「人体実験」に関する第三者審査委員会制度の確立に関する決議

本文

医療は、人間の生命と健康を守るための技術である。しかし医療の進歩の歴史は、人体実験の歴史でもある。精神障害者、施設に預けられた乳幼児、貧困者などの社会的弱者が数多く被験者とされてきた事実をわれわれは直視しなければならない。また新薬の開発に伴ういわゆる臨床試験において、大学病院などの患者多数が全国各地で被験者とされており、これを看過することもできない。


人体実験は、科学、医学の見地から妥当でない場合は言うに及ばず、日常治療の一環であるかの装いのもとに患者に知らせずに、または被験者を断れない状況に置いて行なうことも、生命、健康、自由に対する人権の侵害であって許されない。


われわれはここに、人体実験に携わる医師、研究者、人体実験の実施される大学病院などが、国際人権規約、ヘルシンキ宣言などを指針として、人体実験についての医療倫理規範を定立し、その遵守に努めるとともに、次のことがらを実現するよう提言する。


  1. 大学病院などは、人体実験についての第三者審査委員会を設置し、委員会の事前承認を実験実施の条件とする制度を確立すべきである。第三者としては、動物実験などのデータや人体実験の計画管理について科学的評価のできる基礎医学系医師、および、被験者が実験の目的、方法、危険性などについて充分に情報を与えられたうえ任意の承諾を与えたかどうかについて法的評価のできる法律家を加えること。
    これらの者は、いずれも大学病院などと雇用関係があってはならない。
  2. 人体実験の結果については、情報を与えられたうえでの被験者の任意の承諾が得られ、かつ、第三者審査委員会の承認が得られている旨明示してある研究についてのみ学会、機関誌などに発表の機会が与えられるべきである。

右決議する。


昭和55年11月8日
日本弁護士連合会


理由

人体実験は、研究者や製薬企業の興味のみで行われることがある。この場合は専ら知識獲得を目的とし、被験者には何ら直接役に立たない。人体実験はまた、病気の予防、検査、診断または治療などに役立つかどうかを調べる目的で行われることもある。この場合、被験者に直接役立つかどうかは、個々の被験者の状況によって異なる。


新薬や新しい手術の方法などの新治療法、新しい予防法、診断法、検査法などを開発する場合、動物をもって完全に人間に代用することができない以上、動物実験段階と人体への適応を確立する段階の中間に、人体実験の段階を経なければならないのは止むを得ないであろう。また、あらゆる科学を総動員して医療技術の進歩を追求している研究至上主義の今日において、その実用化の過程において必然的に多くの人体実験を伴うものと思われる。しかし、いかなる場合においても、医学の進歩の美名のもとに、人間が医学研究の単なる客体として犠牲に供されることがあってはならない。


人体実験とは、主として健康、科学および人類の福祉を目的とし、意図的に、個人または集団の、身体または精神の機能を、直接または間接に、誘導または変更すること(ラディマー)なとど定義されるが、人体実験を社会が制禦する場合は、これを狭く限定するべきではない。実験か治療かの境界は、必ずしも明らかではないからである。


強制収容所での悲惨な体験を告発する医師裁判の成果として1947年にその判決理由のなかからニュルンベルク原則が生まれた。世界医師会は、ジュネーブ宣言、国際医師倫理網領などを経て、1964年の第18回総会においてヘルシンキ宣言を採択し、許されない人体実験と許される人体実験の基準、許される場合には、そのとるべき厳格な手続きについて定めた。さらに1975年の東京総会では、このヘルシンキ宣言は大きく改訂されている。とくに基本原則第2条は、人体実験の基準や手続き違反がないかどうかを、実験を行う者から独立した第三者たる「独立委員会」に審査させることとした。また第八条は、宣言の諸原則に従わない人体実験の結果は発表してはならない旨新しく規定している。英米においては、これらに呼応して、独立委員会の設置が、例えば施設内審査委員会(IRB)などのように既に常態化しており、また、研究論文発表については、ヘルシンキ宣言に従っていることが学会誌などへの投稿の条件となっている。


しかるに、これらの動きに対するわが国医学会の対応は極めて鈍い。わが国でも、例えば、名古屋市立医科大学小児科の乳児院収容児人体実験事件に対する日弁連人権委員会の警告(一九五五年)、新潟大学医学部恙虫病人体実験事件に対する日弁連人権擁護委員会の警告(一九五七年)、新薬キセナラミン事件に対する法務局の勧告(一九六七年)、広島大学原爆放射能医学研究所の癌の人体実験に対する日弁連人権擁護委員会の警告(一九七0年)、いわゆる和田心臓移植事件に対する日弁連第一四回人権擁護大会における宣言、提案など、貴重な反省材料があるにもかかわらず、精神神経学会理事会の例を除けば人体実験の準則すら定立されていない。人体実験の第三者審査委員会制度については、未だに一顧だにされていない、わずかに、新薬のいわゆる臨床試験について、極めて限られた大学病院などにおいて、一種の第三者審査制度が設けられてはいるが、その第三者性は弱く、また被験者の承諾についての法的審査は殆ど行われていない。一方、わが国の医師、研究者によって毎年発表される厖大な量の研究論文のなかで、被験者に充分説明したうえで任意の承諾を得て行われた人体実験が果たしてどれくらいあるであろうか。


このような現状を踏まえて、わが国の医師、研究者など広く人体実験に携わる者総てに対して人体実験についての医療倫理規範の定立、遵守を求め、大学病院、国公立病院、各種研究機関など人体実験が行われる施設に対して、人体実験の第三者審査委員会制度の確立を求め、さらに学会に対しては、研究発表に際してヘルシンキ宣言の遵守を義務づけることを求めるため、本決議案を提案する。