。さらに,それを保障するための方策について同法律で記載されている。 障がいのある子どもの教育に関する訴訟事例を見ると,支援教師の時間数の削減に関するものが多い。例えば,2006年には,予算削減で支援教師の配置時間を一日から5.6時間に減らされたことに対して保護者が市を起訴し,シラクーサ行政裁判所は市に対して障がいのある子どもに学校時間全てに補助員の配置を保障している1992年104号法13条に反しているという判決を出している。また,2010年にはラツィオ州行政裁判所に3人の障がいのある子どもの保護者が支援教師の配置時間を減らされたとして国を相手に訴訟を起こしている。保護者は勝訴し,裁判所は支援教師の時間の回復と保護者にそれぞれ4000ユーロの賠償金支払いを国に命じている。    なお,訴訟を起こすまでの間に,保護者の権利を明確にした法律や法令のもと,学校と保護者の話し合いが行われる機会を多く設けているので訴訟の数はそれほど多くはないとのことである。 (6)障がいのある子どもの学習保障 イタリアでは障がいの有無に関係なく子どもは全員地域の学校の普通学級に就学することになっているため,就学先の決定機関はない。次年度に就学する子どもの保護者は全員,入学申請書を市の学校当局あるいは入学を希望する学校に提出する。 障がいのある子どもの学習権を保障するために「個別教育計画」(piano educativo individualizzato:PEI)が作成される。そのための手続として,子どもが小学校に入学する前後に,障がいの認定→「機能診断」の作成(Diagonosi funzionale:DF)→「動態―機能プロフィール」の作成(Profilo Dinamiko funzionale:PDF)→「個別教育計画」の作成(piano educativo individualizzato:PEI)という一連の流れがある。 障がいのある子どもが学校に就学する際の具体的な手続は,1992年法律104号13条に基づき,県と市がプログラムを規定する。このプログラムにより,地域保健機関,県,市,教育事務所,学校,保護者などの多くの機関の連携のもと障がいのある子どもの教育に関する目標や支援体制,学校と学校外の統合生活の連携等の計画が行われる。 (7)「個別教育計画」作成までの流れ a 入学前の手続〜障がいの認定と「機能診断」の作成 障がいの定義は1992年104号に規定されている。障がい者とは,「恒常性のあるいは進行性の,学習,人間関係及び労働の面での困難性をもたらし,かつ,社会的不利や阻害を引き起こす,身体,精神あるいは感覚に障害を有するもの」(1項)であり,重度障がいとは「単一又は重複の障害が,年齢に対して個人の自律性を縮小させ,個別あるいは関連的な次元で常時包括的・永続的な支援が必要とみなされる場合」とされている(3項)。 判定は,地域保健機関の小児神経科医,心理学関係者,そして,社会福祉士等その他の専門家などが医療委員会を組織し,証明書(certificazione)が発行される。これにより,「1992年法律104号に相当する」と認定され,法律に記載されている支援サービスを受けることが保障される。 保護者の申請のもと地域保健機関は子どもの障がいを認定し,機能診断を作成する。保護者は,入学申請書とともに,この機能診断を学校に提出する。 ボローニャの機能診断の様式を見ると,子どもの機能について,運動,感覚,認識,学習,言語コミュニケーション,情緒―関係,個人的自律及び社会的自律という8つの領域に分けて自由記述と程度(軽度・普通・重度)を記載するようになっている。自由記述に際する留意事項として,子どもの所有している能力と困難,興味関心や発達の可能性,そして,子どもの物理的な移動や投薬・リハビリなどの状況,カウンセラーや補助員等人的配置の必要性を記載するとされている。 これは子どもの就学先を判定するためのものではなく,学校長が支援教員や介助員を要請するための資料となるものである。学校長はこれを元に支援教員や介助員の派遣要請を行い保護者の申請に基づいて障がいのある子どもが入学する体制を整えるのである。 b 入学後の手続き〜「動態―機能プロフィール」と「個別教育計画」の作成 子どもが入学すると,機能診断を元にして,学校における具体的な個人の計画を作成するために,障がいのある子ども一人一人に学校と地域保健機関そして保護者によるオペレーティンググループ(Gruppo Operativo)の設置が義務付けられている。構成員は,校長,クラス担当教員及び支援教員,地域保健機関の担当者,地方公共団体の教育補助員又は技術者,そして障がいのある子どもの保護者である。このグループは少なくとも年に3回は集まり,動態―機能プロフィールと個別教育計画を策定し,検証・更新を行う。更新は必要時のほか,学校間のつながりを持たせるために幼稚園,小学校,中学校の最終学年と高等学校の在学中にも行うことになっている。 ボローニャの動態‐機能プロフィールの様式を見ると,学校外での子どもの様子や対人関係について質問しているモデルAと,子どもの機能の状態について記載するモデルBがある。モデルAは自律と支援の状況,支援を得ている人,家での活動と対人関係,学校外での活動等,特に誰と一緒に何をしているのかという子どもの社会参加を中心に聞き取る内容になっている。モデルBは機能診断と同じ8項目(@運動領域,A感覚領域,B認知領域,C学習領域(読み/書き/計算),D言語コミュニケーション領域,E情緒―対人関係領域,F個人的自律領域,G社会的自律領域)の現状と,潜在的能力(短期間・長期間にわたる予測)等について記載するものである。 この動態‐機能プロフィールをもとにして,個別教育計画が策定される。個別教育計画は,毎年策定され,子どもがクラスの授業に参加するに伴い必要となる支援や事項,学校外の活動やそれらの統合等について記載された文書で,クラスの授業と連結した個別の学習指導プログラムも含んでいる。学校やクラスは障がいのある子どもが在籍していることを前提とした学習指導計画案が策定するが,個別教育計画はそれを個人に焦点を当てて書かれたものともいえる。 記載内容としては,@クラスの特徴,A支援教師や補助員,その他人的支援の配置時間,B生徒が利用するもの(食堂の使用,投薬,特別な移送,エレベーター,トイレ,車いす,特別な机,計算機,休憩する場所,特別な器具と補助等),C通学時間,D障がいのある子どもの参加を前提としたクラスの活動プログラム,E学校内と学校外の活動の統合の形,クラスでの授業内における個別の目標の有無や達成状況,学校外での活動プロジェクト,Fリハビリテーションやセラピーについてなどである。 (8)就学後の学習保障 a 個別教育計画の作成について これについては前述したが,障がいのある子どもを普通学級にインクルージョンするための最も重要な方法として,障がいの認定→機能診断書の作成→動態‐機能プロフィールの作成→個別教育計画の作成の一連の流れについて規定されている。これにより,地域保健所が管轄する医療と保健,そして学校教育と家庭(保護者)が連携して障がいのある子どもの教育に責任を持つ体制ができ,普通学級における必要な支援等が具体化される。文章には子どもの障がいの状態とともに,その子どもの好みや文化的嗜好性,潜在能力について記載される。 b 地方公共団体,学校,地域保健機構のプログラム協定について 障がいのある子どものインクルーシブ教育に関して地方公共団体・学校・地域保健機構が共同でプログラムを策定することが規定されている。これの効果は以下である。一つは,子どもが学校内だけでなく学校外においてもインクルーシブされた活動に参加できること。二つ目は,支援体制の整備を共同で行うことによりその権限と予算の配分について明確にしてその実施を義務化したことである。 例えば,学校と専門のセンターの連携による専門の教材や補助器具の整備,国による支援教員の派遣,市による身体的な介助員の派遣,県による視覚障がいや聴覚障がいの補助員の派遣というように役割を義務化した。そして,支援教員は一般の教員と同等に障がいのある子どもの教育に関する責任を有し,その役割について明確化している。 支援教師について,障がいのある子どもには個別支援計画に沿って支援教師が配置されるが,支援教師の役割は障がいのある子ども個人の支援ではなく,学級担任とともにクラスを共同で担当することである。また,他の教員と協力して障がいのある子どもの個別支援計画を作成し,学年協議会及び教員会議において活動の計画策定に参加するなど,障がいのある子どもの個別支援計画を学校教育全体に位置づける役割を担う。 また,介助員は教員ではなく福祉関係の職員などが担う。介助員は様々な種類があるが,身体障がい,知的障がいの子どもには介助員として市の職員が,聴覚障がいのある子どもへのコミュニケーションスタッフや視覚障がいのある子どもの介助は県の職員が配置されている。さらに,ボローニャでは独自に高等学校段階になるとチューターという制度を設け,その高校を卒業した同年代の者を配置している。 c インクルーシブ教育の実現方式 ここでは,インクルーシブ教育の実施を高めるために,以下が規定されている(14条)。 ・教員等スタッフの教育と研修 ・中学1年からの体系的な進路指導 ・個別教育計画と関連した,クラスの枠を超えた集団の編成 ・学校の継続性の保障のための上下の学年の教員間の協議の義務付け ・学校教育経験を最大限に保障するために3回までの留年を認めること ・支援教員の養成について,幼稚園と小学校の教諭は大学において,中学・高等学校の教諭は卒業後の資格修得課程において行われる d インクルーシブ教育のためのオペレーティンググループ インクルーシブ教育について提案,検証し管理するためのオペレーティンググループを県段階と学校内に設置することが規定されている。特徴としては,県の団体間オペレーティンググループでは障がい者団体や家族団体が指名した人が3分の1を占めていること,学内オペレーティンググループにも保護者や生徒の参加が見られることである(15条)。 ア 県の団体間オペレーティンググループ(G.L.I.P) ・役割:プログラム協定の検証,個別教育計画の策定,子どものインクルージョンに関する活動について,教育長,学校,地方公共団体,地域保健機構へ専門的助言及び提案を行う,公教育大臣及び州知事への報告書の作成 ・構成:教育長が任命した教育組織管理分野の専門家2名,地域保健機構の担当者2名,市の担当者1名,県の担当者1名,障がいのある人・家族団体から指名された者3名 イ 学内オペレーティンググループ ・役割:インクルーシブ教育計画の策定の保障 ・構成:教員,サービス・オペレーター,保護者及び子ども e 評価及び試験 イタリアには日本のように入学試験は存在しないが,中学校修了資格試験や高等学校修了資格試験があり,これらを取得することにより上級の学校(高等学校や大学)への進学が認められる。しかし,そこに一般的で絶対的な評価基準が存在する限り,特に重度の知的障がいのある子どもの進級や進学の大きな障壁となる。これらについて,公教育が設置する修了資格試験の基準ではなく,障がいのある人で必要な者に関しては,個別教育計画に基づいて個人の進歩の度合いにより評価するとされている。 さらに,試験の方法について,障がいに応じて補助員を配置したり,同質であるが内容の異なる試験内容等へと変更・調整することにより公平を保つ義務が学校側にあることが記載されている。 f その他の障がいのある子どもの学習保障 ア 学級人数の少人数化 1クラスの上限人数は25人で,障がいのある子どもが在籍する場合は20人を限度とする。 イ 教員の複数性 一学級二担任制や二学級三担任制など,複数の大人が子どもを多様にみられる体制を作った。 ウ 教科学習の柔軟化 教科を固定的に学習するのではなく,合科的な授業を取り入れることで学校の独自のプロジェクトの中での学習を可能にした。 エ 学校の住民参加 クラス会議,学校会議等,学校に地域住民や保護者の代表,高等学校段階では生徒の代表が構成員になり学校の運営に参加する。 オ 障がいのある子どもの通学の保障 1971年法律118号で障がいのある子どもの通学の無償化が規定されていたが,障がいのある子どもの通学について市の福祉局との連携により,専用バスの運行や介助員の措置等が行われている。 カ バリアフリー 1971年法律118号で公共建築物及び学校施設の障壁の除去について規定され,その後1978年大統領令384号で実施のための規則を承認した。18条では,「就学前から大学その他の公立学校は,歩行ができないあるいは困難な子どもによる利用を保障しなければならない。」「机,いす,タイプライター,点字教材,着替えの部屋など,教育活動に必要な教材や設備は,個々の障がいに対応したものでなければならない。」「エレベーターのない学校においては,歩行のできない子どもの学級は1階に設けなければならない。」と規定されている。 その後,1989年法律13号でこれらの基準は私立学校を含む民間の建造物にも適用され,1992年法律104号へとつながる。8条では,学校を含む公的・私的な建造物には物理的障壁の除去が義務付けられている。これに伴い,学校におけるスロープや階段昇降機,エレベーターの設置,特別な仕様のトイレ等の整備が進められている。 (9)おわりに〜今後の制度改正の見通し〜 2006年に権利条約が採択され,イタリアは2007年3月30日に権利条約と選択議定書に署名し,2009年5月15日にこれを批准した。条約批准に際して,1992年法律104号で権利条約における学校教育の内容を満たしているとされ,あまり問題になっていない。これは,1992年104号法が現在まで一部の改正のみで抜本的な法改正は行われていないことからわかる。既述のとおり,イタリアは1987年に国連で障害者差別撤廃条約を提案しているが当時は反対多数で却下されたという経緯を持つ。イタリアは国連やEUの規定内容を国内で着実に実体化した国であるといえる。 だが,実態を見ると,近年の教育予算の削減や市場化を取り入れた教育改革の中で,支援員の配置時間数が減少されるなどの影響がみられる。また,私立学校は障がいのある子どもの受入れに消極的であり,保護者にとっては実質選択できない状況にある。2006年差別禁止法が実態にどのような影響を与えるのかさらに注目していきたい。ただ,そのような中でも,イタリアは普通学級におけるインクルーシブ教育を分離教育へ転換することはないであろうと思われる。現状に対する批判・不満の背後に「イタリアのインクルーシブ教育制度に対する誇り」が強く存在しているからである。 2011年3月22日,ダウン症の女性が文学の学位を修得しパレルモ大学を卒業したということが,イタリアでも新聞報道されたが,後述するイタリアのインクルーシブ教育の推進者であるボローニャ大学のニコラ・クオモ教授は,大学の講義でこれを取り上げ,「ダウン症の人の能力がこの40年で上がったわけではない。イタリアの社会環境が変わったのだ。インクルージョンは文化の問題である」と解説をしている。イタリアのインクルーシブ教育の30年間の到達点を端的に表している出来事であろう。 2 インクルーシブ教育の現状−学校教育局のヒアリングから (1)ヒアリング概要 場 所:エミリアロマーニャ州学校教育局 日 時:2014年4月3日午前 担当者:検査官ラファエル・イソア氏 (2)イタリアの歴史について イタリアでは,1970年代に大規模な社会改革が行われ,同時期に特殊学校,孤児院,精神科病院が閉鎖された。これは科学的にも心理学的にも弱者層に属する人々のリハビリを,地域で行っていかなくてはならないという考え方に基づくものである。改革から40年が経過し,統合教育は普通のもの,当たり前のこととなっている。もちろん組織,オーガナイズ,人材育成等の問題もあるが,それが基本的哲学や真理を覆すまでには至っていない。 (3)教育についての考え方 教育というものを考えたとき,人と違う子どもがいることはクラス全体にとってよいことと考えている。その中で子どもたちは助け合い,友情など様々なものを学ぶ。8年前に,イタリア,ドイツ,ベルギーにおいて,ダウン症の子どもの知能検査について比較調査を行った。当時ドイツではダウン症の子どもは特殊学校に通い,ベルギーではダウン症の子ども専門の特殊学校に通っていた。比較調査の結果,イタリアで生活しているダウン症の子どもたちは,2国にくらべ,平均で30%以上知能が高いという結果が出た。心理学者の分析によると,こうした成果が出た原因は,先生ではなく周りにいる友人,同級生にあるという。いろんな知性をもった友人に混じって生活することで互いに刺激を受けるからである。 (4)イタリアの教育体制 教育省(国レベル)の下に学校教育局(州レベル)がある。イタリアにも今なお特別学校は10校ほど存在するが,もちろん家族は,子どもを普通学校へ通わせるか特別学校へ通わせるか自由に選択でき,99%以上が普通学校への入学を選択する。特別学校に通う子どもは1%未満である。なお,エミリアロマーニャ州では,特別学校は1校もなく,どんなに重度の障がいを抱えた子どもでも,普通学級に入学している。例えば人工呼吸器をつけている子どもであっても,どうしても家での治療が必要であるという場合を除き普通学級に通う。子どもの状況により,クラスの教員,補助教員,看護師,呼吸器の専門家,支援員(エデュケーター,補助教員より下の人)がつく。例えばアンナちゃん(小学校3年生)は背骨を骨折し,首から下が動かず,人工呼吸器をつけている子どもであるが,熱を出して家にいなくてはならないときはスカイプ(無料のテレビ通話システム)で教室とつなげ,参加させたりもする。障がいのある人は行きたいという要求が強いので,病人のように支援するのではなく,何かしたいと思ったらその気持ちを大事にし,刺激を与えることが非常に大事である。 イタリアでは,障がいのある人に対し,様々な公的機関(市の社会福祉課,医療地域公社等)が協力体制をとっている。障がいのある人にとって一番問題となるのは,自分の障がいではなく,周囲にいる学校の先生,社会福祉士,医師が協力関係を築けないことにある。このため,子どもを統合教育に参加させるには,学校だけでなく,環境を整えるために,周囲にいる主体の協力関係を深めることが最も大切である。 法制度,障がいのある人に対するサービスは州によって異なることはないが,イタリアには南北問題があることに起因して,このような協力体制がうまくできている州とそうでない州とで,程度の差がある。 (5)バリアフリーについて バリアフリーに関しては,予算の関係もあるため全ての学校がバリアフリー化できるわけではないが,エミリアロマーニャ州内の小中学校は概ねバリアフリー化され,2階建以上の建物にはエレベーターがつき,段差はできるだけなくし,障がいのある子どもが動きやすいよう改造するようにしている。ただ,高校以上になるとそれが難しくなってくる。 (6)教材について  現在イタリアでは,出版社は,教科書を作る際,点字のものも作らなくてはならないという法律があり,学校に目の見えない子どもを受け入れることが分かった場合には,出版社にその旨伝えると,出版社が点字の教科書を送ってくれる。  また,県単位で教科書を支給するセンターがあり,知的障がいのある子ども(特にダウン症の子ども,遺伝性の障がいで知的障がいのある子ども)に合わせた教科書も支給される。ただ,全て特殊なものを使っているのではなく,一緒にできることは一緒に行い(できてくるもののレベルは違うが,例えば春というテーマで作文を書いたり絵を描いたりなど,同じテーマで障がいのない子どもと一緒に授業を受ける),特別な教材を使うのは算数などの教科が多い。 (7)試験について イタリアでは,高校の卒業は国家試験によることになるが,目の見えない人については,点字の試験用紙あるいはコンピュータで点字化されたものが用意される。 (8)就学前 子どもが生まれ,小児科医から障がいがあると診断された場合,正式に障がいの認定を受けるためには診察を受ける必要がある。認定された障がいの度合いにより,障がい年金,送迎,障がいのある人用の駐車スペースの利用など,どのようなサービスを受けるのかが変ってくる。例えば目の見えない子どもの点字機械については,家で使うものについては市の社会福祉課の負担で購入されるが,学校で使うものについては学校教育局が購入するなど,家で必要なものは市が負担し,学校で必要なものは学校教育局が負担することになっており,障がいのある子どもの権利として保障されている。 また,エミリアロマーニャ州では,出生後2日目に,聴覚検査が行われ,耳の聞こえない子どもに対しては,2,3歳の内に,およそ97%人工内耳の手術が施される。担当の医師はその子どもの成長に合わせた治療プログラムを作成し,専門のリハビリが行われる。もちろんイタリアでも手話に対する議論はあるが,現状として手術をせず手話をしたいと主張している人の割合は,全体の2〜3%で,手話に固執している人たちは,手話は自分たちの言語であるという意識が非常に強い。しかし,ラファエル検査官はそれには反対で,手話では深いところまで伝えることはできず,どんなに知性が高いとしても,学校においてよい成績を修めた人は非常に少ない。非常に複雑な議論であり,もちろん両親に手話で育てたいという希望があれば,手話を教えるようなシステムになっているが,何十年もこの研究をしてきて,個人的には子どもは聞こえた方がよいと確信している。 障がいのある子どもが入学する前に,小児神経科医,言語学者,心理学者,家族等により,障がいの有無だけでなく,生活する上で何ができて何ができないかを診断する,機能的診断が行われる。家族は一番長く一緒にいて,その子どもに何ができて何ができないかを一番把握しているので,診断には絶対に参加してもらう必要がある。診断においては,例えば,ダウン症の子どもは普通の年齢の子どもと比べ知的能力が低いことが多いが,社会性が高い,といった良いことも記載される。 機能性診断が終わると,学校での受入れとなる。そこで,家族,学校の先生,社会福祉士と機能的診断を行った医師らが一緒に会い,診断結果を踏まえて個人の教育計画(「ペイ」と呼ばれている)を作成する。ペイには,クラスでの対応,学校生活を行う上で何が必要か(補助教員や人工呼吸器のケアをする人などの人員,あるいは機械など)が記載される。 これらは理論的にはすばらしいが,実際に,補助教員が国から何時間保障されるべきところ,予算がないから何時間しかつけられない,小学校の1クラスの定員は25人で,1人障がいのある子どもがいたら19人にしなくてはならないが,クラスの編成上それが困難であるなど,様々な問題がある。なお,このように,様々なところから上がってくる様々なクレームに対応し調整するのが検査官の仕事である。検査官には決定権はなく,法律に従い皆に平等に行わなくてはならないので非常に難しい。 普通は障がいのある子どもの場合,自分の住んでいるところから一番近い学校を選ぶ。学校に行くだけでなく,コミュニティーの一員として過ごすため,住んでいるところから近くの学校を勧める。それぞれの市には,障がいのある人に対する個人プロジェクトの他,障がいのある人,高齢者など弱者層に対し,どのようなサポート主体(民間の主体も含め)がどれだけあり,予算の範囲でどのように使うことができるかなど,資源と予算についての地域計画がある。 (9)個人プロジェクト イタリアでは障がいの程度種類に関わりなく,どの子どもも普通学校に入学する。もっとも,障がいのある子どもには,個人プロジェクトが作られ,それに沿って統合教育が行われる。例えば生まれたときから全盲の子どもが学校に行くときは,目が見えないことを考えた上での特別な教育が必要になるが,普通学級に入る。本は全て点字になっており,例えば色を分からせるため,単に点字に訳すだけでなく,匂いと関連させるなどの配慮を行っている。さらに,目の見えない子どもの教育を専門とした補助教員が付き,普通学級の教師の他,その子どもの横には専門の補助教員が付くことになる。一言で目の見えないといっても様々なタイプがあるので,点字だけでなく,コンピュータを使って拡大縮小するなど,その子どもに合わせた方法を用いる。個人プロジェクトというのは,同じ障がいであっても環境,程度により異なるので,その子どもに合ったプロジェクトを,医師,家族,社会福祉士が考えて作る。教育は学校だけの問題ではなく,皆がチームになって行うことが大事である。個人プロジェクトは毎年作り直される。なお,障がいのある子どもが学校に行く場合に,両親が付き添いを求められることはない。学校には用務員のようなスタッフがいて,研修を受けた上で,トイレ介助や,給食時の食事介助をするので,親の付き添いが必要ということは全くない。 (10)高校への進学について イタリアは,小学校が5年制,中学校が3年制,高校は5年制で,16歳(高校の最初の2年間)までが義務教育となる。中学校(14歳)までは皆一緒だが,高校は文系,理系,工業系,農業系,語学系,美術系など専門に分かれている。高校の入学試験はないので,基本的に好きな高校を選ぶことができるが,実際には必ずしも本人の希望の高校に行けるわけではない。 そこで,中学校卒業前にオリエンテーションが行われ,中学の先生,家族,地域のオペレーター,個人計画を作る心理学者,神経医などのチームの人が参加する。家族の中には子どもに期待をする家族と,高校なんてとても無理だと考えている家族など色々いるため,交渉が必要となる。そういうときに検査官であるラファエル検査官たちは,家族に対し,1年先のことではなく,子どもが25歳,30歳になったときのことを考えてください,とアドバイスする。最終的には70%くらいの障がいのある子どもがホテル関係等,職業訓練学校のようなところに行く。 義務教育終了時で辞める人もいるが,障がいのある子どものうち,高校を卒業できる子どもの割合は60%,大学に進学する子どもの割合が20%である。なお,エミリアロマーニャ州では,障がいのない子どもで高校卒業資格を得ることができるのは97%で,40%が大学に進学する。高校を卒業できる障がいのある子どもの中で,高校の卒業資格をもらえる子どもと,修了証書をもらう子どもに分かれる。卒業資格を得れば大学に進学することができるが,課程を修了したという修了証書では大学に進学することはできない。 (11)就労支援 大学に行かない子どもは何らかの形で就職することを考えるが,5年間の高校生活の後期に,成年への移行のための準備が始まる。非常に難しい時期である。高校生活後期の2年間になると,地域の雇用センターとコンタクトをとり始める。基本的に障がいのある人の就労は保障されなくてはならず,それぞれの企業は企業の従業員数にあわせ,その何%が障がいのある人でなければならないと決まっているので,障がいのある人用の労働ポストを準備するようになっている。単に就労するのではなく,一人一人に合った職場を探してあげなくてはならない。高校生活後期2年間のうちに,企業内研修ということで実際に企業に派遣され,企業に合うかどうかを見る。障がいのある人を雇ったことで非常に良くなった会社もある。一人のダウン症の女の子が駅にある喫茶店に正規雇用されたところ,その子が入ってから他の従業員がよく働き,お客さんに親切になり,お客さんの態度も良くなったということがあった。かわいそうだから働かせてあげるということではなく,何ができ,何が好きかを見極め,その子どもの能力に合った仕事を見つけてあげなくてはならない。これまで担当した中で一番おもしろいケースは,自閉症で,アスペルガー症候群,ただし知能の非常に高い子どもについてのケースである。その子はホテル関係の専門学校に通い,英語とフランス語とドイツ語が話せ,カクテルを作ることができたが,騒音が苦手で騒がしいところにいることができなかった。その子のために仕事を探している間にナイトクラブでの仕事を見つけた。彼の場合,ディスコはうるさくていることができないが,ナイトクラブは照明が落としてあり,騒がしい雰囲気ではないので,やっていけるということでナイトクラブに就職した。 もちろん,残念ながら経済危機のため障がいのない子どもであっても職を見つけることが困難な状況で,障がいのある人の職を見つけることは難しく,どう考えても就労できるような状態でない人もいる。その場合には,保護された,社会的協同組合がやっている作業所に入ることがある。 (12)検査官の仕事について エミリアロマーニャ州には本来18人の検査官がいなくてはならないが,経済危機のため,現在4人で仕事を回している。検査官は,エミリアロマーニャ州にある学校のクラス,教員のコーディネート,問題が生じたときの窓口,家族との関係,学校システムや医療システムの関係調整を担当し,加えて研究を行っている。 子どもの両親と学校の方針が異なる場合,検査官が中に入り仲介を行う。例えば自閉症の子どもを持っている両親が,先生のやり方がよくないというクレームをつけた場合,ラファエル検査官が出向き,先生と話をし,個人プロジェクトを見せてもらう。ラファエル検査官の仕事は,誰が正しいかを決めることではなく,家族の主張が正しくなく,実際と違っていても,家族が悩んでいることは確かなので,それをどういうふうに和解の状態にもっていくか,話合いを行ってうまくおさめることである。いつもうまくいくわけではないが,皆がうまくいくよう話合いで解決策を見つけていこうとする。 学校関係,医療関係,市の社会福祉関係といった問題の性格に応じて,ほかにも解決策を見つけ,仲介する役目を持つ人がいる。クレームの性格により対応する組織は違うが,皆同じ方針で取り組んでおり,チームでうまくコーディネートして,チームで解決している。 それ以外にも,権利を侵害された場合に裁判を起したりする機関もあり,障がいのある人が,権利侵害など何らかの問題を抱えている場合,困難の度合いによっては裁判になることもある。なお,政府の中には障がい者委員会,障がい者の権利を考える委員会,子どもの権利を守る委員会があるが,これらは政治的色合いが強い。 (13)地域とのかかわり 学校を出た後,障がいのある人が生きていく上で,障がいのある子どもの両親は必ずどこかの協会に属している。協会の関係組織,ボランティア団体が支援を行っており,両親は子どもが卒業した後も地域の支援ネットワークの中に取り込まれていく。 協会はいわゆる労働組合のようなかたちで,障がいのある人の権利を守り,雇用を代表することも兼ねており,うまくサービスが機能していない,何かを増やしてほしいと要求するときは,協会を通じて障がいのある人の声が学校教育局にあがってくる。 エミリアロマーニャ州では,自閉症の子どもを持つ親の協会が強く,また,ダウン症の子どもを持つ親の協会,交通事故により障がいを持った人の協会など色々あり,定期的に会合を持ち,その声を行政に届ける役割をしている。 (14)院内学校 例えばボローニャ大学の付属病院には,イタリア各地から小児がんと小児白血病の子どもが集まり入院しているが,病院内部に,入院している子どものための学校があり,子どもたちは放射線治療をしながら学校に通っている。 入院して学校生活から離れている子どもよりも,入院しながら院内学校に通う子どもの方が治療の効果が上がっている。 ラファエル検査官がローマの教育省で働いていたときのことだが,バチカンの裏にある病院に入院していた9歳の女の子が描いた絵を先生が持ってきてくれたので,家に飾ってある。絵には小さな血のしみがあり,その子は絵を画きながら死んでいったとのことだった。ラファエル検査官は,最期まで先生が付き添い,絵を描きながら死んでいったその子を誇りに思っている。その子は病気に負け,大人になれず,大学に行くこともできなかったが,お金の無駄ではなかったと思う。市民として倫理的にやるべき事をやり,すばらしいと思っている。 入院せず,放射線治療を受け家で安静にしていなくてはならないような子どもの場合,スカイプで学校とつないだり,クラスの子どもを家に遊びに行かせたりして,できるだけ学校生活を中断させないようにしている。こちらでちょっとした予算を持っており,自宅療養中の子どもに先生を派遣するようなことも行っている。 (15)感想 ラファエル検査官の話は,私たちに勇気を与えるものだった。これが州の学校教育局という公的立場にいる人な発言かと思うと,イタリアのインクルーシブ教育はますます強固なものになるだろうと,大いに期待が持てた。彼は,エミリア州の検査官として,全体の教育の方向性をインクルージョンの方向性に持っていくことを職務とし,個別に保護者と学校当局で,教育の方法やそれぞれが必要としていることに意見の食い違いがあるときも,調整官として,意見調整をしていた。彼の長年の経験とインクルーシブ教育への確信によって,調整の方向性が分離に向かうということは考えられなかった。彼は,私たちが,ボローニャに来る前に,ミラノの特別学校を視察してきたことに痛く落胆し,そこはイタリアの恥だと言わんばかりだった。 唯一彼と私たちと意見が食い違ったのは,人工内耳に対するあまりにも安直な信頼だった。日本ではまだまだ人工内耳に対しては,聴覚障がいの当事者からの反対もあり,また権利条約が手話を言語とし,ろう文化を守る立場を鮮明にしていることからも,安易な装着については疑問が呈されている。ラファエル検査官は最終的には,本人・保護者が決めることだとの前提に立ちつつ,個人的には「聞こえた方がいい」との立場から,人工内耳を積極的に導入すべきであるとの見解を持っていた。この見解についても率直に意見交換できたことは,今回の視察の大きな収穫となった。 またこれだけインクルージョンの理念を確信し,40年の歴史がありながら,やはり今般の国全体の財政状況により,理念通りの展開ができていないことについても率直な意見を聞くことができ,これについては日本のこれからについても共通の問題として参考になった。しかし,どんなに国が貧しくなろうと,人としての尊厳を守るための理念と各現場の工夫は決して後退しないのではないかと思う。財政状況の悪化があれば理念を強固にし,各現場に更なる工夫を求め続けるのではないかと,そう私たちに思わせる自信が彼にあったのである。 3 学校の教育内容を変更する取組の経緯 (1)レクチャー及び質疑の概要 日 時:2014年4月2日午後 場 所:ファエンツァの学校 担当者:クオモ教授,マットゥーニ教員,ルイジさん (2)「知るという喜び」という教育方法の実践について まずクオモ教授とマットゥーニ教員から,30年ほど前から取り組んでいる「知るという喜び」をいかに引き出すかについて,このファエンツァの学校(幼稚園から中学校)で実際に行われた教育実践のビデオを見ながらお話を伺った。 (クオモ教授とマットゥーニ教員の話) 1976年に,イタリアでは統合教育が実践されたが,周囲の国を見ても,まったく前例のないことだった。特別学校の閉鎖により,突然,障がいのある子たちが普通学級に行くことになり,先生たちも,どうしてよいのかわからない状態だった。1976年から80年ぐらいの間は,実験的に,いろいろな取組が行われていた時代だったが,そういう実験的取組を繰り返して,1980年代前半に,いろいろな教育手法が生まれてきた。普通学級の子どもの知性と知的障がいのある子どもの知性とでは,やはり違いがあり,どうやって一緒に教育をするのか,ということを考える必要があり,このプロジェクトは生まれた。そこで,同じ考えを持っていた教師で集まって,クオモ教授に声をかけたところ,ボローニャ大学とのコラボ研究を立ち上げることができた。 やる気のない子どもや,学習することができない子どもに,いくらやるように押しつけても意味がないことはよくわかっていた。そこで,子どもたち自身が授業に参加したいと思えるような工夫をした。例えば,ビデオにあるようなタイムマシンや魔法使いを登場させるということをやった。このような工夫で,子どもたちの興味をひき,子どもたちの学習意欲を引き出すことを試みた。 先生が「先生」として授業をすると,子どもたちが習得しないことでも,先生が,別のキャラクターとして教えると,子どもたちはとても興味を持って授業に取り組む。子どもたちから,「知るという感動」を引き出すためには,先生たちも,従来の教育方法を捨て,新しいキャラクターを演じる必要がある。そのためには,「教えるという情熱」,「教えるという感動」もとても大事になる。  大事なのは,子どもたちが,そこに居やすいと感じる環境を作ること,もう一つは,いくら新しい教育手法を取り入れたとしても,すぐ成果が出ると考えてはいけないということ。 ビデオの中に映っている女の子は,中程度の知的障がいと診断されていた。彼女は,教室に入ることが苦手で,学校にいる半分の時間は,教室に入らず,外に出て,好き勝手なことをしていた。その子に教室にいてもらうことにすると,彼女は,クラスの子どもや,先生までひっぱたいた。 いろいろ話し合いを繰り返し,クラス自体の態度を変えていかなければいけないという結論に至った。私たちは,一つのキーワードを持つことにした。彼女は,周囲の人間をたたくが,それは,「助けてほしい」というメッセージなのだと理解した。彼女との間で,信頼関係を作ることが,まず重要となる。クラスに居たいと思える,居心地のいい場所を作る必要がある。そこで,「指導をする必要はあるけれど,押しつけてはいけない」,ということをキーワードとした。 私たちは,いろいろなことを実践したが,なかなか結果は出なかった。そういう中で,タイムマシンのプロジェクトは,彼女にとっても,他のクラスの子どもたちにとっても非常に意味のあることだと思い,このプロジェクトを始めた(ビデオの中の彼女はとても楽しそうだった。)。ビデオだけを見ると,子どもが遊んでいるように見え,子どもを楽しませるためだけにやっているように見えるかもしれないが,実際には,例えば時間の観念や,地図,また人物描写など様々な教育要素が含まれている。このプロジェクトによって,授業についていけない子どもも授業に参加することができるようになり,また教育カリキュラムも消化することができた。 Q この教育手法は重度の障がいのある子どもにも有効か A 「知る喜び」を引き出す教育手法は,重度の障がいのある子どもたちにも有効である。重度の障がいのある子どもは,クラスの中のほかの子どもたちに助けられることで成長する面が大きい。重度の障がいのある子どもの周りに,その子を助けようとする子どもたちがいるということだけで,成長する要素として十分だと思う。こういった教育に精通した,例えばマットゥーリ先生がいて,何か困ったことがあれば,アドバイスができる,例えば私(クオモ教授)のような人間がいるのであれば,このプロジェクトは,必ずうまくいくはずである。 重度の知的障がいのある子どもが生まれてくる確率は,1万人に1人程度,そのような子どもたちを,一つの教室に集めるということは,いろんなところから集めてきたとしか考えられない。重度の障がいのある子どもについては,一か所に集めて特別に教育するという方法の方がよいと考える人もいて当然だと思うが,大事なのは,障がいのある子どもの親が十分な情報を得て,選択ができる状態にすることである。 Q 一番困難だったケースはどのようなケースか  A 一番難しかったのは,ダウン症かつ自閉症の女の子のケース。学校には来るが,一日中,紙切れを手で持って,ぷらぷらさせているか,外に出てしまうだけだった。補助教員の先生が,ほかの子どもの邪魔にならないように,わざわざ外に連れ出していることもあった。 教育における3つの大切なこと,「自立性」,「社会性」,「学ぶこと」のうち,中でも一番大事なことは社会性だと思うに至った。彼女が勝手に外に出て行ってしまったり,連れ出してしまえば,彼女の社会性についての教育はゼロということになる。それではいけないので,外には行ってはいけないこと,連れ出さないことにした。そもそも自閉症かどうかについても,彼女を外に連れ出して隔離することによる,心理的な要因もあったのではないかと考えた。 障がいのある子どもがクラスの中で何もしないとか,させないとかいうことがないように,クラスの中で固有に何かをさせるということになっているが,それまでは,5分の休憩時間に,彼女と話をする機会が設けられていた。それを,休憩の時間ではなく,授業の冒頭の時間に変更した。つまり,今まで,みんなが授業を終えたあとに付け加えて行っていたものを,授業の頭に持ってきた。 その子は,よだれを垂らす子だったが,クラスに世話好きな女の子がいて,拭きなさいよといってティッシュを渡した。すると,彼女の症状は少しずつ和らいでいった。 自立性の面では,学校に来て,上着を脱いでかけるということは,すぐ覚えた。その後,クラスの子ども,一人ひとりが前に行って,自己紹介をするということをした。子どもたちの中には,彼女の頭をなでたり,さっと身を隠して驚かす(いないいないバァみたいな動作)ということをしたりする子どもが出てきて,彼女は少しずつクラスに溶け込んでいった。 彼女は,学ぶということができなかったが,徐々に,彼女なりに,みんなが筆箱を出したら自分も筆箱を出すとか,みんながノートを広げたら自分もノートを広げたりするようになった。 授業の初めに,彼女に合わせた活動をすることになったわけだが,それは,ほかの子どもにとっても楽しい時間でなければならない。そこで,みんなで音楽をかけて,初めは顔の一部(鼻や眉など),次に肩,そして足と,リズムに乗せて身体を動かすということをした。彼女は,初めは反応しなかったが,少しずつ反応するようになった。すると今度は,「○○さんが,こういう動作をしたから,今度はそれを真似してみよう」ということで,クラスの子どもたちが,その子の動きを真似するようになった。 そのうちに,その子は笑うようになり,クラスでジェスチャーゲームが流行ってきて,その子も,手を挙げて参加するようになった。彼女は,ほとんど言葉を話すことができず,話すときも声が小さくて聞き取れないのだが,彼女がジェスチャーをしているとき,ほかの子が彼女の後ろに隠れて,彼女の代わりに喋って「声」の担当をしたりした。 最初は,本当に,紙をぷらぷらさせているだけの子だったが,2年後には,クラスの人気者になった。 障がいのある子だけが学ぶのではなく,その周りにいる子どもたちが学ぶということが,非常に重要なのだ。  Q 重度の障がいのある子どもたちを分離して特別な教育を行うことと,ここでの教育との,一番大きな違いは何か A みんなと一緒に普通学級で教育を受けることで,先生と友達とともに,自分自身でストーリーを作ることができる。特別学校の子どもたちは,自分のストーリーを作ることができるだろうか。夢や情熱を語ることができるだろうか。特別学校では,治療としてのストーリーはあるが,人間としてのストーリーを引き出すことは難しいのではないか。 (3)ルイジさんのお話 続いて,ルイジ・ファルティネッジさんから,お話を伺った。ルイジさんは,ダウン症の障がいを持つ26才の青年。ボローニャ大学の教育学部に在籍。3才から14才まで,この学校に通っていた。高校は,ホテル関係の高校に通っていた。ボローニャ大学在籍時に,スペインの大学に留学した。この学校でのサポート活動を始めて3年目になる。 イタリアには,ボルサラボールという労働奨励金と呼ばれる制度があって,これは,労働についていない人に対して,就労支援をするために,わずかなお金を支給し,労働に就くための支援を行うというもの。彼は,この制度を利用して,小学校での授業のサポートに従事している。例えば,紙芝居を作ったりしている。 ルイジさんは,自分で作った紙芝居を使いながら,自分の生い立ちとダウン症という障がいがどのようなものなのかについて,分かりやすく話してくれた。 そして彼は以下のように話した。 「僕は,この学校で過ごした間に,『根』の部分を作り,今は『実』を付けているところです。僕は,この学校で子どもたちのサポートをしているのですが,この仕事がとても好きです。」 「色々やりたいことはあったけれど,自分が一番好きなのは,子どもや先生と一緒にいることなので,教育関係の仕事をしたいと思っています。だから,今の大学に進学しましたし,これからも努力を続けていきたいと思います。」 「最後に1つだけ言わせて下さい。子どもはみんな知性を持っています。知性を身に付けることもできます。できない子どもに,「できない」というレッテルを貼るのではなく,その子どもたちに刺激を与えて,「知る喜び」を教える,ということを,先生たちは目標にしなければならないと思います。ご両親も,障がいのある子どもが生まれたとしても,その子どもは知性を持っているし,その知性を伸ばすことができる,ということを理解して欲しい。これが僕からのメッセージです。」 (4)感想  インクルージョンがまさに自由・平等と並ぶ崇高な理念であり,それを実現するために何をどのようにするべきか,人々の不断の努力が問われていることを,素直に私たちにわからせてくれた。崇高な理念に基づきシステムを替えたが,現場はどうしていいか分からなかったこと,そのためには理念を実践するための創意工夫が必要であり,教師らの情熱なくしては実現できなかった。正直言って30年前の実践ビデオを見せられても,これが日本でできるだろうかとの躊躇いが先に立ち,懐疑的になってしまったのであるが,しかしクオモ教授とそれを教育現場で実践してきた先生方の話は,悩み迷いつつ,分離教育からいかに脱却してきたかの過程がリアルに語られ,説得力のあるものだった。教育にとって一番大切なことは社会性を身に着けること,この確信に立ち,隔離・排除せずに粘り強く取組み続け,どんなに重度な障がいがあろうと,重度の障がいのある子どもの周りにこれを助けようとする子どもたちがいるだけで成長の要素は十分だとの確信を現実に具体化し,各教室で実践してきたのである。これらの教育実践があったからこそ,インクルージョンが理念に終わらず,個人の人生を変えるものとして,また社会の在り様も変えてきたのだということを思い知らされた。  日本はようやくインクルーシブ教育の理念を受け入れたのであるが,これを教育現場で実践するには,まだまだ大きな困難が待ち受けている。 4 教育現場の視察内容 視察最終日は終日,教育現場の視察を行った。ボローニャで,幼稚園から中学校までカバーする一つの学区を訪問し,最初に全員で学区長より概要説明を受けてから,視察メンバーを2組に分けて,午前午後と,幼稚園,小学校,中学校を回った。 特別学校だけは,教育視察初日にミラノで視察を行った。 (1)学区責任者からのヒアリング a 視察概要 日 時:2014年4月4日午前 場 所:ラベンナ県ファエンツァ市カルキーディオ・ストロッキ校区 対応者:マリア・サラゴーニ学区長 b ファエンツァ学区の全容について 対象児童は3〜14歳までで,幼稚園から中学校までが学区の対象となる。 幼稚園の対象は3歳から5歳までで,2つの幼稚園で10クラスある。 小学校は6歳から11歳までが対象で,2つの小学校で33クラスある。 中学校は12歳から14歳までが対象で,2つの中学校で18のクラスがある。 全体で1400人が在籍しており,2013年度の障がいのある子どもは幼稚園に2人,小学校に8人,中学校に14人,合計24名である。障がいの認定を受けた児童については,クラス担任以外に補助教員がつく。基本的に補助教員は2人の障がいをもった児童に1人とされているが,重度の障がいをもった児童については,さらにエデュケーターという支援要員がつく。補助教員は国,エデュケーターは市から予算がつく。 今回視察したカルキーディオ・ストロッキ校区は,ラベンナ県ファエンツァ市の4つある校区(正確には,4つの校区と,私立学校が1つある)の一つで,カルキーディオ・ストロッキ区全体では,幼稚園・小学校・中学校が2つずつある。 そのうち,ストロッキ中学校とカルキーディオ小学校は同じ敷地内に隣接していることから,まとめてストロッキ・カルディーオと呼ばれることがある。今回,視察するのは主としてこのストロッキ・カルディ−オである。 c 現状における問題点 ア クラスの規模 規則上は障がいのある子どもがいる場合にはクラスを小さくするべきであるが,実際,近年は予算的に難しく,障がいのある子どもがいても,幼稚園28人/クラス,小学校25人/クラス,中学校28人/クラスというのが現状である。本来であれば,障がいのある子どもがいないクラスの定員は25名,障がいのある子どもがいる場合,特に重度障がいをもった児童がいる場合には19名定員が基準だが,必ずしも守られていない。 イ 補助教員 現在働いている補助教員は13人である。しかし,毎年人が変わる上に,いろいろな学校に派遣して補助教員を補っており一つの学校・教室に固定的に配置されるわけではないために,クラスの現状を把握していない人が来ることで問題も生じている。 (2)幼稚園 a 視察概要 日 時:2014年4月4日 対応者:補助教員ルジア・カルチオッフィ氏(LUGIA CARCIOFFI) b 訪問先概要 クラス6つ。教員12人,補助教員1人。 開園は,月曜から金曜までで,1週間40時間。 1クラス担任が2名で,午前午後で変わる。昼食の時間だけ担任が2人体制になる。 補助教員は1週間25時間契約で,訪問した保育園には10時間/週勤務しており,他の幼稚園に15時間/週行っている。補助教員がいない時間を補うために,エデュケーターが10時間/週配属されている。 c 視察内容 視察先の幼稚園では,知的・言語障がいのある女児(エレーネ)のいるクラスを見学するとともに,実際にどのような取組がされているかについて,補助教員から話を聞いた。 (写真挿入) 幼稚園の教室で15名ほどの児童が、弁護士らの自己紹介を聞いている様子。皆、顔を弁護士らの方に向けており、ほとんどは椅子に座っているが2名は立っている。髪の色や肌の色はさまざまである。手前左手に一人だけよだれかけをして座っているいる障がいのある子ども(エレーネ)などを写した写真が挿入されている。 ア 個別プログラムの作成 障がいのある子どもが入園してきた際には,担任が作るクラスのプログラムとは別に,障がいのある子どものためのプログラムが組まれる。そのプログラムの作成は補助教員によってコーディネートされる。 プログラムの作成前には観察期間を置き,何が一人でできるのか,人間関係,コミュニケーション能力,知覚能力などを把握する。その上で,その子どもの目標を決め,保育園の3年間を通じて,自立性を高める計画が立てられる。このプログラムの作成には,親のサインが必要とされ,プログラム作成には親も関与する。  例えば,エレーネの場合には,右側の筋肉が縮小しているので,ミニカーで遊んで右側を伸ばすようなプログラムが取り入れられているということであった。 イ 関係者間の連携 障がいのある子どもの教育において最も重要なことの一つは,医師,親,先生など,その子どもに関わっている関係者が話し合いの場を作ることである。話合いは,特に何もなければ,3回,経過観察後の9月と,1月と6月に行われる。それ以外でも,問題が起きれば,その都度話し合いが行われ,親は話し合いの場に来なければいけない。  例えば,エレーネの場合,6月と9月に小児神経科の医者とエレーネの状況を共有しており,エレーネの言語・動作の遅れについては,地域医療公社がフォローアップするという協力体制がとられている。また,子どもの親が集まるときに,子どもがエレーネに対する好奇心を示したときには,先生に伝えてほしいと親たちに伝え,エレーネに対する他の親への説明も,教員から行っている。 ウ 障がいのある子どもがクラスに与える影響 エレーネのいるクラスは男児が多くてうるさいクラスで,わんぱくな子どもが多い。しかし,エレーネがいることで,みんな気を付けないといけないと自覚し,他の児童の集中力が養われている。というのも,他の子どもも,エレーネが動作が遅いことは認識しており,自分が気を付けていないと,ぶつかった際などにエレーネにけがをさせてしまうことを認識しているからである。 エレーネが涎をよく垂らすので,汚い,遊びたくないという子どもがいたが,そのような際には,教員から,「つばも水からできている」と説明するなど,他の子どもの理解を深め,エレーネが孤立することのないよう配慮している。  2年前はダウン症の子どもがおり,課外の時間を作った。絶対参加ではなかったにもかかわらず,15家族が参加し,買い物や,ジュースを買って飲むというような課外活動を行った。 (3)小学校 (写真挿入) 皆と一緒の教室の中で,障がいのある子ども(アレッソ)が,他の子どもとは別の課題に取り組んでいる様子。隣に補助教員が座っており,子どもと補助教員2人の場面などを写した写真と皆と一緒の教室の中で,隅の席で,障がいのある子ども(アレッソ)が,他の子どもとは別の課題に取り組んでいる様子。隣に補助教員が座っている。周囲の子ども達も写っている場面などを写した写真が挿入されている。 a 視察概要 日 時:2014年4月4日 対応者:マリア・サラゴーニ学区長 b 視察内容 ア 普通学級 見学したクラスは25名程度のクラスであり,その中に,障がいのある生徒としてアレッソ(男児)がいた。アレッソには,専属で補助教員が付いていて,他の生徒と同じクラスで終日勉強している。 見学した際,そのクラスではイタリア語の授業が行われていたが,アレッソは,サルが食事をする絵を順番に並べて,ノートに貼る作業をしており,その作業を通して順番を覚える練習をしていた。授業の途中までしか見られなかったが,アレッソの何らかの発表の時間があるはずだったことは,午後の授業を見ることでわかった。 午後の授業でもアレッソのそばには補助教員がいて,別のメニューをしていたが,授業の終わりころ,それぞれの発表の時間には,アレッソも前に出て,自分の作品を誇らしげに発表していた。 イ 個別対応ルーム この部屋には,重度障がいのある生徒とその生徒を担当する教員2名(1名は補助教員)及びセネガル出身の生徒とその生徒の担当教員の5名が在室していた。セネガル出身の生徒は移民であり,イタリア語が理解できないため授業についていけないとのことで,専属の担当教員により個別指導を受けているとのことであった。 この個別対応ルームにおいては,主として重度障がいのある生徒であるベンジャミン(男児,小学校1年生(6歳))への学校側の対応について,ヒアリングを行った。 (写真挿入) 重度の障がいがあるため,教室とは別の個別対応ルームで,布団の上に横たわって休んでいる子ども(ベンジャミン)の様子を写した写真が挿入されている。 @ 障がいの状況 小頭症であり,呼吸をすることも困難である。腹部にチューブが設置されており,食事はそのチューブからとっている。 最長でも1日1時間程度しか他の生徒と同じ教室で授業を受けられない。それ以外の時間は,ほとんどが個別対応ルームで休んでいる状態である。見学した際も,個別対応ルームのベッドで横になり,休んでいる状態だった。 A 教育体制 ベンジャミンには,教育担当教員と補助教員の2名が付いている。ベンジャミンに対するカリキュラムは,この2名の教員が協議して作成している。 なお,教育担当教員の費用は市が負担し,補助教員の費用は国が負担している。 B 学校生活 ベンジャミンは,障がいのない生徒と同じクラスに所属している。しかし,体調との関係で,ベンジャミンは長くても1日1時間程度しか教室にいられないので,毎週水曜日には,コミュニケーションの時間を作っている。この時間には,クラスメイトと一緒に歌を歌ったり,本を読んだり,絵を描いたり,マッサージをしたりする。また,コミュニケーションの時間以外でも,クラスメイトが個別対応ルームにいるベンジャミンに会いに来る。その際には,クラスメイトがベンジャミンに対して,自分達が描いた絵をプレゼントすることもある。 クラスメイトは,ベンジャミンが実際見えているのか聞こえているのかはわからないが,ベンジャミンは肌に触れると,触れられたことがわかる,ということは理解している。ベンジャミンにとっては,このような学校に来て,学校生活を送ることが大切な時間となっている。 C 教員による個別対応 ベンジャミンは,学校内で動くことが好きなので,本人が希望すれば,車いす(又は乳母車)に乗せて校内を散策させることがある。 また,ベンジャミンが教室内でいる時に,クラスメイトが休み時間に動き回ると,怖がることがあるので,その場合には,ベンジャミンを外に出すこともある。 D 重度の障がいのある生徒の受入体勢 この学校では,1年に1人は重度の障がいのある生徒が入ってくる。そのため,その生徒の健康状態や体調に対応できるような部屋が用意されている。この部屋には,必要に応じて様々な機材が配置されることになっている。重度の障がいのある生徒は,常時,障がいのない生徒と同じクラスに所属している。しかし,その生徒の障がいの重症度により,そのクラスにいられる時間は異なる。イタリアでも,1960年代では,重度の障がいのある子は家庭内に残されたままになっていた。 E 通学方法 ベンジャミンの場合,入学したばかりなので母親が他の人に任せることを不安に思い,両親が送迎しているとのことである。しかし,送迎するか否かは両親が選択することができ,両親が送迎しないことを選択すれば,市が送迎を行うことになる。この場合,送迎にかかる費用は公費でまかなわれる。 (4)中学校 (写真挿入) 障がいのある子ども(ステファーニャとマルゲリータ)が、教師、他の子ども2名と、クッキングラボでフルーツの串刺しを作っている様子。作ったフルーツはクラスで他の生徒に配ってある様子などを写した写真が挿入されている。 a 視察概要 日 時:2014年4月4日午前 b 視察内容 ア クッキングラボの見学(フルーツの串刺し) 視察の時間帯は2人の障がいのある生徒,ステファーニャ(中3女子,ダウン症),マルゲリータ(中1女子,聴覚障がい,弱視,簡単な手話と唇を使って表現する)が,フルーツの串刺しを作っていた。毎週火曜日にクッキングラボで作業を行い,1学期はクッキーやパスタを作り,2学期はフルーツをテーマとして洗う,皮をむく,切ることを学んでいる。クラスの友人が一緒に手伝ってくれており,作ったものはクラスの友人に配る。彼らはそれぞれ原学級を持ち,授業内容が異なる場合でも,必ずクラスメイトに彼らの姿が見えるよう,配慮されている。 イ マルゲリータの日記発表(パソコン教室) (写真挿入) 障がいのある子ども(マルゲリータ)が、パソコン教室のクラスで、他の子どもたちの前で、日記の発表をしている様子。マルゲリータは、聴覚障がいと弱視のため、簡単な手話と絵、唇を用いて発表を行った様子を写した写真が挿入されている。 視察の時間帯は,それぞれ科目別の授業が行われ,マルゲリータのクラスはパソコン教室で情報産業の授業を受けていた生徒と,教室で歴史の授業を受けていた生徒に分かれていたようである。マルゲリータは,フルーツの串刺しが終わると,自分のクラスメイトがいるパソコン教室に行き,みんなの前で,彼女の日記を発表した。マルゲリータは学校から帰ると,毎日復習し,その日に見たこと,したことの日記を書き,翌日,クラスで発表をしている。 マルゲリータの日記の発表は,簡単な手話と絵,唇を用いて行われた。 パソコン教室では,パソコンの授業を中断し,マルゲリータの発表を楽しそうに聞いた。教師が,「マルゲリータの発表はどうでしたか?」と尋ねると,クラスメイトが手話(手振り)で「よくできた」と表現した。親しい友達や教師は,マルゲリータと同じ表現方法を使ってコミュニケーションを取れるとのことである。 ウ マルゲリータの日記発表(原学級) パソコン教室での発表が終わると,マルゲリータは自分のクラスに戻り,自分の席に着いた。ここが日本でいう「原学級」にあたると思われたが,22名のクラスである。クラスでは,歴史の授業をしており,授業が終わるころ,彼女は,自分が作ったフルーツの串刺しをみんなに配った。その時もマルゲリータだけが配っているのではなく,クラスメイトも手伝った。その後,彼女は自分の日記とさっきまでやっていたクッキングについて,みんなの前で発表した。クラスのみんながマルゲリータを温かく受け入れている様子は明らかだった。 クラスメイトに私たちからも質問した。生徒らは「マルゲリータは友達。」,「別の言葉を話しているから最初は話すのが難しかったけれど,最初だけ。マルゲリータが私たちに教えてくれた。」,「休み時間,マルゲリータは皆の中心にいる。一緒に遊び,冗談を言ったりしている。」等と口々に言っていた。教師も,「マルゲリータにとっても友達,皆の手助けが必要。ボトルを開けることも困難。皆がそれをカバーしてくれる。学校に来ても外に出るときも,いつも友人と一緒。」と述べていた。 クラスのみんなとの交流が盛り上がり,クラスメイトから日本語を教えてくれとの声が上がり,視覚障がいのある田中伸明弁護士がホワイトボードに「みんなのことが大好きです。」と書いて意味を説明し,拍手喝采され,生徒らも口々に発音した。 エ ステファーニャのクラス(ピザ) マルゲリータのクラスで長居をしてしまったため,ステファーニャのクラスに行く時間がなくなってしまった。でも彼女も私たちをどうしても案内したいということで彼女の先導で連れて行かれたのが,彼女がピザを焼いた教室だった。時間の都合で少ししか見学することができず,彼女に申し訳ないことをしたと思う。 (5)特別学校(ミラノ) a 視察概要 日 時:2014年4月2日午前 場 所:パオラ・ラリッサピーニ特別学校(ミラノ) 対応者:同学校の校長 アンナ・ゾッピ氏 b 同校の概略 同校は,2つの小学校,1つの特別学校,1つの中学校という4つの学校からなる総合学校である。小学校には計800人,特別学校には76名,中学校には500人の児童生徒が在籍する。 総合学校といっても,同校は,校長は共通であるものの,4つの学校はそれぞれ200メートルほど離れた場所の別々の敷地にあり,教師もそれぞれ別の教師が在職している。 現在,特別学校に在籍するのは,座ることのできない子どもや一日に何度も痙攣を起こす子ども,重複障がいのある子どもなど,障がいの程度が重い子どもたちばかりで,皆障害者手帳を持っている。他方,2つの小学校には計37人,中学校には32人の障害者手帳を持つ子どもがいるが,小学校には,その他にも,学習障がいなど,手帳を持たないが障がいのある子どもが約20%いる。普通学校を見学すれば,障がいのある子どもたちがいかに周囲に溶け込んでいるか,見てもらえると思う。 ミラノ市内の特別学校には,ここともう1校私立の学校があるが,学費が高いこともあり,ここにはミラノ中及びミラノ郊外からも子どもたちが集まってくる。ここにいる子どもたちは障がいが重いので,通学バスで通学している。 特別学校に通わせるか,普通学校に通わせるかは,小児科精神科医などの専門家と相談した上,最終的には保護者が決めることになるが,定員があるため,保護者が希望しても入れないことがある。その場合には,待機リストに載り,空きができるのを待っている間,普通学校に通うことになる。ただ,重度の障がいのある子どもを普通学校では対応できないので,1日のうち1?2時間だけ行ったりということをしている。これとは逆に,保護者が希望しないのに特別学校に措置されるということは絶対にない。 小学校も中学校も特別学校も給食があり,障がいのある子ども,咀嚼に問題のある子どもなど,必要に応じて別メニューを給食センターが用意している。 総合学校には,6歳から14歳の子どもたちが在籍しているが,特別学校では,小学校の1学年の過程をそれぞれ2年間かけて学んでいくため,6歳から16歳まで在籍することになる。特別学校の子どもたちについては,16歳以降特別学校を卒業した後のことを考えて,料理など,小中学校の子どもたちと一緒に行う授業もある。また,イタリアでは,中学校ごとに,校長の裁量で,音楽に力を入れるなどできるので,この総合学校では,特別学校と中学校の児童生徒が,音楽を通しての交流もはかっている。 障がい認定された子どもが入学すると県から予算がつくが,この予算は,子ども自身にというより,コンピュータや通学バスなどに使われている。また,市は,食事介助,着替介助など,人員にかかる費用を出してくれている。 ここに来ている子どもたちは,普通学校に行くのが困難な子どもたちであるが,校長自身の考え方,目標として,普通学校で一緒に学ばせたいという思いは持っている。 c 視察の内容 校長先生から,同校の概略などについてお話を伺った後,校内を案内していただいた。 同校では,1階は比較的障がいの程度の軽い子どもたちが学ぶ教室,2階は障がいの程度が重い子どもたちが学ぶ教室になっていた。 障がいの程度が軽い子どもたちのクラスには4〜5人程度ずつ,障がいの程度の重い子どもたちのクラスには2人ずつの子どもたちがいて,各教室それぞれ2〜3人の教師が授業を行っていた。教師たちは,子どもを自分の膝に乗せて,文字を教えるなど,授業風景はどこの教室も温かく手厚いものであった。 (6)感想 教育現場の視察として,私たちはインクルーシブ教育の歴史のあるボローニャを選び,ファエンツァの幼稚園から中学校を,2班に分けて午前午後と可能な限り視察をした。そこで出会った一人一人の障がいのある子どもたちはクラスの一員として大切にされ,学校,教員,友人らに温かく囲まれていた。どんなに重度であっても,1日1時間しかクラスに参加できなくても,そのほとんどの時間を個別対応ルームのベッドの中で過ごしていても,クラスの生徒らは,彼は自分たちの友人であることを意識し,仲間であることを忘れないし,学校も教師らも決して忘れさせないよう工夫している。共に学ぶための授業の工夫をし,それができないときは補助教員をつけてクラスの片隅で別の授業をしていても,彼らは自分の学習をクラスの仲間に紹介し,一時であってもクラスの中心におかれる時間が保障されている。そしてクラスの友達は障がいのある子どもが中心となる時間を,決して厭うことなく,共に喜び楽しんでいる。一見すると,クラス別の別学,あるいは同一教室内での分離教育かと思える場面もあったが,別学にしても必ず戻し,しかも彼らを中心に据える時間帯を作ることで,別学の疎外感を見事に克服しているように見えた。  日本はこうはいかない。同一授業の工夫もないし,別学は分離を意味し,別学からの統合は難しい。とくに知的能力の異なり,それが授業の理解度につながってしまう高学年の授業をどのようにしているのか,その答えを見たように思う。別学してもクラスの中心に障がいのある子どもがいる学校−それがファエンツァの学校だったと思う。 (写真挿入) 教室で補助教員が付いて別の課題に取り組んでいた障がいのある子ども(アレッソ)が,給食の時間に,他の子ども達と一緒に楽しそうに給食を食べている様子を写した写真が挿入されている。 私たちは,イタリアがインクルーシブ教育を推進し,特別学校は全廃されているとの情報がある一方で,一部にまだ特別学校が残っていることを知った。そこで今回の視察では,特別支援教育の歴史の長い日本からすると是非とも見ておきたい学校だった。朝,視察のために学校に着いた時,次から次に来るバスから降りてくる障がいのある子どもたちのバス通学の風景に始まり,学校及び教室内の内容はおおむね日本の特別支援学校と変わらなかった。どこの国でも,障がいのある子どもを一つの学校に集めようとしたら遠距離通学になるのだし,各クラスは少人数になる。そして遠くても「手厚い」教育を求めたくなる保護者はいる。日本と違うのは,そこは決して強制される学校ではないこと,保護者の希望によって入る学校であるということと,そこでの教育は障がいのある子どもの教育として主流ではないということを学校も認識しているということである。本来は地域の学校が望ましい,ということを,少なくとも建前上は認めざるを得ないのである。この点が日本とは格段に違うことが分かっただけでも,イタリアにおける特別学校を視察してよかったと思う。 5 まとめ−障がいのある子どもの親の会の方からのインタビューを踏まえ イタリアはインクルーシブ教育の40年の歴史を持つ。日本からその経緯を長年見てきたものとすると,その差は大きく,何とも遠い国の出来事のように思ってきた。 しかし今回初めてイタリアを視察し,その歴史を踏まえても,日本とさほど違わない点もあることが分かった。そのことを強く思わされたのは,ボローニャ大学で障がいのある子どもの親の会の方からご意見を伺った時だ。  インクルーシブ教育が制度上保障されていても,障がいのある人に対する差別は厳然とある。親の会の方から聞かされた差別の内容は,日本で我々が聞かされる内容とほとんど同じである。すなわち,差別の内容として,教師が障がいを理解していないことによって不利益を与えられたこと,また20年くらい前の話になるが,と断りを入れてはいたが,授業の邪魔になるからと外に出されたり,遠足に連れて行ってもらえなかったり,中学校に入学するときに,その子どもがいるから,この学校には入りたくないとか,この子どもがいるから他のクラスにして欲しいといわれたりしたことを挙げた。そしてこれは今でも完全によくなっているわけではないことも指摘された。 さらに,学校で必要とした支援を受けられない場合,支援が不足したことによる賠償と,支援が不足したことによりその子どもの存在を否定されたことについての賠償も求めることになるということだが,補助教員の存在が法的に保障されてはいるが,補助教員の時間数が不足し,裁判に訴えざるを得ないということである。 40年のインクルーシブ教育の実践が,人々の心に巣食う差別意識を完全に払拭することはできていないし,また社会が負担するべき支援も十分ではなく,削減されやすい。 親の会の方は,今までに一番うれしかったことは,子どもが,仕事をしながら一人暮らしをしていて,お付き合いしている相手もいること。今のままであれば,私がいなくても,大丈夫だろうと思えること。社会の重要な一員であり,社会に参加していることだと言い,つらかったことは,子どもに障がいがあるとわかったときは,一日泣き続け,その後から,彼のために何ができるのか,と考え,これからは泣くことはやめようと思った,と言う。 差別の現状は今の日本と全く同じであり,また子を思う親の気持ちも同じである。  さらに言えば,ボローニャでの素晴らしい教育実践の数々も,実は日本でも関西を中心に,共生教育として取り組まれ,ほぼ同じ内容の教育実践は報告されている。関西では,1960年代から,部落の子どもたちへの反差別・人権教育が教師らを中心に熱心に取り組まれ,その一環として,1970年代からは,障がいのある子どもも地域の学校で,障がいのない子どもと共に教育を受ける共生教育が実践されてきたのである。  それにもかかわらず決定的に違う点がある。それはとりもなおさず,イタリアはインクルーシブ教育を法的・制度的に保障していることである。社会全体が理念としてのインクルージョンを受け入れ,その実現のために努力することを法的に鮮明にしているということである。制度的保障をしていても根深い差別はなくならないのであり,それがないところでは,差別の解消は至難である。日本の共生教育は,一部の熱心な教師と学校の取組によって,いわばもぐりとして実践されてきたのであり,決して社会全体の共通の認識になっていなかった。よって,熱心な先生が転勤すればその実践は立ち消えてしまい,継承すら保障されていなかったのである。  今回,ようやく差別解消法の成立と権利条約の批准によって,障がいを理由とする差別の禁止とインクルーシブ教育が日本の法的規範として認められたのである。ただし制度としてのインクルーシブ教育はまだ実現していない。イタリアが1976年,インクルーシブ教育に転換したことは,「スイッチをひねったように」といわれるくらい思い切った改革だったのであるが,日本は未だその制度化さえされていない。遅きに失するのであり,インクルーシブ教育の制度的保障は喫緊の課題であることを強く思わされた視察であった。 W 精神 1 イタリア精神科病院の歴史と概要 (1)イタリアの精神保健制度の歴史 イタリア共和国は,病床を伴う精神科病院をもたないことで知られているが,これは,1978年に成立した法律180号(通称バザーリア法)に基づく精神保健改革による。 法律180号が実施されるまでは,イタリアの精神医療制度は日本にも劣らないような強権的なものであった。 まず,1904年に「精神病院及び精神障害者に関する規定ならびに規則」という精神障がいのある人に対する初めての法律が公布された。この法律は,社会秩序を守る法律として,いわゆる危険な精神障がいのある人から社会を守る必要性を打ち出しており,「治療」より「収容」が優先された。法律上,「何らかの原因により,精神病に侵され,自他いずれにも危険であり,公序良俗を紊す(みだす)者は,収容し治療しなければならない」(法律36号)として,精神科病院へ強制収容することが可能とされていた。その精神障がいのある人の収容などの手続については,県が管理し,各県に1つの精神科病院設置が義務付けられた。 法律36号下での,強制入院の手続は以下であった。入院は,医師の証明書と警察署長命令によって行われた。入院後は,精神科病院長が15日以内(観察期間)に検事宛に報告書を送らなければならず,30日以内に退院又は最終入院の判断がなされ,最終入院とされると禁治産宣告を受け,公民権は剥奪され,後見人が任命された。そして,基本的に精神科病院から出ることはできず,一時的にでも停止されるときは,治癒証明書が必要で,しかも,家族が裁判所の許可を得て「引き取る」のではない限り,病院長の直接責任として実施せざるを得なかった。 1968年までは,このような手順で入院が進められ,同年に成立した法律431号(通称マオリティ法)によって,ようやく任意入院が法定化され,あらかじめ患者の同意を確認した上で,強制入院から任意入院へ切替えも可能とされることになった。法律431号は,精神科病院を総合病院と同等に扱うことを目的として,精神科病院の組織改革を定め,精神科病院外での予防やアフターケア活動も定められた。今やイタリア全土で精神保健の中枢を担っている地域精神保健センターが設置されたのも,この法律による。 そして,1978年5月13日に法律180号「任意及び措置検診と治療に関する規定」(通称バザーリア法)が成立した(同法は,その後「国民保健サービス法」(1978年12月23日付833号)に組み込まれた)。 この法律は,「医療(精神科病院含む)の根幹は,治療を受け健康を回復するための人間の権利であって,危険性の判定ではない」と規定し,さらに,精神科病院を閉鎖するという革命的なものであった。法律成立過程においては多数の反対派がいたが,フランコ・バザーリア医師(当時トリエステの精神科病院院長)という強力なリーダーが,「精神科病院によらずに患者を支えることは可能であり,精神科病院よりも効果的な手段(地域精神保健サービス)がある」ことを訴え,結果的に国会で法案が通ることとなった。 法律180号の内容は,精神科病院の新設の禁止,既にある精神科病院への新規入院の禁止,1980年以降の再入院の禁止であり,また,予防・医療・福祉は原則として地域保健サービスで行うこととされた。この結果,法律施行後,数年間は経過的に精神科病院が存続したが,1999年3月,保健省は,イタリア全土での精神科病院閉鎖達成を宣言した。 (2)制度改革の歴史−バザーリア医師の関わり (写真挿入) イタリア精神保健改革の立役者であるフランコ・バザーリア医師の肖像写真。トリエステ精神保健局には、イタリア精神保健制度改革に関する歴史を展示した一室があり、そこに展示されていた写真のひとつが挿入されている。 イタリア精神保健改革の立役者であるフランコ・バザーリア(1980年他界)は,1924年に生まれた。パドヴァ大学医学部に進学し,1952年に神経精神医学コースに進み,社会学者の妻フランコ(2005年他界)と結婚した。生物学的精神医学よりもサルトルやフッサールなどの現象学,実存哲学に関心が強く,医師免許取得後は,パドヴァ大学で講師を務めていた。そうした発想に批判的な教授から,実践現場に関与することを求められ,1961年にゴリツィア(トリエステから,スロヴェニアの国境に沿って数十キロ北上した位置にある都市)にある県立精神科病院院長に就任した。 バザーリアが院長に就任した時,県立ゴリツィア精神科病院には,約800人の入院患者がいたが,バザーリアは,家族と縁が切れている人には住居を用意し,入院患者を退院させ,5年間で入院患者を約300人にまで減らした。残った人の約200人は老人で,うち半分はケアが必要で退院できない人,ほか半分は退院したがらない人であった。それ以外の約100人は老人ではないが,退院したがらないか,又は住むところのない人だった。 バザーリアは,残った人のうち医療の必要がない人に「オスピテ(お客様の意味)」という呼称を付けて完全な自由と食・住居を保障し,入院者と区別した。「鉄格子や鉄の扉の奥に押し込めることを正当化するような精神状態など本来ない。精神病者のときおりの暴力は『結果』である。」「精神科病院などやめて人間的存在たりうる温かい状況に置くことができれば,精神病者の暴力などなくなる。」と考え,次々と実践していった。 そして,同志の医師を集め,精神科病院内部の写真を公表したり,ドキュメンタリー番組を制作したりして,社会的注目を集めた。ところが,ある入院患者が外泊で自宅に戻った際に妻を殺してしまうという痛ましい事件が起き,病院責任のためにバザーリアも逮捕されることになった。バザーリア自身の刑事責任としては無罪にはなったが,それまでの強かった反発がさらに増し,1969年,バザーリアはゴリツィアを追われることになった。 その後,バザーリアは,アメリカの精神保健事情を調査した。アメリカでは,たしかに巨大精神科病院が崩壊していたが,代わりに生まれたナーシングホームやハーフウェーハホームは,バザーリアにとっては,小規模の精神科病院のように感じられた。 1971年,トリエステ県の知事ミケーレ・ザネッティ(当時30歳)に誘われ,バザーリアはトリエステにある「サン・ジョバンニ精神科病院」院長に就任した。院長就任後,バザーリアは,「作業療法」なる無賃労働を止めさせ,仕事作りのための社会的協同組合を作った。約60人の入院患者を組合員にして,病院,厨房,公園の清掃に従事する「統一労働者協同組合」を組織し,全ての入院患者(労働者)に正規の労働組合契約を締結する機会を認めた。バザーリアに共感した若い医師たちが,バザーリアに師事して集まってきた。 そうして,1973年2月25日,入院者約400人を先頭に,若者など約1000人が青い張り子の馬を引いて「外で暮らしたい」と町を練り歩いた。精神科病院がもう収容所ではないことを市民に印象付ける歴史的イベントだった。この青い張り子の馬は,今もトリエステ精神保健局の一角に保管されている。 そして,WHOがトリエステを精神保健サービス事業のパイロット地区に指定するなどを経て,1980年にサン・ジョバンニ精神科病院は完全に機能を停止した。 (写真挿入) トリエステ精神保健局の一角に保管されている「青い張り子の馬」の像のひとつ。トリエステ精神保健局には、このほかにも精神保健改革の象徴ともいえる大小さまざまな「青い馬」が展示・保管されている様子を写した写真が挿入されている。 (3)法律180号に基づく精神保健医療 法律180号によれば,大前提として,「治療」とは,通常任意のものであって,予防やリハビリテーションと同じく,病院以外の地域活動拠点や施設で行われるべきであるとされた。従来の,社会秩序維持からの観点ではなく,患者主体の観点から治療が捉えられることになった。 また,相当程度強制力のある治療が必要な場合は否定できないとしても,それは,極めて限定的な運用によってされることが条件とされた。すなわち,緊急の治療介入を要する精神の急変が生じ,どのような試みも効果を生まず,患者の治療拒否が続くような場合に限っては,「措置治療(TSO)」を求めることができる。ただ,TSOの実施場所は,地域内の精神保健施設や患者の自宅でもよく,入院が必要な場合は総合病院の精神科診療サービス(SPDC)にて行われる,とされている。 TSOの手続については,任意の観点から厳格に定められている。TSOを開始するにあたっては,医師が,その理由を明らかにした上で提案し,別の公的機関の医師の承認を経て,市長のもとへ送られる。市長は,必要に応じてTSO開始許可命令を出し,後見裁判官に通知される。さらに,期間も限定的で,1週間経過してもTSOを継続しなければならない場合は,改めて医師が理由を明らかにしなければならないとされている。 このように,常に治療とは任意のものであるという前提のもとに,どの段階においても,治療については患者の同意を取り付けるあらゆる努力をしなければならないとされている。その観点から,患者には,自由な意思伝達の権利・措置に対する不服申立を行う権利も保障されている。 法律180号の成立後,まずトリエステにあった精神科病院が解体され,次々と全土の精神科病院が解体されていった。そして,精神保健サービスの担い手は,入院施設から,地域の精神保健サービス機関へと移行していった。 そして,精神障がいのある人が罪を犯した場合,司法精神科病院へ収容されるが,司法精神科病院入院患者は,精神科病院が廃止された後も約1000人で変わらなかった。このことは,精神科病院を出た人たちは,罪を犯す危険な人ではなかったということを示している。 さらに,イタリアでは全土6カ所ある司法精神科病院を廃止する内容の法律が2012年3月に成立した。現在は司法精神科病院も活動を続けているが,今後,精神科医療と犯罪の関係についてどのような取組がなされるか,非常に注目される。 (4)イタリアの精神保健サービス イタリアでは,1990年までは,医療扶助料は無料とされていた。その後,自己負担による一部支払制度が導入されたが,基本的には今も無料である(患者本人が有料医療を望む場合を除く)。イタリアの年間医療費は約670億ユーロ(2004年当時(「トリエステ精神保健サービスガイド」より))で,その5%(約35ユーロ)を精神保健費に充当するのが適当とされている。 イタリアの精神保健サービスの組織的概要について図で示すと以下のようになる。 国:公衆衛生省 州:公衆衛生局 Assessorato Sanita 地方自治体:公衆衛生局 Azienda Sanitaria Locale(ASL) 地方自治体:精神保健部 Dipartimento di Salute Mentale(DSM) 国の機関である公衆衛生省をトップに,州ないし地方自治体が精神保健サービスを担う。実際に業務を行うのは,独立行政法人としての地方公衆衛生局(ASL)の管轄下にある地方自治体の精神保健部である。 【表の挿入】 精神保健部の下に、地域保健サービス、治療共同体、精神科病院などの各組織が位置づけられる。地域保健サービスは、精神医療診察や短期宿泊サービス等を業務とする地域保健センターを運営し、治療共同体は治療を目的とした集合体としてグループホーム等の居住サービスを含むを展開し、精神科治療院は、総合病院の精神科を指し示す表が挿入されている。 そして,精神保健部の下に,診察など地域精神保健サービスを提供する地域精神保健サービス(実施場所=精神保健センター),治療共同体,総合病院の精神科などが存在する,という構成である。 精神保健センターでは,地域内の成人の治療要請を受けてケアが実施される。対象は重症者に限られず,苦悩や苦しみ,不安,恐怖を抱く全ての人であり,1回限りや数回の面接で終わることもあるし,家族に対するサービスもある。 地域精神保健サービスは,その地域だけでなく,総合病院や刑務所内にもある。そうした場所にある精神保健サービスも,地域精神保健サービス同様,精神保健部の監督下にあるので,病院長や刑務所長等の施設管理者と連携して保健サービスが提供されることになる。 そして,医療扶助も地域行政単位に分割されて組織化されている。国は,全費用を20の州と自治体へ配分し,州は,地域内の事業体の財政を州保健サービスによって年間保健計画に基づいて自主管理している。 2 トリエステ精神保健局からヒアリング (1)視察概要 日 時:2014年4月2日 午後4時から5時 対応者:職員 レナータ氏(*1) (2)訪問先概要 トリエステ市は,人口約20万人のイタリア北西部の都市である。スロヴェニアに隣接する位置にあり,トリエステ県の県都でもある。 トリエステの精神保健局は,1981年に設立された。保健サービスや介入の方針,立案,運営,確認等を担っている。 具体的には,主にプロジェクトが行われている。365日24時間体制で活動する4カ所の精神保健センター(CSM)が設置され,それぞれ約6万人の住民を対象として,各8床のベッドを備えている。また,マジョーレ病院内に,8床のベッドを伴う(宿泊診療が可能)精神科診療サービス(SPDC)が設置され,救急センターと協力しながら救急要請に応じて選別して,地域保健センターないしはマジョーレ病院にて受け入れる。リハビリや居住サービスも行われ,協同組合との連携でデイケアや職業訓練が行われる。 トリエステ精神保健局は,旧サン・ジョバンニ精神科病院の一角に設置されていた。サン・ジョバンニ精神科病院は,閉鎖後,精神保健局以外にも,幼稚園,協同組合の運営するカフェなど,色々な使われ方をしていた。 (写真挿入) 旧サン・ジョバンニ精神病院の閉鎖後,一角に設置された協同組合の運営するカフェ。”POSTO DELLE FRAGOLE"(イタリア語で野イチゴの意味)と書かれた看板が掛かっている様子を写した写真が挿入されている。 (3)視察内容 レナータ氏の説明は以下のとおりである。 a 精神保健制度について トリエステ精神保健局の沿革について説明する。まず,法律36号(1904年の法律)は,健康上の注意を目的にした法律ではなく,「安全」を目的にした法律であった。28日間精神科病院に入院したあと,検察官が入院継続かどうかを決める。例えば,家族がその患者を介護できるケースがあるけれど,逆に,家族がいなければ,精神科病院に入れられたケースもあった。 そして,入院するということは,市民権を失うということを意味していた。市民権を失うと,家族の財産,自分の財産を受け継ぐないし使う権利が否定される。 女性患者の例でいうと,シングルマザーなどが,精神科病院に入れられるときは,その子どもも一緒に入院させられた。トリエステ精神保健局は,旧サン・ジョバンニ精神科病院の建物を利用しているが,この建物群の下の方には,かつて、子ども用の施設があった。2人の子どもの母が精神病であったため,その子ども(兄弟)もかなり長い間精神科病院で生活していたのである。 また,入院患者は,金銭管理権がなかった。年金などの収入があったとしても,精神科病院の会計係に管理され、本人の手に渡ることはなかった。そのため「ちょっと。たばこ一本下さい。」などと,物乞いをする人もいた。家族の収入,財産がある人もいたが,入院患者はそのお金を使うことは許されなかった。 1971年12月には,精神科病院の考え方を変えていく,という取組が始まった。強制入院の場合でも,任意入院に変えていくという動きが始まりつつあったのである。強制入院が任意入院に変更されていくのと並行して,徐々に,患者の人権(財産権等)が認められるようになってきた。 強制入院から任意入院へ変わる構図は,「変化」を意味するのだと思う。健康を守ることが,行政機関(警察や刑務所など)ではなく,保健サービス機関で担当する,という考えに移行していった。 そして,保健サービスを受ける施設を利用するということは,人と人が健康のために協力していくという変化でもあった。それが,公的な機関を利用せずに個人の健康を守ることにも繋がっていった。そうして,非任意入院をなるべく避けていく中で,「危険」という考えから,「健康のサービスを受ける機会」という考えに変わっていったのである。 b 措置医療(TSO)について トリエステ精神保健局のTSOへの関与について説明する。 あくまで任意治療が前提であるため,TSOは,期間も短期化されている。主治医ないしは,TSOが必要か否かを判断する精神科医から提案がなされると,市長がTSO開始についてサインし,手続は裁判官へ送られる。 TSOが開始されると,7日間,地域保健センターに宿泊するか,マジョーレ病院に緊急入院するか,2つの可能性がある。患者が治療を拒否している場合,TSO開始から7日後,治療を拒否することもできる。TSOを継続する場合,医師は,改めて治療を続ける申請をしなくてはならない。 また,TSOを拒否しようとする患者自身は,後見裁判官に,不服申立ができる手続が用意されている。 このように,2人の医師のサインが必要とされ,患者自身が不服申立をできるなど、厳格な手続が準備されている。 さらに,TSOの場合,同じような処置が何度も繰り返されていると,後見裁判官は,その治療を延長すべきではない,という判断を出すことがある。例えば,4回目の申請があると,当事者の同意を改めて取り直すよう求めることがある。逆に,必要に応じて,裁判官が治療を受けることを勧めるケースもあるが,いずれにしても,TSOを使わないという基本的姿勢でトリエステ精神保健局は関わっている。 c 質疑応答 Q TSOを拒否する患者の不服申立手続に弁護士が関与することはあるか。 A 基本的にはない。ただ,TSO開始にあたっては,証明書を作って,市長へ送って,市長が後見裁判官へ送るので,(精神保健局等が)その流れの中で,弁護士に相談することもある。 Q 具体的な事例を教えていただきたい。 A 女性のケースで、本人はケアの必要性はないと思っていた患者がいた。その女性患者について,TSOが開始され,すぐに任意治療に切り替えられた(TSOは,「1日だけ」等の短期に限って行われることもある。)が、女性は,任意切替後,再度体調が悪くなってしまった。精神保健局が自宅を訪問しても,電話しても,自宅に閉じこもって誰も受け付けない状態であった。そのため,改めてTSOが再度必要ということで,新しい判断が必要になった。ご本人が閉じこもっている場合,精神保健局の職員はドアを勝手に開けられないので,消防局の職員が一緒に訪問したが,自宅は鉄扉で入ることができなかった。その翌週も訪問して自宅の下で,しばらくの間女性が出てくるのを待ち続け,最終的には女性によって扉を開けてもらうことができた。 このように,TSOは,いろいろなセクターの人が関連してくる手続である。 Q 心がけておられることがあれば教えていただきたい。 A TSOに関わる人たちが「強制することは良くない」ということを共通認識として持っていることである。患者本人の意見を最大限尊重すべきであり,特に初めてケアを受ける人に対しては注意を要する。例えば,10回自宅に通うだとか,可能な限りの努力を尽くす。最初の出会いが,その人の意向に反していることを避けなければならないと考えている。 Q 困難な点はあれば教えていただきたい。 A メンタルバランスが崩れている人を放任することはできない。ただ,ご本人がすぐに治療を受け入れるとも限られず,自分の意向で,治療を受けたい,と思えるように仕向けていくことが重要である。先の女性の事例でも,定期的に継続的にサポートしていくことが重要ということがよく分かった。そうして,患者の状態が良くなる方向へ向けていくのが精神保健局の役割であると考えている。 Q 青少年と早期治療の必要性について(統合失調症のケース),どのように捉えられているか。 A イタリアの場合2つの考え方がある。1つ目の考えは,ミラノ市で行われているような考えで,ミラノの精神保健局の場合は,早期介入し,服薬治療を行おうとする。2つ目には,トリエステのような考えで,トリエステの精神保健局のうちの1つ,サン・ジョバンニ地区には若年層も含めて受け入れる体制があり,強制治療ではない形でのケアが行われている。 トリエステ精神保健局では,精神保健部門と18歳以上の成人を対象としている。精神保健局とは別に,18才以下の未成年をサポートする部門もある。地域の子どもの精神健康状態をどのようにサポートするか,という立場に立って,18才以下の子どもたちにサービスを提供することが重要である。 もっとも,18才になった子どもが,地域のケアを外れて「精神保健局へ行きなさい」といわれて,行かずにそのままになってしまうことも考えられる。なるべく継続した関わりが必要と考えている。 Q 精神保健局と,依存局(アルコールや薬物依存専門の行政部門)を分けているのはなぜか。 A トリエステのように分かれている州もあるが,同じの州もある。州のモデルの作り方で違うだけのようであるが,今後は統合していく予定である。 依存症の場合は,予防が中心の考えになる。なるべく,そういう病気にならないように推進していく活動が重要で,そういう意味では取組が異なる部分があると思う。 Q トリエステにおける,精神障がいのある人による犯罪状況について教えていただきたい。 A トリエステでも,触法行為に触れてしまう人はいる。ただ,保健センターでケアをするのがメインであるので,結果的に,刑罰が科された人は今のところ「ゼロ」である。その意味では,精神科病院をなくしたことによって,「犯罪」はむしろ減っていることになる。 d 感想 トリエステは,精神科病院解体のモデル市とされたことからもわかるように,地域での支援が非常に充実したシステムになっていた。精神保健局を中心として,精神保健センター,協同組合,病院等が連携しながら,任意治療を前提とした医療提供や社会生活のコーディネートをしていることが実感された。精神障がいを対象とした行政専門分野があることからして,国を挙げて,その支援の重要性を認識していることを示していると思われる。 しかし,イタリア全土でも,南北の貧困問題が顕著でもあり,精神保健福祉の充実ぶりは地域格差があるようである。北部に限っても,ある地域で行われる医療の方針とトリエステのそれとは異なる。 もっとも,トリエステにおける先進的取組は,成功事例として掲げられるだけでなく,他の地域でも,地域生活拠点を充実化させることによって精神科病院に頼らなくても十分に生活ができることを意味している。 一方,日本の精神科医療は,非常に深刻である。諸外国に比して精神科病院の数やその入院患者数も群を抜いて多く,入院期間も非常に長い。10年以上精神科病院での入院を余儀なくされている患者は約7万人もおり,その中には,適切な支援があれば地域で生活できる社会的入院の入院患者が多く含まれている。 精神科病院に依らなくても,適切なケアがあれば,地域生活が十分に可能という事実は,イタリアに限られるはずはない。 日本でも,イタリア,特にトリエステにおいて実現されてきたように,強制的精神科医療の限定化(期間の限定,手続の厳格化)が早期に実現されるべきである。そして,アパートやグループホーム等の地域生活拠点をより一層拡充し,平行して地域医療を充実させることにより,精神障がいの有無にかかわらず,誰もが等しく生活できる環境を整えていくことが重要と思われる。 *1 当日,精神保健局在籍の医師フランコ・ロテッリ氏が対応してくださる予定であったが,急な都合でキャンセルになった。急遽,トリエステ精神保健局職員のレナータ氏が対応して下さった。フランコ・ロテッリ氏は,バザーリアの後継者として知られている,トリエステ精神医療の中枢を担う医師である。 <参考資料> 1 トリエステ精神保健局編集(小山昭夫訳)『トリエステ精神保健サービスガイド〜精神科病院のない社会へ向かって』(現代企画室,2006年) 2 浜井浩一『罪を犯した人を排除しないイタリアの挑戦〜隔離から地域での自立支援へ』(現代人文社,2013年) 3 大熊一夫『精神病院を捨てたイタリア捨てない日本』(岩波書店,2009年) 3 各現場の現状と取組 (1)リハビリテーション・レジデンス・サービス(SAR) (写真挿入) SARの入っている建物。黄色の外壁をした2階建ての建物であり,写真はその建物の正面入口側から撮影した写真が挿入されている。 a 視察概要 訪問先:カンティエーリ・ソチアーリ(Cantieri Sociali) (就職サービス及びレジデンスサービス Servizio Abilitazione Residenze:SAR) 日 時:2014年4月1日 午後2時30分から4時 対応者:同所職員 モレナ・ファーラン氏 b 訪問先概要 精神保健局のプロジェクトチームの1組織として,就職サービスとレジデンスサービスを扱い,精神保健局の利用者に対し,資格取得,リハビリテーション,職業訓練,社会復帰をさらに促進することを目的として創設されたサービス機関である。 同機関には,@レジデンス施設(及び事務局),A職業訓練及び就職事務局が置かれている。その他,民間団体と連携して,工芸教育工房とデイケアセンターも設置されている。 @レジデンス施設(及び事務局)では,ある程度の期間にわたり,精神保健局運営の居住施設に居住する人々を対象に,居住能力の向上や,資格取得や職業訓練のプロジェクト開発を目的とする企画を推進,研究する。また,空きベッドを探したり,居住状況のモニタリングを行う。レジデンス施設は,「社会復帰レジデンス」と「治療−リハビリテーションレジデンス」の二つがある。 A職業訓練及び就職事務局は1996年に設置され,利用者に対する職業訓練と就職支援活動の向上を目指している。具体的には,@職業訓練機関の協力の下に行う職業訓練コース,A職業訓練に対する評価,B職業訓練助成金に関するモニタリング,C労働,職業訓練に関する職員教育を行っている。 c 同機関のサービス内容  SARの目的は,障がいのある人の社会復帰である。市町村の諸機関,社会的協同組合,民間の組織などの枠組みをつなげて,一緒に障がいのある人たちへの個人的プログラムを推進しながら,個人個人の仕事の内容をサポートしていく。さらには,リハビリテーション・住居・仕事の諸問題へのコーディネートを行い,障がいのある人の成長を見守って,能力を引き出すことにある。  これらの考え方は40年前にバザーリア医師が考え出したものである。精神障がいのある人が,社会的に生きていくために何が必要なのか,他者との関係の中でどのような可能性があるのか,どのようなプロジェクトを発展させていくかが課題であるとのことであった。 d 社会的協同組合について (写真挿入) SARと同じ建物にある社会的協同組合「リスター・サルトリア社会的協同組合」の作業所内部を移した写真。部屋の中には衣切れなどの原材料や裁縫道具などが所狭しと並んでおり,一人の男性が作業を行っている。同組合では,衣服・雑貨の裁縫を行い「Lister」ブランドのタグを付けて一般にも販売している様子を写した写真が挿入されている。 今日,トリエステには社会的協同組合が18か所ある。その業務内容は,レストラン,掃除,事務関係の仕事,会社の受付,海岸のスポーツ関係施設の仕事,喫茶店,ホテルなどである。 社会的協同組合のうち,いわゆるB型の社会的協同組合については,組合員のうち30%は障がいのある人など,社会的に不利な立場にある者を雇用するのが法律上の義務となっている(1991年11月8日法律381号4条A)。 社会的協同組合は,障がいのある人になるべく仕事に就いてもらおうという目的のもとにある制度なのであるから,上記の30%という構成率を満たした上で,税金の控除などの財政支援を受けることができる。 社会的協同組合の規模は,15人という小さなものから,250人規模の大きなものまで様々である。掃除,引越,建築関係の業務に就いている。例えば,精神保険局内の清掃作業を社会的協同組合の組合員が行っている。 最近では,社会的協同組合の組合員がトリエステ市のガイドに就いていることもある。若い働く人たちはサービスの中でも,掃除よりもガイド(例えば,サン・ジュスト城やサローニ・ディ・インカント(Salone degli Incanti)博物館など)がいいと希望しており,これを選んで働いている。 e 就労支援のシステム 社会的協同組合では,仕事を覚えながら,奨励金を給付するというシステムがとられている。1980年代ではこれら障がいのある人々は生活保護金を受領していたが,現在は,仕事をして,その奨励金を受けるという制度に移行したのである。 現在,トリエステ精神保健局が把握している限りでは,毎年180人がこの奨励金を受給しているとのことである。給付総額は約40万ユーロであり,一人あたり,毎月350ユーロが支給されている。この180人のうち,年間20人が正式に社会的協同組合と契約を締結する。ただし,現在の社会状況のなかで,その契約形態が短い期限つきの契約であるという限界はある。奨励金を給付されている障がいのある人が正式な労働契約にたどりつくまでの訓練期間は,それぞれ2年から3年である。 正式に労働契約を締結した20人の就職先は,約15人が社会的協同組合,2人が団体組織機関,公的機関,3人が民間企業である。 労働契約においては,@労働者,A社会的協同組合,会社,B精神保健局のオペレーターの三者が連携して,どの程度の仕事をしていくかということを決め,1週間に25時間を上限とした労働を行う。社会的協同組合,会社には,障がいのある人を雇用育成する責任がある。オペレーターは障がいのある人の支援,モニタリングを行う。 f 仕事とリハビリテーションについて 旧来,精神科病院にて行われてきた継続的な作業療法は,働くということに良い影響を与えていないと考えられている。作業療法は,仕事の内容がいかなるものであっても報酬が少額であるという問題がある。例えば,掃除をするという作業で,綺麗にしてもしなくてもその少額の報酬は変わらない。障がいのある人が労働に関する正式な契約を結ぶ必要があると考えられている。 40年前,精神科病院で作業療法が認められていたのは,病気の人の神経を休めるということがその目的であった。給料なしで,権利もなく,精神科病院の職員と一緒に行う作業でしかなかった。病院が障がいのある人に支払っていたのは,一杯のコーヒー分,一本のタバコ分程度の僅少な報酬でしかなかった。 現在,バザーリア医師の改革により,障がいのある働く人の人権が尊重される流れの中では,障がいのある人がそれぞれ目標を持って仕事内容を見つけていくのが理想とされている。もっとも現在の制度においても,障がいのある人に対して,与えられた仕事を行わせているという傾向があることは否定できないという。 g 障がいのある人の雇用について 労働契約における障がいのある人の法定雇用率は国の法律で定められている。1999年3月12日法律68号法によれば,従業員数が15人以上の公共部門及び民間部門の使用者は,総従業員の約15人に1人の割合で障がいのある人を雇わなければいけないという義務がある。ただし,企業は,納付金を払えば,障がいのある人を雇わなくてもすむという規定が一方で存在し,約40%の企業が同規定により納付金の納付を選択する。 企業から収められた納付金は,障がいのある人の職業訓練に関する費用に使われる。 障がいのある人の採用にあたり,36人以上の従業員を有する企業は,一定の割合で,公的機関が定めた障がいのある人のリストから,そのリストの順位に従って障がいのある人の採用を行わなければならない。それ以外の場合は,各企業がそれぞれ障がいのある人を個別に応募して採用できるが,身体障がいのある人の方が精神障がいのある人よりも多く採用されやすいという傾向があるという。 その他,一般企業への就職を促進する手段として,企業に対し,障がいのある労働者の社会保険の全部又は一部を国庫負担するなどのインセンティブ措置がある。 また,企業にとっては,職業訓練を受けた障がいのある人を雇うということは,そのような訓練を受けていない障がいのある人よりも,採用を行うことに安心感があることから,職業訓練制度もまた,障がい者雇用への間接的なインセンティブとなっている。 h パーソナルプロジェクト 就職サービス及びレジデンスサービスでは,「パーソナルプロジェクト」というプロジェクトを2006年より開始している。個人の社会的費用を「パーソナル化」するというプロジェクトである。 このプロジェクトでは,住居,仕事,社会適応を3つの柱として,障がいのある人の個人個人について,それぞれのニーズは何か,目標は何かということを定めていく。その目標を現実化するためには,どれくらい経済的なお金が必要なのか,障がいのある人一人一人と面談してこれを計算していく。 必要とされる費用については,SARがトリエステ市,トリエステ県,精神保健局などから利用できる制度を使うことにより賄う。 また,法人,社会的協同組合,支援グループによる連携された支援の中で,プログラムを作成する。 同プログラムにおいて,最近特徴的なのは,レジデンス施設でケアを行うという手法を少なくしたことである。現在は,障がいのある人が地域で居住している場所で,そのまま支援を与えるというやり方を拡げるよう取り組んできている。レジデンス施設は24時間の支援を行わなければならないので経済的負担が大きいというのも理由である。 このパーソナルプロジェクトは,精神保健局が推進しているものだが,いまだ試験的な手法である。国の法律で義務づけられているわけではない。もちろん,最終的には国による法律制定を目指すべきであるが,現在,この手法が州の法律で定められているのはカンパーニャ州だけであって,トリエステのあるフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州では,ガイドラインとして定められているだけである。 <参考資料> 1 トリエステ精神保健局編(小山昭夫訳)『トリエステ精神保健サービスガイド〜精神病院のない社会に向かって』(現代企画室,2006年) 2 佐藤紘毅・伊藤由里子編『イタリア社会協同組合B型をたずねて―はじめからあたり前に共にあること』(同時代社,2006年) 3 大内伸哉『イタリアの労働と法―伝統と改革のハーモニー』(日本労働研究機構,2003年) 4 トリエステ精神保健局ウェブサイト http://www.triestesalutementale.it/english/mhd_ou.htm (2)バルコラ精神保健センター a 視察概要 日 時:2014年4月2日 午前10時から11時30分 対応者:ルカ氏(ソーシャルワーカー) b 訪問先概要 精神保健センター(CSM)は,精神保健局のプロジェクトチームの1組織であり,精神保健制度の入り口として,介入の調整や計画作成の核となる組織である。週7日24時間体制で活動している。 トリエステ県は,県下を4つの医療保健区に分け,それぞれの医療保健区に医療保健区の運営を行う精神保健センターが1カ所設置されている。 バルコラ精神保健センターは,保健区1を運営するセンターである。開設は,1975年で,4つの精神保健センターの中で最初に開かれたセンターである。保健区1は,トリエステ全県のおよそ3分の2の範囲に及ぶ地域を含んでおり,住民は,約6万人である。トリエステの中では裕福な住民が暮らす地域であるが,貧困層の暮らす地域も若干ある。 職員は,精神科医,臨床心理士,ケースワーカー,リハビリテーション士,看護師,介護士,管理者からなる。地域が広いため,自動車を利用して地域を回るチームと,徒歩で地域を回るチームとで対応している。 c バルコラ精神保健センターの活動 バルコラ精神保健センターでは,次のようなサービスを提供している。 ア 夜間宿泊(ナイトケア) 症状に応じて,センターに宿泊することができる。 6〜8床のベッドが備えられており,必要に応じて利用されている。現在は,7床が設置されているとのことである。 利用者の利用日数の平均は9日から11日とのことである。 イ デイケア/デイホスピタル (写真挿入) デイケアの記述に関連して,ベッドのある部屋の写真が挿入されている。部屋は,白い壁に明るい茶色のフローリングが敷かれている。大きな窓とベッドがあり,窓際には1人がけの椅子が置かれている。窓にはカーテンがかけられているが,撮影時は開放されており,明るい光が差し込んでいる。カーテンとベッドカバーは濃い青で統一されている。窓の上側にはマリメッコの青い花柄の布が飾られている。ベッドの近くには,利用者の私物と思われるスニーカーが置かれている様子などを写した写真が挿入されている。 危機的状態や緊張状態が生じた際,一時的な保護や安全確保のために,共同生活グループから引き離したり家族の負担を軽くするなどのため,数時間又は終日の入所を勧めるものである。 また,薬物療法や精神療法による支援や,進路指導プログラム,職業訓練コースへの参加のための入所としても利用されている。 ウ 外来診療 センター内で,初診から継続して診療を行う。診療の中で,本人や家族との情報交換や意見交換を行い,服薬状況の確認やアドバイスを行う。診断書や専門的健康報告書の作成も行っている。 エ 往診 センター等の施設まで出かけることが難しい人に対し,投薬等の在宅支援のため,定期的な往診や緊急時の往診を行う。本人や家族の生活状況の把握や,自宅から病院,役所,職業訓練コースや職場までの送迎として利用されることある。 危機的状況への介入の際,医療従事者による往診が,近所との紛争の調停的な役割を果たすこともある。 オ 利用者別治療作業 本人の生活の問題や状態に対する聴取や検討を目的とするものである。 カ 家族のための治療作業 精神保健センターでは,利用者本人のみならず,利用者の家族に対するサービスも提供している。これにより,治療プログラムへの同意や協力を得られることもある。 キ グループ内活動とグループ活動 職員と利用者,ボランティアがグループとなり,社会的なネットワークを構築し,精神障がいに関する知識を深め,問題への対応能力を相互に改善する機会を増やすことを目的としている。友人や,職場の同僚,隣人,あるいは,治療及び社会復帰の過程で重要な役割を果たす人が参加することもある。 ク リハビリテーションと再発防止への介入 社会的協同組合,表現研究所,学校,スポーツや娯楽活動,青少年団体やグループ等を利用し,情報収集や,職業訓練と就職のための活動を行う。 ケ 社会的権利及び機会を活用させるための支援 社会的に最も弱い立場にある人とその家族の利益のための介入プログラムである。社会復帰や職業訓練のための経済的手当の給付や他の団体や施設への利用者の送迎,財産の運用管理の援助などを行う。 コ 住宅支援 自宅,グループホーム,住宅共同社会,治療的共同社会など様々な居住条件のもとで,日常生活や社会関係,対人関係などの能力のサポートやリハビリテーションの支援を行う。 サ 助言活動 保健サービスでの介入や,利用者の入院先での診療科での助言活動のほか,これまでサービスを受給していなかった人との接触・助言活動を行う。 シ 電話 利用者からの報告や,利用者への助言,確認などを行う。 精神保健センターを利用するためには,特別の様式はなく,管轄地区の精神保健センターに直接申請するだけでよい。本人からの申請だけでなく,家族や友人,隣人等関係する第三者からの申請も可能である。 精神疾患の程度が軽度の人は,自分からセンターに来ることが多いとのことである。 d バルコラ精神保健センターのサービスの特色 バルコラ精神保健センターで,介入の際,特に重視していることは,「良い関係性を築く」ということである。これは,精神保健センターは,利用者が,危機を感じて利用する場所であることから,強制的な手段に流れないためには,良い関係性を築いていることは非常に重要なことであるとの意識に基づくものである。 また,ドアが開放されているということが重要であるという考えに立っている。ここでいう,「ドアが開放されている」とは,質の良いサービスを提供しているということを意味するわけではなく,サービスを必要とする人にいつでもサービスを提供するということの現れである。 さらに,センターでは,40年ほど前から,精神障がいのある人の近隣の人に対し,「あの人は精神障がいだから」というような偏見を持たなくなるよう,精神障がいのある人も普通の人であるということがわかるような講演会や勉強会を行ってきた。 また,イタリアでは,「家族」を非常に重要視する文化があることから,バルコラ精神保健センターでは,家族に対するサービスの提供をかなり早い段階から始めている。 例えば,プログラムの中に,家族の関与を積極的に取り入れており,家族専門のオペレーターも配置している。 また,月1回,カンファレンスという形で家族を集めて,病気の内容や兆候,精神障がいのある人が何を必要としているのか,あるいは法的なことの講習を行っている。  現在,バルコラ精神保健センターが抱えている問題としては,予算の削減が非常に大きいとのことである。 予算の削減のため,職員の退職に伴い新たな人員を雇うことができなくなってきており,そのため,職員が順序良く仕事をしていくということができなくなってきている。また,スタッフの数が足りないことから,訪問を必要とする人への訪問が十分にできなくなってきているということもある。 (写真挿入) センターの内部の記述に関連して,2階のテラスの写真が挿入されている。テラス3メートル四方ほどのスペースで,腰高のコンクリートの壁に囲まれている。テラスには,直径1メートルほどの黒い金属製の丸テーブルが1つと,同じ素材の1人がけの椅子が6脚置かれている。利用者が3人椅子に座っている。うち二人は撮影者の方を見ており,1人は真顔,1人は撮影者に笑いかけている。もう一人は,外を眺めている様子などを写した写真が挿入されている。 e センター内の様子 レセプション(受付),面談室,デイホスピタル用の部屋,宿泊用の部屋,台所,浴室,洗濯室,リラックスルーム,テラス,事務室,薬の保管庫,更衣室などを見せていただいた。 レセプションの壁に飾られている絵は,1978年にマニコミオ(精神科病院)を閉鎖し,当事者が地域生活を始めた時の様子を象徴的に描いた絵であり,当事者の「普通の生活がしたい」という願いが描かれている。オペレーターと入院していた当事者が一緒に描いたものである。 デイホスピタル用の部屋は,1日のみの滞在を前提としており,ベッドがない。 宿泊用の部屋にはベッドがある。センター全体で7床ある。たまたま入院中の女性と話をすることができた。その女性は,「体調が悪く,自分でこれは薬が必要だと思ったからここに来た。数日だけお世話になる。もうちょっと遅れたら症状が悪くなると思ったから来た」ということであった。 洗濯室は,デイケアやナイトケアの利用者のみならず,社会的協同組合で働く人なども利用しに来るということであった。 リラックスルームでは,数名の利用者が喫煙したり,話をしたりしていた。テラスにつながっており,自由に外の空気を吸うことができる。また敷地に高い柵などは設置されておらず,周囲の景色を見ることもできる。センター内の廊下の壁には,当事者が描いた絵が飾られ,明るい雰囲気であった。 センター内の壁が一部すすけていたが,これは,オペレーターによれば,以前,利用者が手を洗った後に使う乾燥機に火をつけ,ボヤになった時の名残ということであった。オペレーターが強調していたのは,「他の国ではライターなど危険と思われるものを全て取り上げるが,ここではそういうことはしない。センターの利用者は,金属製のナイフやフォーク,ライターなど,普通の家庭でも用いられているものを普通にセンターでも使う。危険だといってそれらを取り除くということではない」ということであった。 センターの隣にはトリエステに一つだけある5つ星のホテルがある。ホテルが5つ星になったのはセンターが建った後のことである。現在に至るまでホテルを含め,近隣と何らかの問題が起きたことはない。 (写真挿入) 以上の記述に関連して,レセプションに飾られた絵の写真が挿入されている。絵は,6つの場面が描かれており,1つ目は,マニコミオから逃げ出す青い馬の絵,2つ目は,トリエステの海沿いの街並みの絵,3つ目は,地域生活に求めるものを抽象的に描いた絵,4つ目は,住宅街の絵,5つ目は,地域の中でカギをかけられて孤立するマニコミオの絵,6つ目は,木に動物や飛行機や船がぶら下がった絵である。 (3)マジョーレ病院 a 視察概要 日 時:2014年4月2日 午後2時から3時30分 対応者:看護師コスロビッチ・ロレーラ(Coslovich Lorella)氏とアマディ・アンジェロ(Amadi Angelo)氏 b 訪問先概要 マジョーレ病院は,県内で唯一措置治療(TSO)を行っている病院である(VIA PIETA 2 1piano OSPENALE MAGGIORE 34100 TRIESTE所在)。 ア 病院の体制 一般外来(通院),訪問外来,夜間緊急時対応,入院(任意入院,強制入院=TSO)を行っている。他所で治療中であっても,誰でもいつでも受診できる。 ベッドは6床で,24時間体制が採られている。視察当日はTSOの対象者が1名で,任意入院が2名いた。 スタッフは,精神神経科の医師が1名,看護師が2名で1日3交代のローテーションが組まれている。精神保健センターに心理学士がいるが,外部から来てもらうこともある。精神保健センターとの連携は密にしており,とくに夜間救急で入院になったようなケースでは,基本的には翌日センターが治療方針を決める。 イ TSOについて TSOとは,他害行為など重症な場合に本人の意思に反して行われる入院をいう。強制的な機関に連れてこられることもある。 TSOによる入院期間は1週間が上限だが,再度の申請は可能である。ただし,TSOを繰り返すケースは稀であり,病院としても避けるようにしている。 TSO入院中に医師の判断で面会や通信が制限されることもあるが,患者の権利擁護者に会うことはでき,電話も制限されない。 ウ 方針 入院に対しては抑制的であり,重症かつ緊急の場合のみ入院する。 とくにTSOは強制的なものなので,なるべく任意入院の形をとり,TSOは最後の手段として必要最小限の利用にとどまるようにし,TSOによる入院後もなるべく任意入院に切り替えるようにしている。 退院の時期は,患者の立場に立って考える。入院中は家族的な雰囲気の中で過ごせるよう努め,患者と対話して退院を進める。面会も可能である。 エ 実情 入院期間は病気の状態によって異なるが,若年で初発の場合は長くなる傾向にある。治療中断があり,病状が悪化して再発した人も長くなる傾向にある。しかしながら,あくまでも基本は入院はなるべく回避するという姿勢であり,他の病院や施設につなげることはせず,地域とのつながりを失くすようなことにはならないようにしている。 1978年に制定された180号法による医師の大きな変化として,患者を普通の人間として扱う,尊厳のある扱いに変わったことが挙げられる。看護師にも,患者の人としての尊厳を尊重する役割があり,重症の場合でも,患者を縛りつけたり隔離することはない(他害行為のリスクがある場合に警察を呼ぶことはある。)。入院時も一般の救急車で運ばれてくる。 c 見学記録 ア 病室 病室は,日本の病院にありがちな真っ白い無機質な部屋ではなく,壁には大きく明るい絵が描かれ,滞在するための居室といった家庭的な雰囲気であった。女性部屋と男性部屋,一人部屋と二人部屋があるが,各部屋にトイレは設置されており,患者が自分のことは自分でできるようにされている。窓は内側にしか開かないようになっている。 イ その他のスペース 支援スタッフと会議をする会議室があった。 相談室は,昼夜問わず緊急機関から受け入れの相談を受け付けるようになっていたが,緊急事態でなくとも,気軽に相談し,話を聞けるようになっていた。 鍵がかかるのは薬剤の管理室のみであった。 (写真挿入) なお、以上の記述に関連してマジョーレ病院の精神科の病棟の廊下の写真が挿入されている。この写真には、廊下の白い壁の床下50センチメートルくらいからドアの高さまで、赤い花がたくさん咲いている大きな絵が廊下に飾られている様子が映されている。また、病室の写真も挿入されている。この写真には木目のフローリングの床に白色を基調としたチェスト、椅子、ベッドのほか、50センチ四方以上はあると思われる大きな花の絵が飾られている様子が映されている。 (4)知的・発達障がいデイケアセンター a 視察概要 日 時:2014年4月3日 午前10時から11時 対応者:コーディネーター:エリザヴェータ氏,エデュケーター:パオラ氏 b 訪問先概要 トリエステではなく,また当初の視察計画では予定されていなかったが,ヴェネチアにあるデイケアセンターへ急遽視察できることになった。ヴェネチアは,トリエステから比較的近くに位置し,水の都として観光で有名な都市であるが,観光スポットから少し路地に入ると住宅がひしめき合っており,本施設もその一角に設置されていた。 この施設では,知的障がいのある人,自閉症や精神障がいのある人を対象としている。ダウン症の人も含まれている。精神障がいだけの人は,精神保健局が対応しているので,この施設では,知的障がいを伴う人を主に対象としている。 現在は,18名の利用者がおり(定員は24名),現在は20歳から62歳(施設としては18歳から64歳まで対象としているが)の人が利用されている。男女比としては同程度である。 本施設はヴェネチア保健福祉局が運営しているが,本施設以外の他の15ヶ所のセンターは民間が参入して費用を市と保健福祉局が共同して支えているという形で運営されている。他の施設では利用待機者がいるところもある。 日中活動の内容は,週間活動として,陶芸,庭仕事,ペインティング,手帳等の製作,料理,運動,音楽等のラボラトリーを行っている。 活動時間は,平日,9時から15時15分までである。 職員は,3人のエデュケーター(オペレーター),10人の保健福祉士,1人のコーディネーターがおり,保健福祉局に所属している。エデュケーターが18人分の支援計画を立てている。 施設自体は,1994年2月に設立された。設立するに際しても,地域からの反対はなかった。地域の人達との交流があるわけではないが,市場へ買い物に出かけたり,展覧会を見に行ったり,公共のプールで泳いだりするなど,施設内での活動のほかに,地域に根ざした活動を心がけている。 家族とは,保護者会と週1回面談をするなど,定期的に個人面談をするような形で連携を取っている。オペレーターとの会議や,毎日の連絡も行うようにしている。 利用者は,「労働」として働くことはできないが,国からの補助金と私人からの寄付金をもとに,保健福祉局から賃金が支払われることもある。 宿泊できるような設備は備えていないが,隣接したところにコミュニティーとして住居型の「レジデンス」があり,家族とともに住めない人がそのようなレジデンスを利用することはあるが,現在デイケアセンターの利用者でレジデンスに住んでいる人はいない。 施設は,市と保健福祉局のサービスとして提供されており,利用者は利用料を支払う必要はない。家族からの依頼によって利用することが多く,利用者の中には利用についてあまり気が進まない人も居る。 高齢のために本施設を利用できない人は老人ホームを利用している。 c 施設内見学 台所では,3〜4名が活動し,ボランティアの女性が来られる。重度障がいのある人のための,移動式ベッドを備えた部屋もある。本施設は以前小児科病院として利用されていた場所を利用している(ヴェネチアでは,過去には各小さな島々に病院が存在していたそうである。)ので,風呂場,トイレなども引き続き利用されている。畑や陶芸用の部屋も備わっている。このセンターの建物の周りには,ホームレスセンターや幼稚園など,いくつかの福祉施設が集合している。 d 感想 このデイケアセンターには,日本でいう生活介護の場(いわゆる作業所)と非常に似たような設備が備わっており,また活動内容や制度としても共通していた。スタッフが各利用者に合わせて密な取組をされている点は非常に興味深かった。 労働者性が否定されているなど,同じくイタリア北部に位置しているが,ヴェネチアとトリエステとでは,実際の取組内容に差があるように感じた。 4 まとめ  権利条約12条は法的能力の平等性を定め,権利条約14条は市民的自由の平等な享受という視点から「いかなる場合においても自由の剥奪が障害の存在により正当化されない」と定めている。さらに,権利条約14条は障がいのある全ての人に対し,包容性のある(インクルーシブな)地域社会での生活を実現する視点から,障がいのある人が「他の者と平等の選択の自由をもって地域社会で生活する平等の権利を認め」,「居住地及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること,並びに特定の生活様式で生活するよう義務づけられないこと」を定めている。  権利条約が精神医療福祉分野で求めている改革の目標地点は明確である。法的能力の平等性の要請は,精神障がいのために同意能力が欠けていることを前提とする現行精神保健福祉法の医療保護入院(同法33条)を根本的に変革することを求めており,障がいを理由とする自由剥奪の禁止は,精神障がいのある人であることを自由剥奪の大前提とする医療保護入院及び措置入院(同法29条)などの強制入院を廃止すべきか否かという根本問題を私たちに突き付けている。包容性のある地域社会での生活をする権利の保障は,長期大量の入院者を保有し続けている現状を速やかに改め,治療のためではなく社会資源の乏しさゆえに退院できないままに病院に残留している7万に近い社会的入院者を遅滞なく地域生活に戻し,入院に依存しない地域医療を実現することを求めている。  権利条約を批准し権利条約が国内法的効力を持つに至った現在,問題の焦点は改革の目標地点を定めることではなく,いかにして目標地点に到達するかという戦略と戦術を練り上げることにある。こうした問題関心から私たちは,精神科病院に対する依存を絶ち,決然と精神科病院を廃止して地域医療福祉を実践してきているイタリアの実情を調査することにした。  イタリアの実践については既に文献報告などもあるので,今回の調査ではそれらをもとにさらに踏み込んだ実態を法律実務家の目で掘り下げて見聞することにあった。その成果については各報告の内容のとおりであるが,入院に頼らず,強制力の行使に頼らない医療福祉が現実に可能であることは30年近い実践の中で十分に実証されているということである。そこでは精神障がいのある人の人間性を究極まで尊重し,安心して関われる接し方をすれば必ず理解と信頼を得られるという信念に支えられた医療と福祉の実践があり,その信念は実践の中で単なる理想ではなく,現実に可能な政策であることを証明している。イタリアの実践は現実に例外なく本人の自己決定を支えながら必要な医療と福祉を提供することができる社会を実現させている。  日本の精神科病床数は全世界の精神科病床数の約2割を占めるほど肥大化しており,強制入院率もOECD諸国の約4倍多用されている。日本の現状は21世紀に至っても,依然として施設強制収容中心主義にとどまっており,先進国,文明国として恥ずべき状態にとどまっている。  今回の調査報告を権利条約の完全履行のために役立て,条約批准2年後の日本政府報告の際に国際的非難を受けることのない実践的な改革を急速に進めていくことを期待したい。 X 司法 1 イタリアにおける刑事司法と福祉 (1)イタリア刑事司法の特徴 イタリアの刑事裁判制度は日本と同様,三審制をとっている。第一審は治安判事若しくは地方裁判所,控訴審は控訴院ないし重罪控訴院,上告審は破毀院がそれぞれ審理を行い,判決を下す。 注目すべきは,イタリア刑事司法において,判決と刑の執行との間に,もう一つ別の裁判所による手続きが介在するという制度となっていることである。ここにイタリア刑事司法の大きな特徴がある。その裁判所の名を矯正処分監督裁判所(Tribunale di Sorveglianza :TDS)という。 イタリアでは,自由刑が宣告され,確定するとその殆どの刑の執行がほぼ自動的に検察官によって停止され,この間に拘禁代替刑が検討される。矯正処分監督裁判所は,この代替刑の具体的執行方法を検討するために審理を行う。 刑が執行されている受刑者については,司法省の機関である社会内(施設外)刑執行支援事務所(Ufficio Esecuzione Penale Esterna:UEPE)が社会調査を実施し,医療的又は福祉的な措置が必要な受刑者については自宅拘禁(公的施設への拘禁を含む)といった拘禁代替刑の必要性について検討し,その結果を社会調査報告書として矯正処分監督裁判所に提出する。矯正処分監督裁判所は,刑務所内の処遇にも関与することができるところに日本の保護観察所との違いがある。 イタリア憲法27条において,刑罰は人道的なものではなくてはならず,更生を目的とすべきことが定められており,同条の趣旨を実現するため,このような処遇が定められている。 参考 手続の流れ (解説図の挿入) 図はイタリアの刑事司法における手続き,特に判決手続き後の流れを 示している。 イタリアも日本と同様,判決手続きにおいては,三審制をとってい る。第一審は治安判事もしくは地方裁判祖,控訴審は控訴院ないし重罪控訴院,上告審は破毀院がそれぞれ審理を行い,判決を下す。 判決手続きを経て拘禁刑の宣告がなされた場合,本来であれば刑務所 に収容されることになるが,原則としてその刑は執行停止となる。この間に,矯正処分監督裁判所が代替刑の検討を行う。矯正処分監督裁判所は,NPOや福祉サービ スなどの支援を確認したうえで代替刑の選択を行う。 社会内刑執 行支援事務所は,刑務所,矯正処分監督裁判所,NPO,福祉サービスとそれぞれ連携する。特に,矯正処分監督裁判所に対しては,社会調査報 告書を提出し,代替刑選択の検討材料とする。 最後に,法曹は,判決手続きだけでなく,矯正処分監督裁判所での手 続きにも関与する。図の説明は以上。 (2)矯正処分監督裁判所(TDS) 矯正処分監督裁判所は,2人の職業裁判官,1人の臨床心理士,犯罪学者又は福祉専門家,1人の医師又は精神科医師の4人で構成される。 矯正処分監督裁判所の下部に配置される矯正処分監督事務所(Uffici di Sorveglianza)に常勤する裁判官が,受刑者へのインタビュー調査を行い,施設に対して処遇変更などの勧告を行うことができるようになっている。 矯正処分監督裁判所における拘禁代替刑の検討は,原則として本人の申請を受けて開始される。矯正処分監督裁判所自身が受け皿(処遇先)を見つけてくることはなく,本人,弁護士が受け皿を探してこなければならない。 もっとも,受け皿確保については,後述の社会内刑執行支援事務所が支援を行う。受刑者は刑が確定後,刑務所の臨床心理士や教官,ソーシャルワーカー,医官とのインタビューを求めることができ,その際に,拘禁代替刑や受け入れ先についての情報を入手することができる。 (3)社会内刑執行支援事務所(UEPE) 社会内刑執行支援事務所は,矯正処分監督裁判所と同様,更生・社会復帰を促進するために設けられた機関である。司法省内の組織であり,社会内での処遇,支援,すなわち社会資源の調整を担当し,刑務所とは別の組織であるということから,日本の保護観察所とも類似しているが,最大の違いは,刑務所内にも自由に行き来することができ,刑務所と外部の社会資源を直接つなぐことができる点にある。 社会内刑執行支援事務所の業務としては,下記のものがある。 @ 被収容者の家族に対する支援 A 拘禁代替刑に関する調整と矯正処分監督裁判所に対する社会調査報告書の作成 B 釈放者等に対する社会復帰のための支援 C 被収容者や社会内処遇の対象者に対する社会資源の調整 T 刑務所内での処遇プログラムの関与 U 代替刑を受けている人の支援,監督 なお,社会内刑執行支援事務所は地域,民間の団体とも協力を行いながら,受刑者の支援を行い,矯正処分監督裁判所に生活状況を報告する。例えば,拘禁代替刑を執行されている触法精神障がい者に関しては,地域内でのケアを行う地域精神保健サービス(Ambulatrio)が社会内刑執行支援事務所,矯正処分監督裁判所に受刑者の状況を報告する義務を負っている。 また,薬物等の依存症者に対しては地域依存症サービスによる支援があり,触法障がい者への就労支援については,社会的協同組合などが触法障がい者の受け入れ,支援を行っている。 (4)今回の視察にあたって イタリアの触法障がい者等への処遇に関する制度を考察すると,@判決後の更生にむけた処遇を実現する矯正処分監督裁判所が作られ,本人の更生を考えながら刑の具体的な執行形態を選択する,Aさらに,司法省管轄下に刑務所内の処遇と社会内をつなぐコーディネート機関である社会内刑執行支援事務所が存在し,刑務所内に自由に入りながら社会内での生活調整を行うとともに,矯正処分監督裁判所に対して社会調査報告書を作成提出し,社会福祉的な視点を刑の執行に取り入れられる,B社会内の受け皿としてNGO,地域の教会を中心とした多くの支援団体が活動しているため,犯罪者の受け皿に対する反対運動が起こりにくい,といった特徴を見ることができる。 上記イタリアの制度は,日本における刑事司法と福祉の関係においても,きわめて示唆に富むものといえる。触法障がい者に対し,判決手続き後も福祉的なアセスメントを実施し,適切な社会関係調整を行った上で地域に戻ってもらうということは,障害者権利条約13条,19条の見地からも要請されているところである。 本視察においては,上記制度の一翼を担う社会内刑執行支援事務所(ボローニャ市)を訪れる機会を得て,その実情に関しヒアリングを行うこととなった。 <参考資料> 浜井浩一『罪を犯した人を排除しないイタリアの挑戦「〜隔離から地域での自立支援へ」』(現代人文社,2013年) 2 各現場の現状と取組 (1)カリスティローネ司法精神科病院(CASTIGLIONE DELLE STIVIERE) a 視察概要 日 時:2014年4月1日 午後2時から5時30分 対応者:女性棟の責任者 リベリーニ ジャンフランコ医師 経理担当 マリア氏 b 司法精神科病院についての説明 司法精神科病院は,司法省の管轄下に属するいわゆる保安病院である。 イタリアでは人が罪を犯し裁判が行われる時点で,精神的な疾患によって判断能力に問題があると判断されると,罪の軽重にかかわらず,司法精神科病院に収容される。イタリアでは罪を犯した人に対し刑を科す。そのためには自分が悪いことをした,例えば盗んだ,それに対し刑に服する,ということをわかる精神状態でなければならない。ゆえに,罪を犯した本人が罪を犯したことが分からない精神状態であれば,国は罰することはできない。 精神を病んでいたら,国はその病を治療する。ここに来る患者に対し,病院は治療をしなくてはならず,国はその治療が有効であるか判断しなくてはならない。このシステムの目的は,患者が治療により良くなり,社会に復帰したときに罪を犯さない状態となることであり,罪を犯さない状態となるかどうかが有効性の判断基準となる。 当院は病院ではあるが,刑務所と同じように患者の生活を管理しなくてはならない。電話,外出,面会してよいか,その回数などは,全て裁判官に命ぜられたとおりに管理する。管理の基準は法定されているが,病院の中なのであまり厳しくはしておらず,精神的に問題のある患者が必要としていれば,例えば週1回しか電話をしてはならないとされていても病院の判断で週2回とすることも可能である。その場合,病院は責任を問われることはない。 また,病院側の判断で変更できる事項もある。例えば,電話を使ってはいけないなど社会から切り離した生活をすることに関しては法律で決められているが,患者の外出などについては病院から裁判官に提案し,判断を伺う。 患者にとっては義務と権利があり,義務に関しては,病院が患者に義務を行わせなければならない。権利に関しては,病院が患者の権利を侵害した場合,患者から裁判官に訴えることができる。病院側も自由に患者とやりとりをするのではなく,あくまで司法に従った上で,治療をする。例えば,病院側の判断で,入院する必要がないと決めることはできないが,患者にとって会わない方がよい人がいた場合,裁判官に理由とともに申出ることによって,何か月は面談を禁止する,という決定が出る。病院側が勝手に面談禁止を決めてはならない。 c 訪問先概要 ア イタリア全土に司法精神科病院は6つあり,当院はその一つである。 (写真挿入) カリスティローネ司法精神科病院前で、案内をしていただいたジャンフランコ医師を囲んで、視察メンバーの集合写真が挿入されている。 当院は,女性棟が1ヵ所,男性棟が3ヵ所ある。それぞれの部門に医師,看護師,心理士,教育担当,精神保健福祉士がいる。 基本的に280〜290名の患者を収容している。女性が約90人,男性が190から200人である。 入院患者の平均年齢は40歳である。 治療を受ける期間は平均して約3〜4年。 入院患者の25%が殺人犯である。60%が人に対する罪を犯した人(殺人,殺人未遂,傷害,女性に対する暴力,子どもに対する暴力)である。女性のうち,自分の子どもを殺した人が10人いる。 44%が統合失調症,30%が躁鬱病,20%が人格障がい,残り10%は複雑な状況の方で,発達障がい,てんかんで病状によって精神障がいが出てしまう場合などである。 イ 以下のとおり,3つの治療方法で治療をする。 @ 薬剤 A 心理療法 B アクティビティによるリハビリ(詩を一緒に読む,劇を見せるなど)。 ウ 2013年では180人の患者が入院し,約80人が退院した。治療の結果が十分であると裁判官が判断した場合に退院する。退院した人の多くはその後も小さい施設に入って治療を受ける。治療は,自分の意思で治療する場合もあるが,この病院から出た後も裁判官が治療を続けさせる場合がある(TSO=強制的治療(本人の意思に反する治療)ではない。TSOは罪を犯していない人に対し,短期の治療を強制する際に使うものである。)。イタリア中から6ヶ所の司法精神科病院に集中するので,司法精神科病院で長い時間治療を受け,同病院を出た後に,自分の町に戻ってそこの施設で治療を受けるということに意味がある。 エ 当病院全体で250人が働いている。内訳は,医師13人,心理士3人,看護師52人,教育士5人,保健福祉士4人,加えて社会保健オペレーター102人(基本的に患者のそばにいるが,看護師のサポートをする。学位は不要。)。看守,刑務官はいない。1年間で1000万ユーロ(予算全体の中の人件費)の費用がかかる。 d 質疑応答 Q 日本の医療観察病院は一般の精神科病院と比べ非常にお金をかけている。イタリアではどうか?イタリアでの患者一人あたりの予算は? A 病院全体の年間予算は1700万ユーロ。患者一人あたりいくらかという計算はしない。イタリアは経済的に苦しいので,年間予算の中でやりくりしなくてはならない。患者が多い時期も同じ予算でやりくりしなくてはならない。治療に対する費用は削れないため,掃除費用,車の修理・買い換え費用などを削りやりくりをしている。 Q 法180号の施行前後で司法精神科病院の入院患者数等に変化はあったか? A 法180号は精神障がいがあって罪を犯していない人に対し適用されるものなので,この病院とは関係ない。  精神科病院があった1978年当時,イタリア国内の精神科病院の患者数は約7万5000人だったが,今現在は,精神病の患者数がどのくらいかわかりにくい。というのも,精神科病院があった時点では入院患者数を数えればよかったが,今は治療方法が変わり,できるだけ在宅で治療をすることになった。このため正確に精神障がいのある者の数を数えるのが難しい。1978年当時とは社会が大分変わったので,個人的には全体的に増えたのではないかと思う。  実際,最初の法180号が施行された当初5,6年は,イタリア全体の司法精神科病院で入所する患者数が増えた。1980〜1985年のあいだに約20%増加した。 イタリアには6つの大きな司法精神科病院があるが,それ以外に地方の施設があり,自由だが監視の下で治療を受ける方法もある。裁判にかかっても必ず司法精神科病院に入るわけではなく,程度等によって違うシステムで治療を受ける場合もある。地域での治療がうまくいくかどうかによって,司法精神科病院に入所する患者の人数が変動する。 Q 先ほど当初20%増えたといわれたが,その状態で落ち着いているのか,減ってはいないのか? A 20%増え,その後少しずつ減り,現在は落ち着いた状態で,6つの病院合わせ1000から1200人の患者がいる。  実際イタリアでは,病院に収容されていないが精神的問題を抱えている人たちが刑務所に入っている。というのも司法精神科病院に患者が入院することは,国にとっても金銭的負担となるので,精神に障がいのある人が必ずしも全員司法精神科病院に入院するとは限らない。 Q 法180号後,地域精神保健サービスが発達し,在宅での治療が豊かになってきたと聞いている。退院後も司法精神科病院との連携があり,継続した治療を受けられることから,罪を犯す人も減っているのではないか。 A 退院したあと,地域の施設でさらに治療を続け,犯罪が減っていることは確かである。今後司法精神科病院をなくした後,増えていくのが地域精神保健センターであり,10万人につき1つの施設を作る予定である。州に一つと言ったが(以下の「地域精神保健センターへの移行」),人口により複数設立されることもある。 Q 地域の施設というのは,入院する施設のことか,それとも治療共同体のことか? A 地方公衆衛生局(Azienda Sanitaria Locale,ASL)というのが管理している機関である。予算は国と州から出る。地方公衆衛生局の中では,依存症対策部,精神保健部(DSM)が実際の事業を行う。例えばロンバルデア州には13の市があり,地方公衆衛生局は13機関ある。治療機関の数はどのように決まるかというと,精神保健部は住民人口10万人に付き1つ設置される。精神保健部1つに対し,必ず1つ精神障がいの部門が設けられ,最高で15人の患者が入る。ここでTSO(前述)のケースを扱う。SPDCとは精神障がいに関する治療サービスを扱う部門のことである。 Q 病院の治療という概念は文化のあり方と結びついているが,治療概念,治療のあり方が変化をしているのか? A 職業訓練を受けさせる,表現アートに関わらせる,文章を書かせるなどのサービス(心理社会サービス)を行っている。院内の約90%の患者が裁判官の許可を受け,毎日100キロの範囲内で外出することを許可されている。そういった患者に対してはいろいろなプログラムを提供することができる。サッカ−,卓球,バレーボールなど地域のチームの練習に参加をしに行く,逆にチームが病院内に来て一緒に活動することもある。外出するときはスタッフが同行する。 Q 地域精神保健センターへの移行に関してはいかがか。 A 2013年イタリアでは法律が制定され,1年間のあいだに6つある司法精神科病院を閉鎖し,各州に1つの地域精神保健センター(内情は司法精神科病院と基本的に変らない)を開くことにした。  私たちとしては今回の国の判断に賛成である。今の状態だと,かなり遠いところからも患者が来るので,退院時や家族との距離という問題がある。施設の数を増やし,施設1つあたりの患者の数も減らせば,効率的に治療を行うこともできるのではないかと考えている。  その法律は2014年施行であるが,実際は時間的に間に合っていない。さらにこの1年をかけて6つの病院を閉鎖し,新しい病院へ移行することになっている。ただ,具体的にはまだ何も動いていない。  司法精神科病院を閉鎖して地域精神保健センターに移行する背景には,もともとイタリアでは,1980年代,一般の精神科病院においても,数少ない精神科病院に大勢の患者が集まるという,今の司法精神科病院と同じような状況があった。それが80年代半ばにかけて,治療機関を作るなど地域で治療していこうという大きな変化があった。それを司法精神科病院にも適用していこうということにある。罪を犯す精神疾患を持った人が増えたからということではない。 地域精神保健センターの規模は,最大で20人である。 Q 司法精神科病院はイタリア全土で6つ,ここカリスティローネ司法精神科病院で280人収容されているが,そのような小さな施設で足りるのか? A 思ったとおりに機能するかはわからない。精神状態が不安定な入院してきたばかりの患者に対する治療や対処,精神状態が落ち着いている退院直前の患者への対処など,精神状態にあわせた対処が必要であるが,ここは大きい施設なので対応可能である。精神状態の異なる患者を20人規模の小さな施設で一緒に扱うことは困難なのではないか。 e 施設見学 入り口では,パスポートを預けたが,特にセキュリティチェックを受けることはなかった。入ってすぐのところに,大きな食堂のような部屋があり,そこで,患者と家族が面会をしていた。個別の仕切りはなく,皆で,それぞれ談笑していた。特に監視をする人がついているようにも思えなかった。 事務棟で説明を受けた後,患者がいる棟に案内してもらった。男子棟と女子棟との間は,網のフェンスで区切られ,フェンスの門は施錠されていたが,個々の建物は施錠されていなかった。男子棟のカフェには,女性の患者も多数来ており,お茶を飲んでいるカップルもいた。処遇が進んでいる患者は,昼間は男女混合で過ごしているとのことであった。患者はお国柄か,フレンドリーな人が多く,一生懸命英語で話しかけてきてくれた。 セキュリティが厳重で,本人に会うまでにいくつもの鍵を開けてもらわなければならない日本の医療観察法の精神科病院とは,かなり印象が異なっており,とても開放的であった。 ただ,法律上は,1年以内に閉鎖することになっているというのに,職員もあまり気にしている風でもなく,その気配はまったく窺われなかった。 (2)ボローニャ社会内刑執行支援事務所(UEPE) a 視察概要 日 時:2014年4月4日 午前10時から午後3時30分 対応者:所長 アントニオ氏 b 訪問先概要 ア 社会内刑執行支援事務所とは,矯正処分監督裁判所(Tribunale di Sorveglianza:TDS) からの要請で,拘禁の代替刑を決めていく司法省の機関である。日本の家裁調査官が行っているような社会調査を実施する。医療的・福祉的措置が必要な受刑者については自宅拘禁等の拘禁代替刑の必要性を検討し,その結果を社会調査報告書として矯正処分監督裁判所へ提出する。 日本の保護観察所と類似しているが,社会内刑執行支援事務所は刑務所内での処遇にも関与し,直接受刑者と関わりながら支援が進められる。 イ 矯正処分監督裁判所は,判決と刑執行(刑務所送致)との間に,宣告刑の具体的な執行方法を検討する裁判所である。イタリアでは,自由刑が宣告され,確定すると,受刑者の申請によりほぼ自動的に(形式的には検察官の権限),ほとんどの刑の執行が一時的に停止されて,その間に拘禁代替刑が検討される。 ウ イタリアでは,刑が執行されるか否かについて次の3段階がある。 @刑が決まった段階で刑務所に入って刑が執行される A刑が決まった段階で,代替拘禁を選ぶ。 B刑執行中(刑務所在監中)に申請することもできる。 エ 拘禁代替刑としては,5種類のものが有る。 @ソーシャルワーク(保護観察の下での社会奉仕) ベルルスコーニ元首相が選択したものである。 A自宅拘禁(福祉施設含む) B保護観察 C部分拘禁 D社会奉仕〜ソーシャルワークと社会奉仕は全く別のもの。 オ 代替刑について 保護観察をするには刑が4年以上であってはいけない。刑が4年以内であれば保護観察が可能となる。 実刑中の場合,残りの刑期が4年以内であれば保護観察に変えることが可能である。 ただ,麻薬,アルコール中毒の依存症の場合は,実刑の年数,又は残った服役年数が6年以内(「4年」ではなく「6年」)となる。こうした依存症の場合は,特別な機関により治療のプログラムが決められることが前提。 地方公衆衛生局(Azienda Sanitaria Locale:ASL)下にある地域保健センターが司法機関と共に依存症の治療プログラムを決めている。地域保健センターの方で本人を治療するのに適切であるかの判断を下す。 治療方法としては2つの方法がある。1つは,コミュニティーに入って薬物やアルコール依存から抜けること。2つ目は,自宅に帰り,専門家の助言を受けながら治療をする。どちらも定期的な検査(尿検査)を行い,薬物やアルコールを摂取していないか検査を受ける。 治療のプログラムと同時に,矯正処分監督裁判所で決められた規則に従う必要がある。規則とは,例えば21時までに帰宅しなければならないとか,犯罪に関わった人間と会ってはいけないとか,在住の市から出てはいけない(行動の範囲)など,さらに治療プログラムに沿った生活をしていく。このプログラムや規則を社会内刑執行支援事務所で監督して,裁判所に報告する。 6か月おきにコントロールがあり,代替拘禁の間に遵守した生活をしていれば,社会内刑執行支援事務所と裁判所との判断で刑期が短縮されることがある。基本的には1年間に3か月が短縮される。 保護観察(代替刑)の期間が終了した時点で,この事務所から,同時に専門機関(地方公衆衛生局)の両方から裁判所へ報告書が送られる。刑期の間,受刑者がどのような行いをしてきたかが確認され,最終的に,裁判所でOKがでれば刑が終了したことになる。 裁判長,裁判官,二人の専門家の判断により終了が認められる。 カ データ イタリア全土で,2014年3月末段階で,代替拘禁を受けている者は3万53人である。内訳としては,保護観察が1万1234人,自宅拘禁が1万152人,部分拘禁が815人,社会奉仕が4628人,監督処分が3005人,その他219人(2010年1月31日現在)である。 実刑を受け,刑務所に収容されている人は,6万167人(2014年3月31日現在)である。したがって,代替拘禁を受けている人を合わせると,全体で約9万人が実刑の宣告刑を受けていることになる。ただ,イタリアでは毎年250〜300万件の犯罪(全ての犯罪)がある。イタリアの人口は約6000万人である。 保護観察を受けている人のうち,約4000人が,刑務所の実刑中に代替拘禁に切り替えられた人である。残りは,実刑に入る前に代替拘禁として保護観察が選択された数である。 c ボローニャ社会内刑執行支援事務所の概要 (写真挿入) ボローニャ社会内刑執行支援事務所のパンフレット「サービスのてびき」の表紙の写真が挿入されている。表紙の下部にエミリア=ロマーニャ州の地図が描かれており、ほぼ中央にボローニャ県があり、その北側にフェラーラ県が位置している。 ア 管轄と職員構成 ボローニャ市のうち,9万5000人の住人の地域と,フェラーラ地区を管轄している。ボローニャ市はイタリア共和国北部にある都市で,その周辺地域を含む人口約37万人の基礎自治体(コムーネ)である。エミリア=ロマーニャ州の州都であり,ボローニャ県の県都でもある。フェラーラは,イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州に属する県のひとつである。 職員構成は,12人のソーシャルワーカーが所属している。そのうち,フェラーラ管轄のソーシャルワーカーは4人である。心理士が2人,会計が2人である。そのほか,警察官が2名配置されており,こちらでのデータを管理している。 なお,イタリア全体では社会内刑執行支援事務所事務所で働いているソーシャルワーカーの数は約1000人である。スタッフの数が圧倒的に足りないとのことである。 イ 取扱件数 @ 保護観察:230人。 A 自宅拘禁:160人。身体や精神的な障がいがある人が多い。許可を受ければ外出が可能である。その場合,例えばボランティア活動に必要な時間として1日2時間〜4時間等の条件がつけられる。外出許可は代替拘禁が決まる前の段階でその人の人格等を考慮して決められる。基本的に外出時に付添があるということはない。  自宅だけでなく,福祉施設を拘禁場所と指定することもできる。その場合でも,援助や監督的な役割を果たすのは社会内刑執行支援事務所である。もし問題があれば,社会内刑執行支援事務所から裁判所へ報告をして,代替刑の条件を見直しされたりする。 B 部分拘禁:9人。他に比べて少ない理由は,刑期の半分又は3分の2を過ぎた人を対象としているためである。朝,刑務所から登校や出勤をして,夕方刑務所に戻るが,基本的には会社や同僚も知っているケースが多い。代替刑を決める段階で,環境についても調査する。仕事先等は事前の協議の下で決める。社会調査報告書で,家族の状況や,生計,刑務所内(期間)における振る舞いについての刑務官の報告等を資料として,プログラムを決めていく。基本的には本人か弁護士から,部分拘禁をしたいという要請があって,代替刑が選ばれるので,仕事先も,自分側で探してくるが,仕事先等に候補がない場合,社会内刑執行支援事務所が国や地域の支援を受けているプログラムを紹介することになる。 d 代替刑選択の仕組み ア 代替刑選択の申請 例えば知的障がいがあって,自分でこういう仕事がしたいという希望が言えない場合でも,刑務所内ではエジュケーター等のオペレーターがいて,面接で,本人の希望や問題等を話す機会が作られている。一人の担当者ではなく,複数人が関わることになっているので,希望が言えなくてそのまま刑務所へ行かされてしまうというケースは少ないと思われる。本人等の申請がなくとも,周囲が代替刑を提案できないか検討されるような仕組みになっている。本人の申請がなくても,裁判所による方法の提示はできる。強制はできないが,本人の同意があれば,代替刑を選択することができる。代替拘禁の機会が多いのは,イタリア憲法27条(1948年制定)においては,刑罰は,人道的なものではなくてはならず,更生を目的とすべきことが定められ,それが基本になっているからである。刑務所内でも刑務所外でも,色々なチャンスが保障されている。 実刑途中で代替拘禁へ切り替えようとする場合,申請権者は本人,家族,弁護士である。さらに,刑務所自体から,「刑務所内での振る舞いが良い」ので代替刑はどうか,と提案するということもある。 矯正処分監督裁判所審理の段階では弁護士が必要的に選任される。自分で弁護士を付けられない場合,社会内刑執行支援事務所から弁護士を派遣する。年収制限はあるが,国の費用で賄われる。矯正処分監督裁判所審理は,書類等が揃っているので,裁判所にいる時間は数分である。それ以前の通常の審理(刑を決める裁判)は何年もかかる。 (写真挿入) アントニオ所長を写した写真が挿入されている。所長のオフィスにて。後方にお気に入りの絵が飾ってある。バイクに乗って去っていく男の後ろ姿が描かれており、横にイタリア語で”CARO DARIO” と題した文書が書かれている。 イ 社会調査報告書の作成の手順 @ 社会内刑執行支援事務所への依頼経緯 刑務所に入る前の段階で,@裁判所から直接社会内刑執行支援事務所に申請が来る場合と,A実刑中に刑務所側から社会内刑執行支援事務所に申請が来る場合の2つのパターンがある。  対象者の名前,住所,刑の内容等の記載された書類が社会内刑執行支援事務所へ届けられ,調査が開始する。 A 調査の内容及び手順 社会内刑執行支援事務所で,社会状況,仕事の状況,生計,健康状態等を,審理の日までに調査する。  まず,本人を社会内刑執行支援事務所に呼んで面接して,事情を聴く。その後,家を訪問する。そこで家族に会う機会もある。仕事をしている場合は,仕事先へ訪問する。又は担当者に社会内刑執行支援事務所まで来てもらい,確認することもある。社会奉仕等,その後どういった施設に送ることができるかも考えるので,依存症患者の場合は治療するセンターなど。本人がもっている問題や状況に応じて,施設との連携をとっていく。 B 代替刑の手順  代替拘禁の申請は本人が直接社会内刑執行支援事務所にきて,弁護士がいないけれども代替拘禁の可能性がないかと相談に来るケースもある。弁護士が代理して申請がある場合もある。本人が相談に来た場合は代替拘禁申請の援助を行う。  代替拘禁を希望しても,家族がいないとか,家族には頼れない場合,別施設など,地域の社会内サービス等を使用して,代替拘禁の可能性を探る。グループで生活するような選択も検討する。イタリアでは「家族」が基本なので,よほど本人に問題がなければ家族が受け入れてくれるため,家族が「受け入れたくない」というケースはさほど多いわけではない。  エミリア=ロマーニャ州では,家族等を頼りにできない場合に,コミュニティーへ連れて行って社会保障をしたり,仕事の紹介をしたりして社会内更生をしようというプログラム(ACERO:アーチェロ〜受け入れて仕事をさせようという意味の略語)が導入されている。フェラーラ,リミニ,レッジョイミニアの3つの施設がこのプロジェクトに参加しており,現在45名がその施設に入っている。一人当たり,1日45ユーロが刑務所の機関から助成されている。州からは仕事を与えるための費用が与えられている。この45ユーロは,コミュニティーの運営費を含めた生活費全般に充てられる。 ウ 保護観察の具体的な方法 面接又は電話連絡は,平均15日おきに行う。問題がある人は頻度も高くなるので,人やケースによって異なる。 罪を犯し,裁判を経た後,社会内刑執行支援事務所への申請から保護観察の決定までは時間がかかる。その間で生活が安定して戻っているケースも多いので,実は定期的な面接のみで対応できることもある。ただし,問題が大きければ毎週とか,週2回とか,面談することもある。最近起きたケースでは,本人から妻に追い出された,どうしようという話もあった。色々な形でフォローをしている。 保護観察をする中で,障がいのある人の割合について,身体障がいや知的障がいのある人のデータはない。ただ,数は多くない印象はある。それよりも,依存症のケースが多い。最近はスロットゲーム等の依存症が増えていて心配である。2013年度では,保護観察540人中180人が依存症である。 エ 保護観察中の再犯率 2005年の段階で,再犯率の調査があった。調査方法は,刑務所で実刑を済ませたケースと代替拘禁のケースに分けて,5年間の再犯率を調べた。対象は8800件で調査。刑務所での再犯率は68.7%,代替拘禁の場合の再犯率は約19%であった。依存症患者の30%が再犯をおかしていた。 オ 刑期満了後の支援 申請があった場合には,服役後又は代替拘禁終了後,6か月間支援を行っている。満期終了後も支援を行う理由は,悩みごとを話す必要がある人が多いからである。例えば,実刑が終わっても,他のケースで裁判途中である場合もあり,そういう相談に関わることがある。又は,実刑中や代替拘禁中に社会サービス(職業訓練等)に関わっている場合に,施設との関わりの仲介を続けていくことがある。社会内刑執行支援事務所に来るのは一番弱い層で,移民,依存症患者,心理的・精神的問題を抱えた人,家族内の問題を抱えた人が来るケースが多い。ここで初めて,人として(犯人扱いでも差別扱いもなく)まともな対応を受けたという人もいる。 カ 精神障がいのある人への支援との関係 基本的に,精神疾患がある場合,司法精神科病院に行くようなシステムになっているので,病院にいる間は社会内刑執行支援事務所は関わらない。 ただ,病院で症状が安定してきた場合,又は,あまり症状が重くない場合,地域生活に移行することが検討される。そのようなとき,精神保健部(Dipartimento di Salute Mentale:DSM)と連絡をとり,地域生活を調整していく。 対象者については,裁判所から,1年に1回,精神保健部と社会内刑執行支援事務所に連絡が入り,本人の様子を確認し,治療を続けて行くべきか,管理状態を緩めるかどうかの審理をする。 社会内刑執行支援事務所,精神保健部,警察を宛先にした書面が届くが,対象者の個人情報,犯罪とのかかわり等が記載され,「何月何日の審理までに有効な情報を提出すること」が求められる。 対象者によっては,危険性が続いている場合は,管理期間が延びてしまうこともある。また,病状によっては「完治」という概念がありえないこともあるし(安定という状況はあるとしても),薬等で安定しないこともある。そのような場合,管理機関が長期間になってしまう。 依存症については,依存局(DPD)と同じように連携している。 キ 代替拘禁の審理 ボローニャでは週に2回,代替拘禁の審理が行われている。1回に約40〜50のケースを扱っている。 執行猶予に該当する制度はない。代替拘禁中に取り消された場合,残りの刑が刑務所で執行される。代替刑中に再犯に及んだときには,再度代替刑を受けられないので,懲役刑に服する必要がある。 代替刑中に規則を破ったときは,社会内刑執行支援事務所へ報告が来る。すぐにどうというわけではないが,検査が入る。 ク 代替拘禁の課題 イタリアの仕組みとして,最初から,宣告刑として「代替拘禁」が言い渡されることはなく,1度刑が出た後に時間をかけて代替拘禁の判断をするというものであるので,時間のロスを防ぐという意味で直接代替拘禁を選択できるとよいと思う。 裁判の段階で,被告人の情報が来て,こちらで調査をして,宣告刑の言渡しの前に,どういった代替刑が可能か,実刑が妥当かの判断ができると良い。 また,いろんな意味で資源が足りない。ネットワークはあるが,もっと資源があると良い。イタリアはボランティアが充実しているし,質もいいので,ボランティアも人的資源の一つである。例えば,ボローニャでは900人が刑務所に収容されているが,刑務所内に所属しているボランティアが50人おり,いろんな活動に参加している。さらに,刑務所を出た後もすぐに問題があったりするので,ネットワークを利用できる。ボランティアに連絡をして仕事や住居のあっせんをしている。 ケ 代替刑の期間等 代替刑の期間は宣告刑の期間と基本的には同じである。ただ,減刑の期間が違うので,結果的に異なることになる。なぜなら,刑務所では6か月ごとに75日の減刑がありうるが,代替刑の場合6か月ごとに45日減刑されるからである。 代替刑の審査にはどの程度かかるかであるが,刑務所に入っている人が優先される。9か月の審査期間が必要となる。そのため,在宅の人は数年判断を待っている状態である。その間執行停止されるという仕組みである。したがって,10年前に判決を受けた事件で,代替刑を開始する例もある。 代替刑執行中の弁護士の関与は,基本的にはない。たまに「どうしていますか?」という問い合わせがあることもある。矯正処分監督裁判所での代替刑審判中には弁護士の関与はある。 e 刑務所関連 ア 刑務所内の人の属性 刑務所で実刑を受けている者(約6万人)のうち,約2万人が外国人である。 ボローニャの刑務所には900人の人が服役している。うち,350人がイタリア人,500人が外国人である。女性は35人がイタリア人で,30人が外国人である。ボローニャの刑務所には,毎年約400人の人が入る。 刑務所内には,障がいのある人もいるが,最初から障がいのある人であることがわかっていれば基本的には代替拘禁となる。自宅又は施設による自宅拘禁となる。刑務所に入った後の段階で,障がいがあることが確認されれば,その段階で代替拘禁が選択される。 ただ,裁判所は,障がいや健康の問題がある場合でも,その人自身の社会に対する危険性と障がいの問題の両方を見て判断する。もし大変危険な人物であり,障がいの程度や病気の程度が低い場合には刑務所に送る。例えばパルマの刑務所には,障がいのある人専門のセクション(身体障がい)がある。同刑務所には,地方公衆衛生局が管轄する治療と診断のセンターがあり,受刑者の健康状態を管理している。なお,基本的には,障がいがあっても刑務所へ送られるというのは,精神障がいよりも身体障がいである。 イ 拘禁が繰り返される人 イタリアでも,拘禁が繰り返される人としては,依存症の患者が多い。数日拘禁されて,代替拘禁で自宅に戻り,その間に再犯に及んでしまうこともある。 なお,イタリアでは,犯罪が非常に多いので,勾留場所が全く足りていないため,数日勾留して自宅へ戻すことが多い。 ウ 刑務所の事情 刑務所が過剰収容で,足りていない状態である。アルバニア人,モロッコ人等の移民が非常に多い。イタリアでは当該移民の居住する地域の刑務所へ収監されるようになっている。EUの裁判所からは,イタリアは刑務所の管理・環境の状態が悪く,過剰収容であると判断されている。刑務所内の扱いが悪いということで,申告がされることもある。 知的障がいについて専門性のある刑務所はない。しかし,基本的には,刑務所内でも,刑務所外で行われている医師や心理士による保健サービスが受けられることになっている。ただ,地域差があり,ボローニャはしっかり医師等がそろっているが,南部では保健サービスそろっていないところもある。 エ 刑務所の地区について イタリアでは,基本的に,本人の住む地域(州)の刑務所に収監されるようにしている。希望を出すことはできる。もっとも,刑務所が過剰収容の状態であるので,希望が通らず,遠方の刑務所へ送られることもあるが,それほど多くはない。 イタリア全土で6万人が刑務所に入っているが,収容可能人数は4万5000人で,超過収容状態である。そのため,イタリアでもEUでも種々の対策を講じているが,まだ,功を奏していない。 オ ボローニャ刑務所の医師の内訳 公衆衛生局の担当医師が3人,6名の交替で担当している。それ以外に,精神科医が3人,感染症に関する医師が1人,心臓疾患に関する医師が2人,産婦人科医が1人,歯科医が1人,耳鼻科医が1人,採血専門の医師が1人,刑務所内の麻薬中毒専門の医師が1人である。 f その他 生活保護制度は,イタリア全体で保障されている(住居を与えたり,施設処遇としたり)が,イタリアは南北で貧富の差があり,その内容が違う可能性はある。 刑務所内の処遇や代替刑執行中について権利を護るための保証人制度がある。保証人には,弁護士がその役割を担っている。ボローニャに1人,フェラーラに1人,州に1人,国にもいる。 刑務所処遇に関するテキストがあり,英語版,フランス語版など,数か国語に翻訳もされている。日本語版はない。 イタリアでは,罪を犯したからというだけでは仕事をクビにできない。また,移民で違法滞在者であっても,代替拘禁刑中は在留資格があることになり,仕事を探したりできる。普通のイタリア人と同じ権利が認められる。代替拘禁期間が終わると滞在許可がないということになる。 刑務所に在監中でも,市内に出て,落書きを消したり,社会奉仕に従事することがある。飲酒運転で捕まった時,代替刑として社会奉仕に従事する,ということがよくある。 経済危機と関連して,犯罪が増えてしまっている。10万人に対して,強盗が12件の割合である。 日本では,刑期を終えた後も仕事に復帰できず,貧困が続いて100円のパンを盗んでも実刑となってしまうことがあるが,イタリアでも同じようなケースはある。イタリアで偽物の「パルマのハム」を作って4か月の刑を受けたという人もいる。 刑務所から釈放されるとき,以前は緊急対応用のキットを渡していた。しかし,今は経済危機で廃止された。ちなみに,イタリアの人口は6000万人(日本は1億2000万人)に対して,弁護士の数は25万人(日本は3万6000人)である。 3 まとめ(感想にかえて) 今回,司法に関して視察したのは2か所であったが,両所とも大変有意義な視察であった。 憲法に更生を謳うイタリアの刑事司法の仕組みは,日本のそれとは根本的に異なるが,障がいのある人が犯罪行為をしたとしても,社会から隔離することなく,それぞれの障がいの程度や特性に応じた更生支援を図り,矯正施設によらずに,社会内において必要・適切な支援に繋げて社会内処遇を行う仕組みは,日本においても大変参考になると思われる。 特に,代替刑の種類が豊富であって,柔軟であるので,障がいのある人にもそれぞれの障がい特性に応じた代替刑対応が可能となっている。また,それを決定するために,専門の裁判所である矯正処分監督裁判所が設けられていることも興味深い。 また,イタリアでは,2013年制定された法律で,現在イタリア全土で6つある大規模な司法精神科病院を閉鎖し,各州に1つの小規模(20人以下)な司法精神科病院(地域精神保健センター)を置くことにした。保安病院であっても,それまで居住していた地域から遠く離れた場所ではなく,地域の中に置いて,地域に戻りやすくしようというものである。また,小規模にすることで,各人に対してきめ細やかな配慮が可能となる。一般の精神科病院に遅れること30年ほどでようやく司法精神科病院でも地域への移行が行われることとなった。ただ,現実には,一般の精神科病院でも地域差があり,北部のトリエステと南部のナポリではかなり現状には違いがあるようである。司法精神科病院についても,今後の法施行後の動きを見ていく必要がある。 なお,今回の視察で,大変印象的だったのは,世界に先駆けて精神科病院を廃止したトリエステが,どこよりも治安が良いことであった。夜遅くに,女性や子どもたちが楽しそうに出歩いているところをよく見かけたが,逆にパトカーや警察官の姿はあまり見かけなかった。イタリア全体では,日本に比べて犯罪検挙者は非常に多く,刑務所に収容されている者も多いのに,トリエステは,安全な街という印象を受けた。司法精神科病院への収容者数も,法180号の施行前と後とでは,それほど差はないという話を聞いたが,精神障がいのある人を閉じ込めておかないと,犯罪が増えるというのは,まったくの偏見と迷信であるとの思いを改めて強くした。