第23回定期総会・国民の知る権利に関する宣言

(宣言)

国政は主権者たる国民の信託に由来するものであり、国民は主権者として国政を知る権利を有する。国民の知る権利は、国民主権と表裏一体をなす、至高の基本的人権であるといわなければならない。民主主義のもとにおいては、国民の知る権利は最大限に尊重せらるべきであって、国家機密のごときも主権者たる国民の前には原則として存在を許されないものであり、極めて例外的に、国民の利益のためにのみ最少の限度において認められるにすぎない。


基本的人権の擁護を使命とするわれわれは、国民の知る権利の擁護に全力を尽くすとともに、国家機密保護法制定のごとき逆行的傾向を断固阻止する。


右宣言する。


1972年(昭和47年)5月20日
第23回定期総会


理由

戦前、いわゆる「法律の留保」のもとに辛うじて言論・出版の自由が認められ、したがって、各種の立法により言論・出版の自由が形骸化した暗黒の時代と異なり、現行憲法のもとにおいては、言論・出版・表現の自由は基本的人権のなかでも最も基本的な権利として強力に保障されている。民主主義のもとにおいては、国政が立法、行政、司法の全分野にわたって、主権者たる国民の批判にさらされるべきことは当然である。しかしながら、批判が真に有効であるためには、十分な情報に基づいていなければならない。したがって、国政が国民の信託に基づいて運用される代議制民主制度の健全な運用のためには、言論・出版・表現の自由が保障されているだけでは不十分であり、その前提として、国民の知る権利を確立する必要がある。


思うに、国政の隅々に至るまで知悉する権能は統治権と一体不可分であって、統治を意味する古語の「しろしめす」が「知る」と同義であることは、この間の消息を示すものである。すなはち、国民の知る権利は国民主催を別な言葉で言い現わしたものといってもよい。戦前、国民に対して網の目のごとく張りめぐらされた国家機密も、統治権を総攬した主権者には自由に接近を許すものであったのと同じく、今日、主権を有する国民の前には、本来国家機密のごときは、原則として存在を許されない。われわれは、1971年のベトナム秘密文書報道事件において、米国最高裁判所のダグラス裁判官が「政府内の秘密は、基本的に反民主主義的であって、官僚主義的誤りを永続させることになる。公の争点を公開で議論し討議することは、われわれの国の健康にとって肝要である。」と述べた意見を想起しなければならない。


国民主権のもとにおいて国民に対する為政者の秘密のごときが存在を認められるとすれば、それは、国民の利益のために国民自身が秘密にすることを為政者に命じたものに限られ、したがって量的には、最少に止めるべきであり、それも極めて特殊な状況のもとに例外的にしか認めることはできないのである。


右のような国民の知る権利は、表現の自由が最大限に尊重されることにより最も効果的に実現されるものであり、新聞その他の報道機関は、社会の公器として、国民に正しい判断資料を提供し、国民の知る権利に奉仕するものであることはいうまでもない。


この表現の自由が達成されるためには取材の自由は不可欠な条件であり、取材の自由が確保されるためには、取材源の秘匿が重要な条件である。けだし、取材源の秘匿についての信頼がなければ国民は安んじて情報を提供することができず、貝のごとく口をつぐむ秘密主義に陥る危険性があるからである。


それゆえに、報道関係者が取材源を絶対に公開しないことは最高の職業倫理として広く世界的に承認されたものであることに想到するとき、報道機関の取材源に対する慎重な取り扱いは、取材の自由の保障のために今後ますます強く要請されるであろうことを見落してはならない。


このように考えてくると、最近、政府の一部にあるという国家機密保護法制定の意図のごときは、国民主権の憲法の精神に抵触する時代逆行的なものであることは明らかであり、基本的人権の擁護を職責とする弁護士として到底これを黙視することはできない。


よって右のとおり宣言するものである。


昭和47年5月20日
日本弁護士連合会